ボノボ

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○副担任の純原幸司(すみはらこうじ)先生○



 五月も末のうららかな昼下がり、高校生になりたて気分も抜けてきた頃、私は副担任の先生に職員室に呼び出されました。
 文章にするとまぁなんてことはなさそうな、高校生のお昼休みの一コマにすぎないでしょう。が、考えてもみてほしいのです。この一文はあきらかにおかしな表現のオンパレードなのです。
 まず、「職員室に呼び出され」という部分。私はクラス委員ではなく、特にその他委員会等に所属していたりはしません。よって教師からクラスへの連絡事項の伝達を任されるような立場にはないのです。では個人的な用件で呼び出されたのでしょうか? 冷静になってください、「高校生になりたて気分も抜けてきた」程度の高校一年生、その「五月も末」です。進路相談などあるはずもないし、さすがに教員は生徒の顔を把握してきているでしょうが所詮その程度、少なくともテストもなにもない状態で学業相談にこぎつけるはずはありません。そして、入学してから二か月足らずで呼び出されるレベルの悪行を私がはたらいた覚えもないのです。我ながら大人しく、この女子校に埋没してきた次第です。それからなにより奇妙な部分、「副担任の先生に」という記述。当然のことながら副担任の先生は入学して以来、最初の自己紹介、そして担当教科の授業以外ではクラスに顔を出していないはず。担任教師のように毎日教室に来るわけではないのです。そんな、副担任程度の身分で生徒を呼び出すとは、なにごとなのでしょう。しかも、言い忘れましたが「お弁当を持って」という指令すら私は受けているのです。教室に戻りご飯を食べる余裕すら怪しい、お昼休みがまるまる潰れるような用事とはいったいなんなのか。
 真面目な生徒としては呼び出しをすっぽかすのも割にあわないでしょう、私は四時間目の授業が終わってほどなく、職員室の扉を開けました。しかして副担任の先生――倫理教師の純原幸司先生は、窓際の席で微笑みながら待ち受けておりました。
「石若(いしわか)君、待っていたよ」
「はぁ」
 女子校の生徒を「君」付けで呼ぶ、けっこうな天パをお持ちの先生に左脳が痒くなる感覚を禁じえません。それを顔に出さないよう心がけつつ、促されるまま先生の向かいに腰かける私です。
「まあとりあえず、ご飯を食べようではないか」
「はぁ」
 先生は私のお弁当を指し示してから、机の上に置かれたタイマーを覗き見ました。その隣には、スープがこだわりと噂のカップ麺。確か二十代まだぎりぎり前半、そこそこ女性に相手にされそうなお顔立ちの先生ですが、お弁当を作ってくれる彼女さんはいないのでしょうか。ぼんやり考えつつ、哀愁漂う指先を見つめてみたりする私です。
「いやあしかし、僕は普段あまりテレビを観ないのだが」
「はぁ?」
「最近、バラエティなど観てみたのだよ。何だっけ、あの髪の長い芸人さん」
「はぁ」
「彼は面白いね。何とも言えない存在感がある」
「はぁ」
 ぽつぽつと、漠然とした芸人評が述べられていくうち、タイマーが音を鳴らしました。蓋を外した瞬間に、白く曇った先生の眼鏡のレンズを眺める私です。
「石若君は芸能人では誰が好きなんだい?」
「はぁ、いえ特にひいきの人は」
「そうなのかい? ええと、何だっけあの目力の強い俳優……彼なんか最近人気なんだって?」
「はぁ」
 お弁当のブロッコリを口に運びつつ、こちらに汁が飛ばないよう注意でもしているのかちるちる黄色い麺をすすっている先生を見守る私です。
「そうか、テレビはあんまり……それにしても石若君、名簿で君の名前を見たのだが、『神』の『子』と書いて『みわこ』とはなかなかにすごい名前だね」
「はぁ」
「驚いたよ。携帯の変換で『みわ』で『神』が出てきた時は、軽く感動したものだ。『神子』、すごい名前だ」
「はぁ、よく言われます」
「調べたら大神(おおみわ)神社なるものがあるらしく」
「はぁ……」
 その神社の名前は聞いたことがありましたが、名前以上のことは知りません。先生も同じようなものらしく、話題を発展させられない私たちです。
「それにしても。君のその二つ三つ編み、今時珍しいね。僕が高校生だった頃も、三つ編みの女の子なんていなかったものだが。古風だ」
「はぁ……あの、先生」
「ん? 何だい?」
「女の子の見た目についてあれこれ言うのはセクハラです。訴えますよ」
 それまで「はぁ」を連発していた時より若干トーンを鋭くしてみせて、私は先生の目を見据えました。しかし予想に反し、先生が「訴える」の言葉に脊髄反射的に動揺するようなことはありません。ただ少し首を傾げてから、「ふむ」とうなずくのです。
「そうか、髪型について言われるのが嫌な子もいるだろうしな。ありがとう、気をつけるよ」
「あ、いえ、先生並みに天パならともかく、普通髪型のことでセクハラとか言い出す子はいないかと」
「え? じゃあ君は」
「おしゃれ三つ編みを古風呼ばわりされたことに苛立ちを覚え……いえ、そんなことはどうでもいいのです。先生。いい加減本題に入ってください」
 そうです。いい加減先生がみみっちく麺を口に運ぶのを黙って見過ごしている場合ではないのです。こうしている間にも過ぎ行くお昼休み。このままどうでもいい世間話で本題が先延ばしにされ、また呼び出されたりしてはたまったものではありません。
 先生は食べかけのカップ麺の容器を横に置いてから、少しばかり口元に手をやり、なにか考えるそぶりを見せました。が、そこから放たれた言葉は私が予想しようもないものだったのです。
「本題、か……いや、言うなればこれが本題そのものなのだよ」
「はぁ?」
「その、気分を悪くしないでほしい。君は今、クラスで孤立しているだろう」
「はぁ、まぁ」
「一人寂しく学校で過ごす姿を見かけて、放っておけなくてだね。何とかしなければ、とりあえず一人の食事は辛いだろうと」
「せめて先生が一緒にご飯食べてあげようと?」
「まずはそのくらいから始めようと思ったのだよ」
 ……後頭部のあたりがふつふつと刺激されるような感覚を味わいました。
 なんなのでしょう、この先生は。今時、熱血教師ものに影響されて教職を志した口なのでしょうか? 私は先生の眼鏡の奥の目がいたわしげに細められるのを、冷めた気持ちでもって迎えました。
「……先生はご立派な方ですね。確か今年教師になられたばかりでしょう?」
「そうだよ。だからまだまだ頼りないだろうが」
「この学校にもまだ慣れていないでしょうに、一人の生徒のことを気にかけるなんて。ご立派な――そんな自分をさぞや、誇りに思っていることでしょうね」
 わざと、少しだけ悲しそうな顔で微笑んでみせました。そんな表情で褒めてやれば、嫌味でなく内気な生徒の羨みとして、言外に含めた意味が先生に伝わるだろうと予想してのことです。
 孤独な生徒を救う、そんなご自分が大好きなんでしょうね、と。
 しかし。先生は顔をちょっとだけうつむけて、その手で頭を掻いてみせるのです。
「いやあそんな、立派なんてことは」
「あ、いえ」
「僕なんてまだまだ全然、徳が足りなくて」
「はぁ、あの」
 もっと精進せねば、とかなんとか、先生は照れ照れぶつぶつつぶやいていきます。私は……この人馬鹿なんじゃないだろうかと開いた口がふさがりませんでした。教師たるものが人の言葉の裏も読まぬとは。
 もういいでしょう。馬鹿にははっきり言ってやらねば。どうせクラスの人々には取り繕えない状態になっているのだから、今さら副担任一人に猫をかぶる必要もありません。私は少しだけ先生に顔を寄せてから、そのまっさらな目を睨みます。
「先生。いい加減そのうざい照れ方をやめるのです」
「え? うざいとは」
「あのですね、冷静に考えてください。クラスで孤立している人間が、先生とランチですか。それもそこそこお顔のよろしい方と。うちは女子校で、しかしまぁ近くに男子校もあって生徒は男に飢えているわけでもなく、先生に手を出すほどではありません。先生も顔の割に人気ないですしね。だからやっかまれることはないのですけれどね、ぼっちが顔のいい奴、それも先生に媚を売っているとでも思われたらたまったものじゃないのですよ。孤立してる人間助けようってんなら、そこまで考えを回しませんか?」
 先生はこちらの様子に一瞬戸惑ったようでしたが、目をそらそうともせず、「な、なるほど」と必死に言葉を噛み砕こうとしている有様でした。まるで、私の発言にダメージもなにも受けていません。ただこちらの説教を真摯に把握して、今後に活かそうとでもしているよう。
「確かに個人的に呼び出すような真似は軽率だった。すまない。そうだな、では何か別の方法で」
 ほんとうにこの男はなんなのか。眉間のあたりがとてもむず痒い。いい加減、限界でした。
「――あのですね、先生。迷惑だからやめてください。私にかまわないでください。あなたはそうやって人に尽くすふりをしながら、結局はそんな自分に酔っているだけなのです。あなたの自己陶酔に他人を利用しないで」
「自分に酔ってなどとんでもない! ……ただ、そうだな、僕は君を利用している、それは確かなことなのかもしれない」
「え」
「僕は僕のために、人を救おうとしている。適度に」
「適度にって……いや、『僕のため』、って?」
 自分の都合で人助けしようとしている、そこは認める、それを自覚しながらも善行を行うことこそがうんたらかんたら、と説教が続くのかと一瞬思いました。
 しかし。
 先生は右の拳を握りしめ、曇りのない目で、あらぬことを言うのです。
「僕は、現世で徳を積む。そうして来世で、ボノボになる」
「……はい?」
 職員室の、片隅で。
 純原先生の吐く「ボノボになる」というフレーズが、いつまでもいつまでも、私の頭の中でリフレインしているのでした。



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