生きた心地がしないっていうか、生きてるってなんだろって感じだった。
「ミドリ……ご飯、食べなさい?」
ほんのりワカメの香りが漂うお味噌汁、甘い匂いがちょっとしてくる炊きたてのお米、その他色々の朝ご飯を前にしても、私の食欲中枢は全然刺激されないのだった。ぼそりと「いらない」って呟くと、お母さんは「昨日の夜も食べてないじゃない」って、眉を下げて私をうかがった。
だってもう、どうしようもないじゃん。
さっちゃんに絶交宣言なんかされちゃったんだよ?
「私……もう、行くね」
「ミドリ!」
のそのそ椅子から腰を浮かして、部屋に置いてた鞄を取って、なんとなく時計を見た。いつも通りに起きちゃったから、学校に着くのはだいぶ早いだろう。なにして過ごせばいいのかな。
玄関で靴を履く私の背に、お母さんは控えめに声をかけた。
「ねぇ、ミドリ。昨日、椿くんから聞いたっていう話だけど」
「あぁ、精神科医のとこで暮らそうって話?」
幽霊のように振り返って、私はうっそり口を開いた。そんな様子に目を揺らめかせるお母さんは、「精神科医って、そんな、ね?」と、慰めるみたいに屈み込んだ。
「……考えとくよ」
低い声音でそう唱え、ぬっそり私は立ち上がる。それから後ろになんか目もくれず、のこのこ歩き出すのだった。
朝早くの学校は冷たく沈んでるみたいだった。グラウンドでは陸上部の人が駆け抜ける音とか、バットにボールが当たる音とかがしてる。けど、校舎に入ってみれば、そんなのは耳を澄まさなきゃ聞こえてこない。
ごくりと唾を飲み込んで、私は一階保健室のドアノブを握っていた。
――もしかしたら、昨日のはなにかの間違いかも。
そんな淡い期待と、いつも通りにツンケンして出迎えてくれるさっちゃんを思い描いて、深呼吸。
「失礼、しまぁす……」
いつもはしない挨拶なんかして、ゆっくりゆっくり、扉を開く。
電気のついてない薄暗い室内には、はたして、なんにもないのだった。
「さっちゃん……?」
辺りを見回す。照明がなくて灰色っぽく見えるベッドを一つ一つ確認する。ベッドの下を覗き見る。薄灰色のカーテンをかきわける。
誰も、いない。
「さっちゃん」
か細く、呼びかける。けれどもその声は、ろくに響かず、かき消えてく。
「さっちゃん」
さっちゃんの姿が、保健室にない。
「さっちゃん!」
さっちゃんが、消えちゃった?
『見えなくなったら、どうするつもり?』
そんな声が、頭をよぎる。
うそだ。
見えなくなるなんて、そんなわけ、ないじゃん。
呆然としてその場に立ち尽くしたのは、どれくらいだろう。
ふいに、明かりがついて、肩を叩かれた。
さっちゃん!?
「ミドリ」
低めの声に、私は跳ね上がらせた肩をがっくり落とした。
「……椿くん」
後ろにいたのは、見慣れた白衣だった。今は見たくもない、白衣。
「なーにやってんだ、こんな朝早くから。電気もつけずに」
「……別に」
いつも通りの調子で話しかける椿くんに、私はぶすっとして足元を見た。
そうだよ、椿くんが余計なことさえ言わなきゃ、こんなことにはならなかったのに。
「ミドリ……昨日の話だけど」
「行けばいいんでしょ! 精神科医でもなんでも! 行ってやるから、もうほっといてよ!」
椿くんを怒鳴って、精一杯睨みつけて。私は踵を返した。
「ミドリ!」
背中に届く声なんか払いのけて、廊下を駆けだしていく。今は、椿くんなんか、顔も見たくない。
教室の扉を開ける、中に入って見回す、閉める。
繰り返し、繰り返し、学校中の部屋を回り回った。
きっとまだ、さっちゃんは学校にいるよ。私になんにも言わないまま、消えたりなんか、するはずない。
そんな望みを握りしめて、私はひたすら校内を捜し歩いた。
知らないうちにチャイムが鳴っていたらしく、生徒指導の先生に「教室入れ!」なんて叱られる。そんなの知らない。誰もいなくなった廊下をさまよう。ありとあらゆる教室を、練り歩いた。そうするうちに、学校を一回り。
息が切れて、足ががくがく震えた。
さっちゃんは、見つからない。
苦しまぎれに、目の前にあった美術室に入る。さっき確認した通り、誰の姿も見当たらない。広い教室には、古ぼけた机がきれいに並べられてるだけ。
教壇の前まで来て、部屋全体を眺める。本当に――誰も、いない。後ろを向く。黒板。チョーク。四隅に穴の空いた、黒板消し。
「与作ぅ……」
手にとってぎゅぅっと抱きしめると同時に、脚がへなへな崩れ落ちた。
与作とは、突然、引き裂かれてしまった。
さっちゃんとも、これでお別れなの?
「さっちゃん……」
熱い目をつむると、ふちから熱いものがこぼれ出てきた。それはだんだん大きくなって、頬を、首を、流れてく。
「さっちゃん……」
のどの奥になにかつまってるみたいで、熱くて、苦しくて、口から声にもならないものがはみ出てくる。
「さっちゃん……!」
――ねぇ、さっちゃん。
私、さっちゃんに少しは好きになってもらえてたって、思ってた。さっちゃんは椿くん目当てだっていうけど、だんだん、私と会うのも楽しみにしてくれてたんじゃないかって、思ってたんだよ?
だって、嫌な顔するくせに、訊いたことには答えてくれるし。愚痴とか話すし。なんだかんだで私に付き合ってくれて、名前を呼んだら振り向いてくれて。私の名前を呼んでくれて。私をちゃんと、見てくれた。
全部、勘違いだった?
ねぇ、さっちゃん――
「さっちゃん、さっちゃんさっちゃんさっちゃん……」
ぐったりしてクラスに戻って、ろくに頭に入んない授業を耳で流す。
今日もまた修学旅行の話し合いが始まって、私はただただ、置き物みたいに座るだけ。
「初江さん、どうしたの?」
班長さんが、そんな私に気づかわしげな声をかける。
「顔色、悪いけど」
「うん、ちょっと……」
「保健室、行く?」
あいまいにうなずいて、私は席を立った。
班長さんは「一緒に行こうか?」と提案してくれたけど、「大丈夫」って首を振って、のろのろ、のろのろ、私は教室を後にするのだった。
保健室には椿くんと他の生徒さんがいたけど、私はそんなの目もくれず、一番端のベッドに横たわった。
さっちゃんが使ってたベッド。
だけども、全然……匂いもなんにも残ってなかった。
さっちゃんなんて、最初からいなかったみたいに。
シーツを握りしめて枕に頭をこすりつけて、泥のようにベッドの上で丸くなる。そうしていたら、驚くほどすぐ、意識は途切れていった。
目を覚ましたら、窓の外はすっかり暗くなっていた。時計を確認したら、まだ五時過ぎ。だいぶ日が短くなったんだなぁって、ぼんやり感じた。
「ミドリ、もうすぐ下校時間だから」
起きた私に気がついたのか、椿くんがベッドを見下ろしていた。
私は再びシーツにくるまり、知らん顔をする。溜め息が聞こえてきたけど、そんなもの、無視してやる。
そうするうちに、椿くんは用事でもあるのか保健室を出ていって、私は一人っきりになった。寝返りを打って、ベッドの上に広がった髪の毛の先を目で追う。
なんだか、また、なにかが胸の奥からこみ上げてきそうになった。息を止めて、拳を固く結ぶ。
もう、わけ、わかんないよ。
なんでさっちゃん、急にあんな態度になったのさ? わけわかんない。それでそのまま消えちゃうなんて、ますます意味不明だよ。わけわかんない。本当に、椿くんが私にプロポーズ? みたいなことしたから、ヘソ曲げちゃったっていうの? そんなんだったら、バカみたいじゃん。わけわかんないよ。
わからなすぎて、納得できない。
このままじゃ、終われないよ。
「さっちゃんの…………バカ!」
だから私は跳ね起きた。脱いだ上履きひっかけて、滑りやすそうな床を踏みしめる。
「さっちゃん!」
保健室を出て、廊下へ。「まもなく、下校時刻となります……」という校内放送を背に、ひたすら駆ける。どこまでも。
さっちゃんを見つけ出すまで、足を止めるつもりなんかない。
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