携帯のアラーム一発で起きて、ベッドの上で、うぅんと背伸び。制服に着替えて、食卓テーブルに向かう。
「あらミドリ、おはよぅ」
「おはよぅー」
台所でご飯の支度をしているお母さんと、眠い目をこすりつつ朝の挨拶を交わす。
「最近、ずいぶん早いのねぇ……運動部でもないのに」
「うん? まぁ、ちょっと」
椅子に座ると、目の前に置かれた目玉焼き、カリカリのベーコンからいい匂い。
ほかほか湯気を立てるご飯を持ってきたお母さんは、頬っぺたにえくぼを作りながら、私をじぃっと見た。
「最近なんか、楽しそうじゃない? いい友だちでも見つかった?」
ぎくっとして、一瞬、たぶんすごい真顔になったと思う。
大当たりだ。うわぁ、よくわかるなぁ。
私はお箸を握って少しだけ考えて――にっこり笑って、ことさら元気にこう言うことにした。
「全然! そんなの、いないから!」
なんとなくだけど、さっちゃんのことは誰にも教えたくなかった。ほんの少しでも他の人には知られないでおきたいっていうか、私だけの秘密にしたいんだ。
誰にも見えない私の友だち。
私だけの、友だちだもの。
するとお母さんは、鳩が黒ごまでも投げつけられたような顔をした。そして、ちょっとだけ眉を下げながら「そう……」って小さく漏らして、私に背を向け、お味噌汁をとりに台所に戻った。
部活の練習がある人くらいしか登校してない、教室なんかには誰もいない早朝の学校。その保健室。
「……あんたさあ、よくこんな朝早く来るわね」
「さっちゃんに会えるって思ったら、早起きだって全然平気だもん」
「運動部でも入れば?」
「さっちゃんと話してる方が楽しいし」
「あたしはそんなに楽しくないけどね」
「えぇー、ひどいや」
さっちゃんと落ち着いて会えるのは、この時間帯と昼休みくらいだった。当たり前だけどたいてい椿くんは保健室にいるし、それに、授業中は仮病とか勉強についてけない子とか、本当に具合の悪くなった人とかが逃げ込んできたりする。放課後も部活で怪我した人だとか、受験のことなんかで悩んで、じっくり相談したいって子とかが、ちらほら来たりするらしい。っていうのは全部、さっちゃんが教えてくれたことだった。「面倒くさいのよ。他の奴がいる時に、あんたにまで来られると」、だって。
そんな感じで静かな朝の保健室、ここぞとばかりに私はさっちゃんと交流しまくるのだった。
「さっちゃん、夜はここで寝てるって言ってたよね」
「そうだけど?」
「夜の学校って怖くないの? なにか出そうっていうじゃん……あ、なにか出るなら私に教えてね」
「却下」
えぇー、と文句をたれてみるけれど、さっちゃんは心底うざったそうに脚を組みかえるだけ。
食い下がってもムダっぽいので、仕方なく、私は別の話題を振ってみたりする。
「それにしても、保健室の先生って結構頼られるもんなんだねぇ。悩みとか相談されちゃったりするんだ」
「相談に来るのがほとんど女子だってのがまた、腹立つのよ……」
「へぇー、そうなんだ」
「絶っ対、秋尾先生目当てよあいつら……真剣に悩んでるのも、いるにはいるみたいだけどさあ」
ふぅん、と相槌を打ちながら、私は制服の上から腕をさすった。「もうそろそろ、上からカーディガン羽織ろうかなぁ」なんて、ぼんやり考える。淡い感じの太陽光が射す保健室は、ここ最近でずいぶんひんやりしてきた。
その時ふいに、さっちゃんが秋風みたいに呟いた。
「まあでも、悩み聞いてくれる人がいるだけ、いいわよねえ」
思わず、さっちゃんの顔をまじまじ見つめてしまった。
その表情は、私仕様でちょっとツンケンしてて、いつもと同じ――に見えるけど。
「何よ」
眉間にしわを寄せて、私をうさんくさく眺めるさっちゃん。
だけど私は、目を離せない。
そういえばさっちゃんは、ずぅっと一人だったんだ。誰にも見えないから、声は出せても聞いてくれる人なんかいなくて――
「……さっちゃんの悩みなら、私が聞いてあげる!」
隣に置かれた手をぎゅぅっと握って、私は精一杯真面目な声で宣言した。
今までは一人ぼっちだったさっちゃん。
でも。でも、今は。
私がいるから。
私には、見えるから。
さっちゃんが悲しいことも、楽しいことも、全部、話してほしいんだ。聞いてきたいんだ。
そんな私の言葉に、さっちゃんは驚いたみたいに少ぅしだけ目を見張った――と思ったら、次の瞬間ぷぃっと顔を背けられた。そして、ツンツン突っぱねてくる。
「ミドリに言っても、ろくなアドバイスくれなさそうだし」
「えぇーっ、ひどい!」
「みんなもっとあんたみたいに、悩みゼロです〜って、能天気にしてりゃいいのにねえー」
「私だって悩みくらいあるもん! ひどいや!」
さっちゃんは脚を組み直しながら、私に視線を向けないまんま、「ふん、どうだか」なんて、鼻を鳴らすのだった。
そうこうしてるうちに、さっちゃんは「そろそろ秋尾先生が来る頃だから」って、私を追い出した。
保健室を出て、のんびりのろのろ、廊下を歩く。途中の空き教室なんかに目をとられつつ、階段上がって二階へ到着、それから少し美術室とかを覗いてから、ホームルームぎりぎりで教室に戻る。
クセ、なんだ。人のいない教室に、ぽつんと誰か座ってたりしないかな、それはホントに人間なのかな、もしかしてもしかして――誰にも見えない、なにかがいたりしないかな、って、ついつい探してしまうのは。小学校の頃から――自分に、他の人には見えないものが見えるんだってわかってから、ずぅっと、そんなことばっかり繰り返してきた。
今はまぁ、さっちゃんに会えるだけ、幸せなんだけどね?
まもなく教室に担任の先生が来て、連絡事項もなくホームルームは終わる。ぼぉっとしてるうちにチャイムが鳴った。退屈な、授業の時間が始まる。
あぁ、早く昼休みになんないかなぁ。
そして待ちに待った昼休み。保健室の前まで来たら、中から出てきた椿くんとはち合わせた。
「あ、椿くんやっほー」
「おー、ミドリ」
椿くんが軽く手を上げたところで、その後ろから女の子が「それじゃ、ありがとうございました」と、頭を下げて、廊下を歩いていった。
刹那、目が合う。
なんだか、じとっと……嫌な顔? を、された。
きょとんとしてると、椿くんが話しかけてくる。
「お前、最近本当よく来るなー。何か、保健室でお宝発見でもしたのか?」
「え、ま、まぁね!」
「何かといえば……そういや最近、ドア開く音がしたと思ったのに、確認したら中にも外にも誰もいないってのが結構あるんだよなー……ポルターガイストだったりして」
いいえ、さっちゃんです……なんて、言わないけどね?
あいまいにうなずいてると、椿くんはそんな私の目をじっと見て、急に口調を変えてきた。
「……お前、本当、何しに来てんの?」
「へ?」
「せっかく昼休みなんだからさ、あるだろ、色々。保健室に来る以外」
思いがけないことを言われて、すぐには言葉が出てこない。
責めてるみたいな言い方、なのだ。
だけどその顔は、歯に物がはさまったみたいっていうか、どこか、辛そうに見えるっていうか。
「その――友だちとか、いないのか?」
「え、えと」
ずばり、友だちに会いに保健室に来てるんだけど……
言ったってわかんないだろうし。
言いたくないし。
「うん、いない!」
だから私は、あえて、いきいきと答えた。
そしたら椿くんは、今朝のお母さんみたいな、寝耳にお湯でもかけられたような顔をした。それからなんだか複雑そうに目に影を落として、ぼりぼり頭をかいて、「そうか」なんてぽつりと呟き、どこへやら行っちゃうのだった。
「どうでもいいけど、さっきまで来てた子が、あんたのこと先生に訊いてたわよ」
「んえ?」
椿くんがいなくなって、代わりに現れた私を苦々しくあしらってたさっちゃんが、ふいにそんなことを喋り始めた。
「あんたと違って、正真正銘の病弱っ子で保健室の常連ね。『最近よくいる子、何なんですか? どこか悪いって風には見えないんですけど』、だって」
わざとか細い感じの声を出してみせるさっちゃん。うわぁ、似合わないなぁ。
と密かに思いつつ、私は、さっきの子かな? と記憶の糸をたぐるのだった。さっき、私を睨んでた子。顔とかあんまり覚えてないけど。
「そんなの訊いて、どうするんだろ?」
「ま、あんたのこと、気に入らないんでしょうねえ。用もないのに保健室とか、ふざけんなって話でしょ」
「そうなの?」
「それにあの子、確実に秋尾先生のこと気にしてるしねえ……あーもう! 相手してもらえるだけ、幸せでしょうよ!」
一人、プンスカしだすさっちゃんに目をぱちくりさせながら、私は「ふぅん」とうなずいた。
本当、さっちゃんて椿くん(と、椿くんに近づく子たち)ばっかり見てるなぁ。気づいてもらえないのに。眺めてるだけで飽きないのかなぁ? いつだったか、「美人は三日で飽きるとか言うけど、イケメン見てると時が止まるのよ!」とか叫んでたけど。さっちゃんて、もし普通の人間だったら絶対ストーカーだよね。
なんて、色々考えてたら、いつのまにかさっちゃんが、なにやらじぃっとこっちに視線を注いでいた。
「なに?」
「……あのさあ」
不機嫌そうなのかな? でも、なんか違う? って感じの表情だった。そのまま私からちょっと目をそらして、続けてさっちゃんはぼそっと呟く。
「櫛とか、持ってないの?」
え、くし?
「は?」
「櫛! あんたねえ、何よその、ぼっさぼさの髪は!」
私の頭を指差しながら、やたら早口でまくしたてるさっちゃん。
私は言われて、適当に一本にひっつめた髪の毛に手を当てる。そういえば、そろそろ切る時期かなぁ。
「切るとか以前に、何とかしなさいよ! あーもう! 見てらんない、ほら、後ろ向いて!」
「えぇ?」
戸惑いながらも、言われるがまま、私はさっちゃんに背中を向けた。するとさっちゃんは、「あーもう、あーもう!」とゴムをほどいて、そのままするする、私の髪を手ですき始めるのだった。頭に触れてくる、ちょっと冷えた指先。妙に怒ってるわりに、そんなに痛くもなくて……むしろ、なんだか気持ちいい手つきだった。
「全くもう、ちょっとは見た目に気ぃつかいなさいよね……ミドリは、あたしと違って見えてるんだから」
ぶっきらぼうな声に、ちょっとどきっとさせられる。
「あ、うん。ごめん」
「あたしに謝ってどうすんのよ」
「なんとなく……あ痛っ」
からまった髪の毛を手でぶちっとやられて、私は短く悲鳴を上げた。
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