ボノボ

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○こころ○



 六月も終わりにさしかかる頃でした。昼休み後の五時間目直前、私が職員室から戻ってくると、ふと視線を感じたのです。その発端を向くと、数人の女子たちがぱっと顔を背けました。
 ――これはそろそろ不穏な動きがありそうですね。そんなことを思っていた矢先。
 次の日の昼休み、職員室にて、先生は手を組んでうんうん唸っておりました。見れば、大好きなカップ麺にお湯すら注いでいません。
「どうしたのです? 先生」
「……石若君。不本意ながら、君の意見も聞いてみたい。少し話をいいかね」
「はぁ?」
 不本意ながらなどと言われると激しくやる気を削がれます。しかしそれにはかまわず、先生は勝手に喋り出すのでした。
「生徒の気持ちに応えることは、徳になるのだろうか」
「……はぁ?」
「無論、教師として、そして一般的に人として、生徒に手を出すことは不徳であろう。しかし、想いを遂げられぬ生徒の心はどうなる? 彼女の望みを叶えることの方が、もしや徳深い行為なのではなかろうか」
 徳深いとは、妙な造語をつくりやがって……などと細かいツッコミをしている場合ではないようです。どうやら先生は、生徒との道ならぬ恋について思いを巡らせているようでした。
「え、誰ですか、まさか私が先生に恋情をとか勘違いしていませんよね?」
「当たり前だ! ……その、クラスの、彼女なのだが」
 詳しく聞いてみると、このような感じです。先生は先日の放課後クラスの女子に呼び出され、「イシワカさんのことが好きなんですか」と問われました。先生が大慌てで否定したところ、女生徒は「私、先生のことが……」と頬を染めながらつぶやきます。先生が首を傾げると、彼女はじれたように「だから、先生のことが好きなんです! どうか秘密のお付き合いをしてください!」とせがんできたのでした。
 それはなんともドラマチックな展開ですねと、手放しで褒めてあげたいところでしたが、先生の口から女生徒の名が出た瞬間に、私には思い当たることがありました。
 先日の、私に意味深な視線を送っていた女生徒たち。
 そして、先生に告白したという女子。彼女は先の女子グループのリーダー格であり――私の中学三年時のクラスメートなのでした。
「あぁ先生、それはハメられていますね」
「何だって?」
「件の女子は、中学時代のことで私を恨んでいる人物です。きっと私に嫌がらせをしようと、いつも一緒にいる先生を籠絡しようとしたのでしょう」
「僕は君とそんなにまで一緒にいると思われているのか……」
 生徒にいいように利用されそうになったことよりもそちらを悔やむ先生を、はてさてどうしたものやら。特になにもしないでおくと、先生は肩の荷が降りたのか、安心した様子でカップ麺にお湯を注ぎにいきました。そうして戻ってきてから、「それにしても」と口を開くのです。
「やれやれ。そういう思惑あっての告白だったのか。裏の意図だの何だの、相変わらず人の世は面倒くさい」
「先生だって、ボノボになるためという裏の意図で教師をやっているわけでしょう」
「まあそうだが」
 だが、の先にはなにか続きそうでしたが、結局それが放たれることはありませんでした。言われずともわかるような、わからないような。
 すっきりしない心持ちの中、先生はまたも「しかし、君と恋仲かと問われるとは……」と頭を抱え始めます。いい加減失礼でしょう、私は冷ややかに復讐の提言を切り出しました。
「……それにしても先生。私との仲を疑わるのがお嫌でしたら、手っ取り早い方法がありますよ」
「ほう。それは興味深い」
「とにかく私を更生させちゃいましょう。そうすれば自ずと先生の手から離れていくはずです。まぁもしかしたらその頃には先生はその身を犠牲にし尽くし、結果として解脱っちゃうことになっているかもしれませんが」
「妙な言葉をつくるのはやめたまえ、解脱るって……そして生憎と、それだけは却下だ」
 却下と言う先生の口調にはとりつくしまもありません。しかし、その様子はそれはそれでつついてみたくなるものなのです。
「ねぇ先生、所詮、生は苦しみなのです。なにものにも乱されることない涅槃寂静こそが、安らぎなのでしょう? ニルヴァーナですよニルヴァーナ。我執を捨てるのです」
「まだ授業で教えていない単語を……」
「先生のようなお方がボノボ止まりとはもったいない。ね、解脱目指しましょう? 来世でボノボになったとして、もしかしたら上手く徳を積めず解脱ることがかなわなくなるかもしれないのですよ?」
「確かに、生きる以上は苦しみとは切って離せないだろう。何もないことこそが、真の幸福なのだろう――だが」
 私はいったん言葉を切った先生の目が、どこともわからないどこかを追うのをとらえました。
 先生は――前にも見せた遠い目をして、眉をゆるめてみせるのです。
「一度くらいは、幸せに生きてみたいんだ」
 私は。微笑む先生に言ってみたいことが思い浮かばないでもないのに、口を開くことができません。先生はこちらの言葉を待つように首を傾げるのに。でも、その視線はこちらに向かっているようで、瞳の奥底は凪のように真っ黒で――
 先生は、どこを見ているのでしょうか?


 気を取り直した翌日、しかし妙なことは固まって起こるものです。
 授業合間の休憩時間、トイレに行ったところ、手洗い場から姦しい話し声が聞こえてきます。私は個室にこもったまま、内容を把握してみることにしました。お手洗いはかっこうの情報収集場なのです。
「スミハラのやつ、何も言ってこねーの」
「えー、やっぱウソ告白だってバレたんじゃない?」
「そっかなぁ? あいつ絶対真に受けた顔してたじゃん?」
「だよねー」
 水道を独占しているのは、奇しくも私の中三時の同級生を筆頭とした女子グループ四人のようでした。こんな、廊下にまで届きそうな声で秘めごとをくっちゃべるとは、まったくやれやれ無防備なものです。
「それよりさぁ、聞いてよ。カレシがね」
「うっそ。えー、マジで?」
「バカじゃん!」
 話は他愛もない、メンバー一人の年上の彼氏の愚痴などに移行していきます。私はトイレのドアに張りつく必要もなく、四人の話がすべて終わり立ち去るところまで聞き守っていましょう、と思っていました。どうでもいい話が意外と使える情報になったりするのです。
 しかし。彼氏の話の中になにかとっかかりでもあったのでしょうか。その時身勝手にも、年上の彼氏の話を延々していた子が会話の方向を戻していったのです。
「あ、そういえばさぁ、ママから聞いたんだけど、スミハラって――」
 確か生活指導の女性教諭の娘たる彼女が発した言葉に、私は思わず戸を開いていました。
「っ! イシワカ」
「あの、その話は、いったいどういうことなのでしょう?」
「は? 何であんたに」
 四人はそれぞれに、ばつの悪そうな顔を浮かべていました。今までの話を聞かれていたそのことに、都合の悪さでも感じているのでしょうが――けれどそんなことはどうでもいいのです。
「今の、純原先生に関するお話、詳しくお聞かせ願えますか?」
「はぁ? 何言って」
「いいから」
 私はずんずん彼女らに近づいていきます。
 しかしタイミングの悪いことに、そこで予鈴が鳴り始めてしまいます。あれだけ喋っていれば確かに十分などあっという間のことでしょう。
「ちょっと、もう行こ」
「うん……」
 四人はとっとと私に背を向け、教室へと逃げ帰っていってしまいます。
 そして、残された私は、少し迷った後、職員室へと赴くことにしました。
 さすがに先生の授業スケジュールまでは把握していないので、窓際の席で暇そうに眼鏡を押し上げている姿が見られたのは幸運でした。先生は近づいてくる私に気づいて、少しだけ目を見開きます。
「石若君。もう授業は始まって」
「先生。お話があります。そうですね、ここではまずいので場所を移りましょうか」
 先生がなにか反論を言う前に、ぐいぐい引っ張っていきます。とりあえず廊下に出て、場所は先生に任せることにしました。先生は不可解そうな様子を崩そうとしないながらも、適当にそれらしい部屋、生徒指導室に案内してくれました。
「それで……何の用だね」
 扉を閉めてから先生が再度首を傾げます。私は早口でまくしたてることにしました。
「今さっき小耳にはさんだのですが、先生がかつて婦女暴行をはたらいた上に先生の子供を身ごもったその女性が自殺してしまったというのはほんとうのことなのですか」
「……は?」
 じっとり睨んでみると、先生はひたすらにきょとんとしてしまうのでした。案の定の反応に、私は溜め息つきつつ視線をゆるめます。
「いえまぁ、嘘っぱちだろうなぁとは思っていたのですよ。噂の出所からしてアレですし。先生がそんなことを、ねぇ?」
「そんな噂が?」
「いえ、聞いた感じではまだ広めようとしている最中でしょう。まったく、不謹慎にもほどがあるのです。さすがの私もドン引きですよ」
 やれやれと肩をすくめる私です。先生も苦笑していましたが、あんまりにもあんまりな噂にさほど気分を害した風でもなく、軽く口を開くのでした。
「そうだな。少しばかり真実をかすっているのがまた悪質だ」
「ですです……って、え?」
 先生が少しばかりおかしなことを言うので、その場で後ずさってしまう私です。そんな私に先生は、なんてこともなさそうに言うのです。
 私が聞き返すから、何回も、なんてことなさそうに。
 どこが真実をかすっているのか、全然、わからなくて。だけどそんなことよりも、ただ――なんで、と私は何度も繰り返していました。
「だから、子供の頃に両親が無理心中をはたらいて父と母、それと母の身ごもっていた弟か妹が死に、ぎりぎり生き残ったところを叔母夫婦に引き取られたのだが、そこでよくしてくれた従姉が強姦の被害に遭い精神を病み、その後家を出て恋人ができたのだがしばらくして彼女が自殺してしまったのだよ」
 先生のその口調は、ひたすらに淡々としていました。まるで笑い話でもするかのような。しかし、だからこそ、その悲劇ぶっていない様子が、「あぁ、真実なのだな」と私を納得させてしまうのです。いいえ。それよりもこの人は、わざわざ嘘でこんなことを言う人間ではないのでしょう。
「先生……」
「ん? 何だね?」
 前世でどんな悪い行いをしたのですか、とか、『純原幸司』の『幸』の字が泣いていますよ、とか。軽口を思いつかないわけではなかったのです。ただ、実際に口にしていたのは別のことでした。
「あの、そんな、『真実をかすっている』ような悪質な噂を流されようとして、先生はどうお思いなのですか」
「どう、とは?」
「なんで」
 先生は目をぱちくりさせて、不思議そうにするのみです。
 そんな姿に、私は――
「? 話はもう済んだのかね? 今からでも遅くはないだろう、教室に戻りなさい」
「……はい」
 生徒指導室を出て、廊下を歩く私たち。先生とは階段のところでお別れです。先生は、微笑んで手を振りました。
 授業中で誰もいない廊下を歩きます。歩いて、いたのですが。途中で足は止まっていました。
「あ、れ……?」
 どうしたことでしょう。
 肺か心臓か、なんだか胸のあたりに変なものが溜まっている、ような感じがするのです。
「なんですか、これ……」
 立ち止まって、胸をおさえます。けれどそうするとまた、頭の中に浮かぶものがあり、浮かんだ瞬間に胸の詰まりは増すのです。
 頭に浮かぶのは、不思議そうにする先生の姿とか、微笑んだ先生の姿とか。
 ――先生。
 あぁ。
 私はここにきてはっきりと気づいたのです。
 先生はきっと、現世での幸せをもう望んでいないのでしょう。現世、この人生での幸せはとうに諦めている。笑ったりすることがあっても、心の内は幸福なんかじゃない。先生はきっと、そうに違いないのです。
 先生は、現世が楽しくなんかない。
『一度くらいは、幸せに生きてみたいんだ』
 だから、生まれ変わったら、自殺も強姦も子殺しもない平和な楽園に行きたい。そこで、今度こそは幸せになりたい。
 だから、ボノボなんだ。
「私……先生にひどいこと」
 生き物は死んだら終わりだと、その先なんかないと、先生に言ってしまったことを思い出します。あの言葉を先生は、どんな気持ちで聞いていたのか。
「……どんなって?」
 おかしいな、と思います。私はどうして、こんなことを考えているのでしょう? こんなこと、初めてです。この息が詰まる感覚はなんなのでしょう?
 先生にひどいことを言ってしまった、そのことを考えると、
「あれ……ひどいってなんでしたっけ? ひどい? ひどい? ひどい、ひどい、ひどいひどいひど……」
 いつぞやのように、『ひどい』という言葉が崩壊を起こす寸前で。
 私は。
 なにがなにやら、もう、わかりません。



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