ボノボ

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○石若神子(いしわかみわこ)の新しいおもちゃ○



「先生こんにちは、お昼ご一緒してほしいのです」
「また君か……」
 六月の天気のいい昼下がり、私はじめじめと照明をケチっている職員室に自ら赴きました。そうしてその隅っこ、副担任の純原先生の席へとまっすぐに向かいます。先生は私の姿を認めるなり、せっかくの中の上フェイスをなんとも沈痛な面持ちに歪めるのでした。
「そんな顔をされたら私だって傷つきます。先生はひどいです」
「いいや、君はこんなことで傷つく人間ではないはずだ」
「ひどいです先生っ、孤独な私を受け入れてくれないなんて。先生といたら私、先生が解脱してしまうくらいよい人間になれそうなのです」
「それが困るのだよ……」
 私が心なくも目を細めながら言うと、先生はほんとうに困ったように眼鏡をしきりに上下させました。そんな姿を眺めていると、口の端が吊り上がるのを禁じえません――私は呼び出されたあの日以来、なにかと先生につきまとっているのでした。
 先生曰く。というか知識としてうっすら知っていましたが、輪廻転生のサイクルの中にいるというのがそもそもの苦なのです。生きることは苦しみである。なのでほんとうの意味での最上の幸福とは、輪廻転生から脱すること。すなわち解脱。
「君のその歪んだ心を矯正するには、多大なる犠牲が必要であろう……それこそ、人ひとりが自分を犠牲にするくらいに。身を捨てて人に尽くすなど、悟りの境地だ。そんなことをしては解脱してしまう」
「だから『適度に』人を救うのですよね。それもまぁオリジナル解釈もいいところですが。まったくもぅ先生ったら、利己主義の極みですね、そんなんじゃ解脱できないですよ!」
「だから、解脱はしたくないのだよ……!」
 あくまでもボノボを目指す先生です。
 そんな先生は、私とは関わりあいになりたくないと堂々宣言したのでした。なぜなら、積極的には助けまい助けまいとしても、一緒にいる限りなにかの拍子にこちらを救ってしまうような事態になりかねないから。「その時には僕は気づかぬとも悟りの境地に達してしまうのだろう、ああ恐ろしや」とまた独自解釈を繰り広げる先生ですが、私は――それならばできる限り一緒にいて、先生の思惑を邪魔してやろうかな、と考えたのです。
 だって、面白そうだから。
 先生が解脱しようとボノボになろうとどうでもいいしそんなものは信じてやりませんが、先生が怯えているのはそれはもう楽しい光景なのです。
 幸いなことにこちらはぼっちで暇も十分でした。特にお昼休みはフルに活用できます。勝手に先生の隣に陣取り、お弁当を広げる私です。
「それにしても先生、今日もカップ麺ですか? お体に障りますよ」
「人の食事に口を出すのはやめたまえ」
「だけどカップ麺って不摂生ではないですか? 徳を積むのに差し障るのでは?」
 お箸をかちかち合わせつつ、私は先生に質問していました。先生はわりと素直に、訊いたことには答えてくれます。
「殺生はできる限り避けたいのだよ」
「はぁ、つまり肉は食べないと? だけどカップ麺の具だって」
「そんなことはわかっている。朝晩はできる限り菜食に努めているさ。だが、それではあまりにも味気ない! だからせめて昼くらいは」
「ようするにカップ麺好きなのですね」
 殺生がどうのとそれっぽいことを並べていましたが、真意はそこなのでしょう。私はひとり納得します。
「ですが先生、さすがにそんな食生活では長生きできませんよ?」
「長く生きずとも別にいい」
「えー、早死にしたいんです?」
「積極的に死に至ろうとするのはもちろん駄目だが、できることなら早く死んで、とっととボノボになりたい」
 だから早急に徳を積みたい、解脱しない程度に、と付け加える先生に、私は首をひねってみせました。
「命を大切にしないのは不徳ではないのです?」
「なっ」
「きっちりと節制しつつ様々な食材を食べ、命に対する感謝の心を忘れず。自らの肉体が健やかであることに喜びを覚え。つましくも豊かに生きることこそが、よい行いなのでは?」
「ぬっ……」
 私がいろどり溢れるお弁当を突き出しながらそれらしく諭すと、先生は言葉に詰まったご様子でした。
 つきまとっていてわかったこと。
 先生はかなり好き勝手にボノボに至る道を説き信仰していらっしゃる。そしてその言説は穴だらけであり、少しつついてみせればあっという間に動揺が広がる。
「いや、粗末な食べ物を粗末と思わず敢えて毎日口にすることこそがだね」
 そして、指摘された穴を取り繕おうと、先生は適当なことを早口でまくしたてる。
「粗末な食べ物って今まさに口にしましたよね。カップ麺は粗末だと、先生ご自分でもお思いなのですね」
「のっ」
 墓穴を掘っていく先生が、愚かで愚かで、私は大変愉快でした。


 ところで。授業の合間の休み時間、時折このような光景を目撃します。
「あ、スミハラ先生じゃーん。ちょうどよかった」
「ん? 何だね」
「先生はあたしらの味方なんだよね、困ってたら助けてくれるんだよね?」
「ああ、何でも言ってみなさい」
 解脱しない範囲で、と私は物陰から付け加えておきます。
 先生を呼び止めた女生徒はにやぁっと笑いながら、甘えた声を出しました。
「だったらあたし、のど渇いて困ってるの、ジュース買ってきてほしいなぁ」
 着任式での小学生相手レベルの挨拶を受け、生徒たちは先生をあまり相手にしていませんでした。そしてたまに頼ってくるのといえば、こんなニタニタ笑いを顔に貼りつけた者たちくらいのものです。
 先生は徳を積むために生徒にジュースを買い与えるのか。答えはきっぱりしたものでした。
「駄目だ。そのくらい自分で買ってきなさい」
「えーっ! んだよケッチィな!」
 ひとしきり悪態をついてから女生徒は退散していきます。私はその背を見送る先生の背後に忍び寄ります。
「先生」
「おぅふっ! ……何だ君か」
「なんであの子のお願い聞いてあげないんです? 一部始終見物していましたが」
 先生は「何だ見ていたのか」とつぶやいてから、見上げる私に対してなぜかドヤ顔を向けました。なぜにそんなに偉そうなのか。目で問いかけるとすぐにアンサーが返ってきます。
「彼女の望みを叶えることが徳を積むことか? 否、自分でできることを人にやらせていては、彼女の成長を阻害することになる。そうつまり、先程の僕の行為は長い目で見れば彼女のためになるのだよ。それこそが、真に人を助けるということだ」
「へー……」
 先生は自らの講釈にご満悦のようでした。その高々とした鼻を眺めているうち、私はふと思いついたのです。
「ジュースを買う程度であれば、お願いを聞いてあげない方が徳になる、そうなのですね?」
「ああ」
「ところで先生は私の救済については一切遠慮していますよね?」
「そうだが?」
「となれば、仮に私が『メロンパン買ってきてください、三十秒で』とお願いし、先生がそれを毅然と断った場合、私に成長を促すことになり、ひいては私を救うことになるのですね? それだけは避けたいのですよね?」
「それは……」
 先生は私から目をそらし、しばしの間口をつぐみました。少し経つと、ちらちらこちらをうかがう動作をしきりに繰り返すようになります。
 そうして、長い沈黙の後。
「……まあ、そういうことになるな」
 先生は小さな声でうなずくのでした。
 その声を聞き届けてから、私はにぱっと軽快な笑みを浮かべてみせます。
「それじゃあ、先生にお願いです――メロンパン買ってきてください、三十秒で」
「ぐぬっ……」
「さぁ、急いでくださいよ? あと三分で四時間目が始まっちゃいます。あ、メロンパンは皮がかたいやつ一択ですよ」
 先生は反論を述べようとしたようですが、結局は声を呑みこみ、私に背を向けました。そうして一目散に駆け出します。廊下を走る先生に、呆れた様子の生徒が「走ったらだめですよ」と声をかけます。先生は一瞬ぴたりと止まってから、早歩きにギアチェンジしたようでした。廊下を走るのはやはり悪徳なのでしょうか。
 二分後に戻ってきた先生は「メロンパンがなかった……」とチョコクロワッサンなど差し出してきました。少々出来が悪いですが、私専用パシリが誕生した瞬間です。



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