ボノボ

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○ブラフマン考○



 そういえばボノボとはいったいどのような生物なのでしょう。家に帰りふと思い立った私は「ボノボ」でググってみました。しかしてそこに映し出されたのは驚愕の事実でした。いえまぁ、驚愕というのは多分に脚色を施した表現なのですが。
 ボノボ。二十世紀に入って発見されたことから「最後の霊長類」と呼ばれております。その遺伝子はサルの中では最も人間に近く、チンパンジーよりも高い知性を持つとされています。
 で。先生的には肝心であろう、「平和な生物」という部分について……その、なんと言いますか、ありていに申し上げますと。ようするにボノボは性行為しまくってストレスを解消しているのです。喧嘩しそうになったら交尾。緊張したら交尾。仲直りしたら交尾。なにかってーと交尾なのです。
 その他に「ボノボが他の種類のサルを食ったとされる証拠が」など重箱の隅をつつけそうなネタはありましたが、それよりなにより私は翌日先生に会うなりこう叫んでいるのでした。
「先生のふしだら!」
「は?」
 私は先生に、「あなたは性交しまくりの乱れた生き物に生まれ変わりたいと言っているのですよ! 恥を知りなさい!」と説明してあげました。すると先生は「へぇ……」と妙に意外そうな表情になったのです。
「なんです、知らなかったとは言わせませんよ!」
「いや、知らなかったんだ」
「はぁ!?」
 悪びれもせず言い放つ先生に、私はらしくもなく大声を上げてしまいます。先生は、そんな私にふっと笑いかけます。
「ボノボになりたい、とは言ったが、そうだな――僕が言いたいのはボノボという生き物ではなく、概念なんだ」
「はぁ?」
「自殺も強姦も子殺しもない、そういう概念の存在に、僕はなりたいのだよ」
 先生は――どこか、遠い目をしていました。
 私はなんだか深くは追及できず、そのまま黙ってしまいます。すると先生は軽く笑いながら、少しだけ話を変えてきました。
「それにしても石若君、ふしだらとは言うが、ボノボの社会にとってはそういう行為は当たり前なのだろう? であれば、ボノボたちにとっては交尾をしまくるというのは恥ずべき行為ではないのでは?」
「えぇーっ……」
「ふしだらだなんだとレッテルを張るのは、人間の、さらに言うならば日本人のエゴなのではないか?」
「まぁ……かもしれませんが」
「価値観とは、えてしてそういうものだ。自分のものを他のものに当てはめることが、時にかなわない」
 なんだか教師みたいに先生はまとめるのでした。そんなことをされては、ちょっとだけ癪に障らなくもありません。なにか噛みつく部分はないかと、私は探っていきます。
「価値観、ですか。では先生。初めて私を職員室に呼び出した時のことを思い出してください」
「ん?」
「先生は私に対し、『一人の食事は辛いだろう』と同情心をはたらかせましたね? しかしそれは正しいことだったのでしょうか。一人でご飯を食べるのは寂しいこと――それこそが価値観の押しつけなのではありませんか?」
「ぬ」
「『ぼっち飯は悪いことだ』、これは日本にはびこる悪しき風潮です。このような考えがあるから、大学生がトイレでご飯を食べるような事態を招くのです。『ご飯を一人で食べてもいいじゃない』、そんな考えを認めてあげるべきなのではないですか?」
 私が情感こめてうたいあげてみたら、先生は感動したように「そうか。確かにそうだ。僕は浅はかだった」と幾度もうなずくのでした。なんだか普通に納得されてしまいました。これでは面白くありません。私は続けます。
「それにしても『寂しい』とはなんなのでしょう。一人でいることですか? では人といれば寂しくないのですか?」
「それはどうだろう。他人といても孤独を感じることはありうるだろう」
「ですよね。では心満たされていれば寂しくないのでしょうか? 世界中に自分以外一人もいなくなって、だけど寂しくなどはない、それはありうることなのでしょうか?」
「本人的には寂しくはない……しかし、客観的にはあきらかな孤独でしかない」
「主観と客観。価値観は一様ではない。どれもがどれも、絶対的に正しくはない。結局『寂しい』とはなんなのでしょう。というか『静寂』の方の『寂しい』と、ええとあの、さんずいの方の『淋しい』はどう違うんでしたっけ?」
「え、ああ?」
「『寂しい』と『淋しい』、さびしいさびしいさみしい……あれ、さびしいとさみしいはどう違うんでしたっけ?」
「さびしい、さみしい、さびしい、さみし、あれ」
「さびしいさびしいさびしいさみし……『さびしい』? さびしい、さみしい、み? び? さびし、さみし、さび、さ、び、み、び、び、さ……あれ、『さ』ってなんでしたっけ? 『び』ってなんでしたっけ?」
「……」
 私たちはしばらくの間、顔を見あわせておりました。あれ、『かお』とはなんでしょう。『か』『お』、みあわせ。み……?
「……石若君。この話題は危険だ」
「……はい」
 なにかが崩壊しかけたので、私たちはこの日の会話をなかったことにしました。



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