ボノボ

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○大人の世界○



 自分で言うのもはばかられるのですが、私はけっこうな優等生です。中学時代から成績上位でならし、高校の入試成績もトップクラスだったはず。そして授業態度は真面目そのものであり、当てられれば完璧によどみない解答を述べます。
 そんな私が毎日職員室に来るのを、純原先生以外の教員一同は相当不思議がっているようでした。
「スミハラ先生、あまり特定の生徒を職員室に呼び出すような真似は……」
「へ? いや、あのですね教頭、僕は別に」
 とまぁこのように、教師陣の間では「純原先生が不当に優等生を呼び出している」という認識になっているようなのでした。実際には私が自主的に赴いているのですが、彼らが私と先生の会話に耳をそばだてるようなことはないのでしょう、悲しき誤解です。生活指導の眼鏡がすてきな女性教諭も先生に眉をひそめているご様子で、いやはやかわいそうな先生です。
「……石若君、今のを見ていたのなら、少し昼休みに職員室に来るのを控えてはくれないだろうか」
「え? 嫌ですよそんなの」
 せっかくの楽しみを奪われるのは不本意です。買ってきてもらったメロンパンを齧りながら当然のごとく私が切り返すと、先生はひとつ溜め息をついてから「まあいいさ」と口にするのでした。
 その顔にはあまり怒りの色は見えません。パシリに甘んじていることといい、どうもこの先生は不満なことに対しても、少し躊躇した後には結局折れる傾向にあるようです。輪廻のためとは言いますが、ちょっとは自分の気持ちに素直になってはいかがでしょうか。そんなことをわりとどうでもよく思っていると、私の心の内に気づくはずもないでしょう、先生はぐるぐる肩を回し始めました。
「どうしたのです?」
「いや、最近肩が凝ってね」
「あらまぁ、それはそれは」
「特に変わったことはしていないのだが……用具の移動を妙に頼まれたり頻繁に宿直を代わらされたり、そうそう、昨日は図書室の本棚の移動を頼まれたな。その程度か」
「あれ、意外に色々してません?」
 ちょっぴり驚いていると、先生は「まあここらへんも徳を積む範疇だ」と微笑みました。生徒からのお願いに比べ、教師からの頼みごとに甘くはないでしょうか? もしかしたら徳を積んでいくスピードが思ったよりも遅くて焦っているのかもしれませんがわかりません。しかしそれよりも、どうやら先生が若手ということで年配教師からいいように使われているという構図が浮かび上がってきています。ボノボになりたくて就いた教師の職は、意外と先生を苦労させているようでした。
 そんな姿を見て、私は――
「先生。このメロンパン、皮がかたいと見せかけて実はフニャフニャなのです。今度からはあのメーカーのやつを買ってきてください」
「……なかなかに手厳しいな」
 手をゆるめてあげたりはしませんでした。


 それにしても。優等生たる私にとって、純原先生の担当する倫理は退屈極まりない授業なのです。
 友人もなくクラブ活動にも参加していないので、先生につきまとう以外の暇な時間は予習復習に割いています。先生があれこれ言うので興味を持って、それまであまり熱心でなかった倫理をここしばらくは重点的にさらっておりました。そうして、ものの一週間で教科書を読破したところ、あることに気づいたのです。
「先生、ほんとうに授業では教科書以上のことを教えてくれませんよね」
 教科書丸写しの板書が面白いはずもありません。これでは倫理の授業で寝る生徒が後を絶たないことについて先生が怒ったとしても理不尽となるでしょう。純原先生の授業はとてつもなくつまらない。
「どうせだから『徳を積んでボノボになるのだ!』と皆にも宣言してみたらどうです? それで先生の独自理論など説いてみたら、多少はエキサイティングな授業になるかも」
 ただし、「若干と言わず頭のいかれた教師」というレッテルは免れないと思いますが。それもまぁおいしい評判でしょう、と先生に提言してみたものの、とぼけた真顔でこう返されてしまうのでした。
「前にも言ったが、僕の理想を他人に押しつけるつもりはない。第一、そんなことをしたらクビになるだろう」
「まぁ、でたらめですからねぇ……」
 でたらめとはなんだ、と先生は食いついてこようとしましたが、それはスルーで私はどうしたら先生の授業が面白くなるか考えます。
「生徒たちに倫理に興味を持たせることは、徳を積むことにはならないのです?」
「彼らがなにに興味を持ち励むかは、僕が左右すべきことではない」
「また都合のいい理屈を……ではせめて、教科書丸写しはやめませんか? 授業時間が退屈すぎるのは私とてかったるいのです」
「大丈夫だ、教科書に書いてあること以外はセンター試験に出ないから」
 どうせ二次試験で倫理なんてやらないだろう? とナメきった先生の態度です。
「あのですね、あんまり評判が悪いとそれはそれでクビの危機なのですよ? そこを自覚して、もっと授業内容を研究しませんか?」
「……だって高校の倫理で教わることなんて、大学入って哲学専攻したら、ほぼでたらめとまでは言わないけど『何か教わってきたことと印象違うな』ってことがザラなんだぜ……?」
 そう、先生が妙に顔に影をつくり、微妙に違和感ある口調でつぶやくので、私はもはや黙るしかありませんでした。



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