ボノボ

prev/top/next 


○ハムラビに反す○



 スカートのポケットに忍ばせたものを確認しつつ、私は今もって自分がなぜこんなことをしようとしているのかわかっていませんでした。
 放課後の、生徒指導室。定期考査もあと少しに迫り、部活動の停止で校内は普段よりも静かでした。そんな中で私は、扉をひたすらに見つめています。
 しばらくすると足音が近づいてきて、ドアノブが回され――生徒指導の、眼鏡のすてきな女性教諭が、室内に入ってきました。私は彼女がドアを閉めきった瞬間に、不自然に見えぬようポケットの中をまさぐります。
 それから優等生らしい控えめな微笑を浮かべてみせて、口を開きました。
「わざわざお越しいただきありがとうございます」
「イシワカさん、どうしたの?」
 彼女は私にやわらかく笑みを返しました。目尻の小じわが強調されます。
 この女性教諭との接点は、入学直後にうちのクラス担当の英語教師が病欠した際の代打授業程度のものでした。ただ、その時に私が質疑応答で素晴らしいパフォーマンスなどしてしまったものだから、目にとまってしまったのでしょう。
「実は、あなたにお話ししなければならないことがありまして」
「あら、何かしら」
 なにひとつ警戒心の見られない、それどころか「優等生に頼られているようで悪い気はしない」という優越感すら垣間見えるような彼女の目の前に、私は携帯電話を突きつけます。
「実は――あなたのお子さんのことで、お耳に入れておいた方がいいと思うことがありまして」
 携帯に映し出されたその画像を見た瞬間に、女性教諭は神経質そうな細い眉を吊り上げました。
 それはまぁなんてことはない、私のクラスメートかつ女性教諭の娘さんが、そういうことをするホテルから男と出てきたところを撮影したものです。
「実は娘さん、援助交際をしているらしくて」
「援助交際っ!」
 もちろんそれは嘘っぱちで、映っているのはれっきとした娘さんの彼氏です。けっこう、お年の離れていらっしゃる。ほんとうによろしくない関係だった方が都合はよかったのですが、残念ながらお二人は一般的な男女交際の範疇を貫いているようでした。
 しかし、この見るからに古風な男女観をお持ちの女性教諭には、こんな画像一枚で十分でしょう。なぜ私がそんな写真をわざわざ撮ったのか、その程度の疑問にも考えが及ばないご様子です。
「私、クラスメートがこんなことをしていて、とてもショックで……」
「ああ、何てこと……」
「いったいご家庭ではどんな教育をされているんですか?」
 私は口角が上がりそうになるのをおさえ、最大限、不信感をあらわにした表情をつくりました。女性教諭は口元に手を当て、目を見開き動揺しているようです。さて、ここからが本番です。
 私は軽く息を吸いこんでから、彼女を責め立てる言葉を、よく聞こえるように、嫌悪感を添えて、すらすらと紡いでいきました。
「こんな、高校一年生になったばかりのような女の子が援助交際なんて。娘さんのご様子には気がつかなかったのですか? もしかして、中学からこんなことをしていたのでは? あなたは生徒指導といって、ずいぶん色々な生徒を気にかけているようですけれど、ご自分の娘さんに対してはきちんと教育なさっていないのですか?」
 女性教諭は青ざめ、かすかに震えているようでした。効果は抜群だな、と内心ほくそ笑みます。生徒指導などという規範意識のかたまりにとっては、身内のスキャンダルが一番痛い。特に尊敬を集めたいであろう優等生にそこを突かれるのは、さぞかしお苦しいことでしょう。
 もちろん援助交際はでっちあげですから、彼女が娘さんに冷静に詰め寄れば嘘は露呈してしまうでしょう。ただ、この人に冷静な対応ができるとは思えません。おおかたヒステリックにわめきたて、それに娘さんが反発してろくな話し合いにもならないことうけあいです。年上の男性との交際という時点でこの教諭は難色を示すのでしょうから、娘さんは彼氏の存在は家庭内ではひた隠しにしていたことでしょう。学校のトイレで大声で吹聴するのはなんともガードが甘いことですが。
 とにかく、そういうわけで、私は安心して眼鏡のすてきな女性教諭の心を抉ることができるのです。
「それに娘さん、クラスではグループで特定の子に嫌がらせをしています。お願いします、彼女のこと、ちゃんと見てあげてください。そんなんじゃ生徒指導――いいえ、教師失格だと思いますよ」
「きょうし、しっかく……!」
「くだらない噂を流している暇があるなら、ご自分の足元を見つめてみたらどうです?」
「!」
 と。私は勢いに任せて余計なことを言ってしまったのです。女性教諭はまた目の色を変えて、私の肩に手をかけてきました。
「あなた、スミハラ先生の差し金!?」
 女性教諭が、肩を激しく揺さぶってきます。私は逃れようとしますが、彼女の力が存外強くて、外すことができません。
「スミハラ先生に言われてこんなことをしたんでしょう!」
「先生は関係ありません」
「嘘よっ、あの男、あなたに目をつけていたじゃないっ! ねえ、あの男に何をされたの!? 大丈夫よ、私が助けてあげるから!」
「別に、私は」
 問題をすり替えないでください、とか、いい加減気持ち悪いので放してください、とか、真っ先に思うことはあるものの、それらが今の彼女に効きそうにはありません。しくじってしまいました。あまりにも感情的になっている、このけものに、どう対処したものか――
「大体あんな男、ろくな人間じゃないわ! 授業もよくないようだし、あんな男らしくない顔で、女生徒に目をつけて」
「……あの」
「気味が悪いったらありゃしない! ろくでもない育ちで」
「――おい」
 その時。
 私の中で、なにかが。
 ぶつんと、弾けた。そんな気が、しました。そうしてその時には、私は考えるより早く自分のものとは思えぬ声を出し、動いていたのです。
 容赦なく、握りつぶすような力で女性教諭の手首をつかみ、その青白い顔を睨み据える私。
「クソ女。あんまり調子こいてると、この学校から――私の前から、消し去るぞ」
「なっ……! いたっ……」
 その顔が苦痛に歪むのを、私は眺めて、さらに力を加えました。
 女性教諭が甲高い悲鳴を上げます。どうしてやろうか、頭では全然考えられず、私はさらに力をこめるしかなく――
「何事ですか!? ……あれ、石若君?」
 と。
 生徒指導室といえどそう壁は厚くないのでしょうか、はたまたたまたま近くを通りすがっただけなのでしょうか。一人で来たところを見ると、どうやら後者のようです。
 慌てた形相で入ってきた、純原先生は、私を見るなりひどく驚いたような表情になりました。
「石若君、と……あの、何をされているんですか?」
「っ知らないっ!」
 知らず手をゆるめていた私から、女性教諭はまんまと逃れていきました。そのまま部屋からも立ち去ろうとしたので、私は急いでその背に投げかけます。
「今ここであったことと、くだらない噂、どちらかでも広めようとした場合には――どうなるか、わかっていますね?」
「っ!」
 女性教諭は一回だけ振り返り、すぐにくるりと背を向けていきました。一応釘は刺せたようなので、ひとまず私はポケットの中のICレコーダーのスイッチを切っておきます。
「その、石若君……君は、何を?」
「なにやってんでしょうね……」
 私は近づいてきた先生に、力ない笑みを浮かべてみせるくらいしかできませんでした。ついでに、なんだか適当な言い訳をでっちあげるのも面倒で、ことの次第を包み隠さず話します。
 生活指導の女性教諭を、なるたけ効果的に傷つけて、今後おかしなことを企てぬよう大人しくさせようとしたこと。その具体的な方法。
「その、僕の悪質な噂を流そうとしたのが、あの人だったとは?」
「私が噂を聞いたのは広まる前、あの人の娘の口からですから。『ママから聞いたんだけど』って言ってましたよ。おおかた、口の軽い娘が色んな人に言い触らして全校中に広まるのを期待したのでしょう」
「何故、そんなことを?」
「先生のことがよほど気にくわなかったようですね。あの口ぶりでは先生の過去について調べた風ですし、ご苦労なものです。先生が優等生に懐かれているのがそんなに気に障ったんでしょうかね? それとも先生、実はあの人になにかしちゃってました?」
「……それで、君は」
 先生は責める風でもなく、怒っている風でもなく、ただ不思議そうな色ばかりを浮かべて、私を見ていました。
 その様子にまた、私は胸の奥の奇妙な詰まりを感じます。苦しまぎれに、言いました。
「……目には目を、歯には歯を、ですよ。悪評をでっちあげようとした愚かな教諭には、それなりの報復を。どうします? あの人がなにか失言しないか録音しておいたのですが、最後らへんだけ抜き出せばそれなりに追いこめるかも。わりと教師にあるまじき暴言を吐いていましたから」
「ハムラビ法典は野蛮な復讐法ではなく、『犯した罪以上の罰を与えてはならない』というのが真意だ……いや、それよりも。どうして君は、こんなことをする?」
 どうして。
 私には未だ答える言葉が見つかりません。どうして今回こんなにも、大胆な行動に出てしまったのか。本来ならば陰から状況を操る方が楽しいのに、動かせる手駒もないこんな状況で出しゃばるなど。
 ただ、本気でわからないという目で先生に見つめられると、胸の奥がまた弾けそうなのです。
「君の行動にとやかく言いたくはない。ただ、援助交際などという嘘をついて、あの教諭のご家庭にどんな不幸が訪れるか」
「先生だってくだらない噂で、下手をすれば職を追われる事態になっていたかもしれないのですよ?」
「だから、どうして君が――おもちゃがなくなるのが嫌だったのかね?」
 ここにきて、おもちゃ? お気に入りのおもちゃが学校を去るのが嫌だ、と。
 ……そんな見当外れは、あんまりにも。
 私は頭になにかが昇っていくのを感じる間もなく、先生に詰め寄って、その胸を叩いていました。
「このっ……馬鹿! クソ天パ眼鏡! はんぺん野郎! ……っです!」
「わざわざ後づけすることもなかろうに……」
「うるさいっ! なんでっ……なんで先生は怒らないのですかっ!」
 私は容赦なく先生の胸を打ち続けました。時折「ごふっ!」と肺にでもクリーンヒットしたような声が響きます。それでも私は手をゆるめません。
 だって先生は、痛いだろうに、まだ不思議そうな顔ばかりしている。
 それも当たり前なのです。先生は、徳を積んでボノボになることしか眼中にない。今さら怒ったって、なにかに期待したって、無駄だって、先生は、先生は。
「石若君――どうして君が、泣くのだ?」
「え……」
 言われて初めて、目から頬を伝う感触を自覚します。
 それは。自分ながらに、信じがたい現象でした。
 生まれてこの方、とは言いませんが、少なくとも小学校から今に至るまで、私が泣いた覚えはありません。嘘泣きであれば何度かやらなくもなかったのですが、こんな、自然とこぼれ出るようなのは。
「どうしたんだ。何が」
「っ……知りませんっ!」
「知らないって、自分の感情だろう」
「わかんないもんはわかんないんですっ! そんなの先生が教えてください! 教師でしょう!」
 気がつけば喉奥にも嗚咽が迫っていて、上手く声が出せません。
 いったい私は、どうしてしまったのでしょう?
「何だかわからないが……君は本当に、やっかいな子供だな。だが」
 その時。
 先生がそっと、私の身をその体から引き離していきました。そうして、優しく――その手で、私の涙をぬぐったのです。
 そんなことをしたところですぐにまた溢れ出てきて、無駄なこと極まりなくて、それなのに。
「……ありがとう」
 先生の顔がよく見えなかったので、私は一回、きつくまばたきしました。そうして、ぐっと顔を上げます。涙が一気に顎まで伝り落ちていくのもかまわず、私は先生を見上げました。
 先生は、いつも通り凪いでいるような笑みを浮かべていましたが、気のせいでしょうか、よくわかりません、少しだけ――嬉しそうに、見えたのです。
「……っ先生の、あほぉっ……」
 こんなことを叫ぶ他ありませんでした。
 だって、先生を見ていると、また心臓のあたりがおかしくなって、どうしようもなくなってしまったのだから。



prev/top/next 
傘と胡椒 index



Copyright(c) 2013 senri agawa all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system