ボノボ

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○輪廻転生のすゝめ○



 来世では最上位の生き物たるボノボになりたいとおっしゃり、教師として職務をまっとうしつつ生徒の問題の手助けをしたいらしい先生。その独自理論は、はたから見れば時にライン引きが難しく感じられるものです。穴探しとは関係なしに、単に気になることも多いのです。
「先生は生徒の悩みを解決してよりよい方向に導きたいそうですが、それはつまり皆も来世でボノボになれればいいなー、ということなのです?」
「ああ、それは違うのだよ」
 タイマーが鳴り、本日は若干チープさ際立つ装丁のカップ麺の蓋を開ける先生。湯気で白くなる眼鏡を前にしながら、私は律儀に答えてくれる先生の声に耳を傾けます。
「単に僕にとっての目標がボノボであるというだけで、それを他人に押しつけるつもりはない。生徒たちはあくまで自分が最上と思う道を模索すべきだと思うし、彼らがその道に励むよう後押しするのが僕のなすべき手助けなのだよ」
「はぁなるほど。好き勝手に生きてほしいわけですね。自分ではボノボが一番と思いながら」
「彼らが人間としての幸福を求めるのなら、それはそれでいいのだろう」
 その言い方は――と口にしそうになりました。しかし、曇りの晴れたレンズ、その奥の目と目があった瞬間に、続ける言葉が頭の中で固まっていないことに気がつきます。「そ」だけ止められず漏らして、後は呑みこみました。
 先生が不思議そうに目を瞬かせるから、私は急いで適当な話題を振らねばなりません。
「えぇと、私もボノボとか目指しちゃいましょうかね」
「……君には無理だろう」
「えぇっ、ひどいです先生っ!」
「さすがにその悲しみの表情が演技なのは僕でもわかるぞ……」
 まぁ私とて先生に「他人が命を投げ出さなければ改心できないレベル」と判を押された人間、今さらボノボなど目指す心はさらさらありません。先生の言う「無理」というのも、「ボノボになるのが無理」というより、「君がおいそれと徳を積む生き方を選択するはずがない」という意味合いなのでしょう。
 お弁当からからあげをつまんで口に運びます。先生もまた、スープを一口飲みました。あくまでも淡々と、そこからまた話は続きます。
「人の生き方に口を出すつもりはないが、他人の苦しみに生きがいを感じるやり方は、おそらくいかなる教えによっても否定されるのだろう。きっとこのままでいけばあらゆる人が、君に『地獄に堕ちるぞ』という類の言葉を浴びせることになる」
「そんなものはご自由に、ですよ。地獄なんてないのですから」
 たぶん、というより直感的には確実に、私は思うのです。
 悪いことをしたら堕ちる地獄も、人の行いを見ているお天道様も、行いにより決まる来世も、そんなものがあるとは信じられません。どれもこれも、実感を伴わない概念です。せいぜいが、人間の行為を制御するための方便としか感じられません。
「生き物は死んだら終わりです。その先なんかないでしょう」
 口の中に残っていたからあげのひとかけを飲み下します。と、その時。
「君はとんでもない子供だが――現世が楽しいのだろうな」
 ふいに。先生が、あくまでも淡々と、そんなことを言い出すのです。もちろんのこと、「他人をめちゃめちゃにしてさぞや楽しいのだろう」などという嫌味は感じられません。眼鏡越しの先生の目は澄んでいて、その奥は静かに真っ黒なのです。
 先生は微笑んでいて、おかしな様子などないのに。どうしてでしょう、見ていられませんでした。
 私はお弁当のチーズ入りはんぺんを箸でつかみ、先生のカップ麺に投下します。
「え、ちょっと、何をしているんだ」
「なんとなくです」
「何故……」
 スープでふやけたはんぺんを、先生は「はんぺん、嫌いなのだよ……」と渋々つまみ上げます。私は「このはんぺん野郎! というメッセージなのです」と、適当なことを言っておきました。



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