北九州

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10



『またペンがなくなってる。あれお気に入りだったのに! むかつく。――も――も――も――も、本当にむかつく』
『ごめんね。止められなくてごめん』
 隣をちらと見る。彼女が眉を下げて微笑む。
 古典の教師がこもった声で助動詞の説明をする中、ノートの切れ端を渡してはもらう。短い言葉が綴られたそれは、ずいぶんとたまってきていた。他の人には見つからぬよう、ポケットなどに常に身につけては家の引き出しにしまっている。
 ピンクの可愛らしい文字は、お菓子のように甘く頭に響く。
『期末試験ももう少しだね。中間、どうだった? 私は最悪だったよ〜』
『中間はそんなに悪くなかったかな。期末は物理が不安……』
『園江さんは頭良くていいな〜』
 彼女からは時折、何気ない話題も送られてくる。受け取るたびに、彼女の柔らかな目元が視界の隅に映る。そういえば授業がどうとか、テストがどうとか、そんな話を人とするのは初めてではないだろうか。
 きっと彼女は、普段からそんな話ばかりしているのだ。物がなくなることもなく、汚水にまみれることもなく。英語の点数が平均以下だったとか古典の授業で寝てしまったとか、そんな話。彼女はクラスの、あの女子からもあの女子からもあの女子からも、取り囲まれてはいない。
 心臓の隣あたり、胸の肉がずぐずぐとうなった。

×   ×   ×   ×

「今日はだいたい、いつも通り?」
「はい」
 じゃあ問題ないね、とシャープペンをノックする。ベッドに座った彼女を上目遣いに見やる。その瞳は奥の方まで真っ黒だ。
「博士」
 ぽつり、と呟きが漏れる。どうしたの、と視線を送ると、彼女は緩やかに首を振った。なんでもない、そう言っているかのよう。
 ぼくは少しだけいぶかしむが、ふうと息をついてノートをたたんだ。干しておいた彼女の教科書を見にいこうとする。
 と。
 ふいに、ぎしっとベッドのきしむ音がする。慌てて振り返ると、彼女の伸ばされた腕が、肩まで迫っていた。
 ぼくは思わず後ずさった。
「どうしたの?」
「……いえ」
 彼女はぼんやりと、ベッドに座り直した。ぼくもまた部屋を出ていく。彼女の瞳は相変わらず、深く深く真っ黒だ。

×   ×   ×   ×

 彼女のマンションの玄関で、肩の下まで伸びた黒い髪の少女とすれ違った。チェックのスカートが規則正しく揺れる。艶のある髪がそれに合わせるように、時にリズムを乱しながら背中を流れる。少女からはぼやけたような、濃いような不思議なにおいが漂った気がしたが、確かめる前にその姿は視界から消えてしまっていた。
 エレベーターで五階まで。チャイムを鳴らすと、ものの数秒で瞳を輝かせた彼女が出てきた。
「神さま!」
「こんにちは」
 温度もそこそこなのに、羽織ったままの白いコート。わたしは脱いだら、と促し、彼女ははにかんで上着をしまいに行った。もしや例の「ロボット」が先程までいたのか、と考えを巡らせてみる。
 Tシャツにミニスカート姿となった彼女は、わたしを寝室へといざなった。それから大学ノートを取り出そうとするが、わたしはそれを制す。
「今日は、いいわ」
「そうですか?」
 彼女はきょとんと首を傾げた。わたしは曖昧にうなずいてみせる。
 もう、いじめの描写が必要な部分は書き終えた。あとはラストをどうにかするだけ。ただ、何度読み返してみても、本当にこれでいいのか、この話は大丈夫なのか、疑問が頭をちらつく。今日ここに来たのはなかば気分転換のようなものだった。
 彼女はそれならばと、「お茶でも持ってきます」と微笑んで部屋を後にしようとした。ふりふり揺れるポニーテール。瞬間、わたしはそれを右手で掴んでいた。
「え――」
 そのままびんっと引っ張って、彼女を無理矢理引き寄せる。かなり勢いがついてしまったものの、どうにか座らせることはできた。腰かけたベッド、太腿の間にすっぽりとおさまった小柄な体躯。
「神さま……?」
 ぎゅうっと、体に回した腕に力を込めると、彼女がこわばるのが感じとれた。唇の先にはほんやりと産毛の浮かぶ耳たぶ。息をするとそれが届き、彼女がぴくりと身悶えるのが伝わってきた。
「ちょっとだけ、こうさせて」
「……はい」
 彼女は時折もぞもぞ動くが、それきりおとなしくなった。わたしはその鎖骨あたりを、肉が薄くて細い骨ばかりが感じられる皮膚の感触を、じっくりと確かめる。
 そうだ。これが不幸な人間のからだだ。不幸な人間はこういうかたちをしているのだ。
 確かめて確かめて、何かが掴めた気がした。
 何も掴めない気もした。



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