『殺してやる。あいつら絶対に殺してやる』
彼女から届いた『大丈夫……?』という手紙に、衝動的にそう綴っていた。これを渡すわけにはいかないか、と握り潰そうとするも、彼女は微笑んでかすかに手を差し出す。乱暴な文字の乱暴な文章を、そのまま手渡した。
『……ひどいよね。ひどい。ほんとうに……』
ピンクの丸文字は、心なしか端々ががたがたしていた。彼女の横顔をうかがうと、目がほんわりとうるんでいる。手紙を何度も何度も、大事に読み返した。
常に感じる取り囲まれるような視線は、昨日を境に重さと、粘着質を増したようだった。授業中でも、時折誰かが携帯を開いて笑う。視線、視線、笑い声。授業がすべて終わるまで、それはずっと続いた。
翌日の通学路を重い足取りで歩く。ふとある家の軒先に目をやると、あじさいの花が紫をまとっていた。少しくすみながらも、穏やかでのびやかな紫色。ただ、紫の群れの一房に、中心部だけ青くむらのあるものがあった。雨でも降れば同じ色になるだろうか。馬鹿げたことを考えた。
そうしてたどり着いた学校、二階の教室。
自分の机の上に、いくつもの紙くずが載せられていた。
変わらぬ視線。どこからも、いくつも。
紙を拾い上げると、そこにはシャープペンで乱雑に書かれた文字が。
『殺してやる。あいつら絶対に殺してやる』
息が止まった。
視線。笑い声。
嫌な音をたて始める心臓を感じながら、また紙を拾う。
『またペンがなくなってる。あれお気に入りだったのに! むかつく。――も――も――も――も、本当にむかつく』
『中間はそんなに悪くなかったかな。期末は物理が不安……』
『――さんは悪くないよ。でも――も――も――も、皆許せない。なにが「見つかってよかった」だ。ふざけるな。許さない』
視線。視線。視線。
笑い声。笑い声。笑い声。
「園江さん、こんな風に思ってたの!?」
「ひっどーい!」
「うちら、園江さんにいっつも優しくしてたじゃん!」
取り囲む視線が、距離を縮める。
笑い声が、耳に近く。
「園江さん、英語の中間九十六点だったんだって」
「美術の――先生に憧れてたって」
「犬が嫌いなんだって」
それはすべて、机の上に積まれた手紙に書かれたことだった。
彼女しか知りえない。
彼女にだけ渡した。
隣の席を向く。そこに彼女は座っていた。控え目に眉を寄せ、膝の上軽く拳を握り。
薄く、微笑んでいた。
× × × ×
その日。
マンションを訪れた彼女は、ぼくの顔を見るなり胸に飛び込んできた。
「博士博士っ……ソラちゃあぁんっ……」
突然にその名で呼ばれ、頭が真っ白になる。
彼女に。しゃくり上げくぐもった声を漏らし、子供のように泣きじゃくる彼女に、いったい、何があったというのか。
ぼくは呆然としながら、しばらく彼女に抱きつかれるまま、玄関先で突っ立っていた。
日も暮れる頃になり、彼女が少し落ち着いたところでぼくらはいつものように寝室へと引っこんだ。彼女は目を真っ赤にし、まだぐずぐずと、鼻をすすっている。
その中でどうにか聞きだしたことに、ぼくはひどく驚いた。
自分に哀れみの目を向けてくれた少女。
何気ない手紙のやりとり。
クラスの連中への恨みから、テストの話まで、自分の気持ちを素直に書き綴った。
それを今日、クラス中に晒された。
「ばかな……ことを」
うつむき、自分の膝を見つめる彼女に、ぼくはそう呟いていた。
彼女の頭がわずかに上がる。
「言っただろう。あいつらは駄目だって。汚染されて手の施しようがないって。それなのに、少し優しくされただけで信じて!」
「ソラちゃ……」
「うるさい! ああ、台無しだよ。今までの記録全部、台無しだ。裏でそんなことをしてたんじゃ、駄目だよ。台無しだよ」
涙の跡が真新しい頬で、彼女はぼくを見つめる。
ぼくはそれを見て、胸の奥、心の奥底が不快な熱で焼き切られるような気分だった。
「いいかい。北九州を潰すまでは、油断など一切許されない。汚染された奴らに甘えるな期待するな心を開くな。耐性をつけることだけ考えろ」
彼女の目が大きく見開かれる。
真っ黒な瞳は涙を含み墨水のように不安定で、ただただ弱々しい。
「今後はもうなにも信じるな」
ぼくはそれだけ吐き捨てて、彼女に背を向けた。
× × × ×
マンションへと向かうと、エントランスから出てきた小さな彼女が激突してきた。
「神さまっ……」
彼女はわたしの胸に顔をうずめた後、ばっと頭を上げ、泣きそうに揺らいだ瞳を差し向けた。
「ごめんなさい、台無しですっ……ああもう、どうしてこんなことに」
「いったい、どうしたっていうの」
肩をつかんで身体を離すと、彼女はこちらの様子もうかがわずまくしたてた。
曰く。今までの記録には不備があった。ある時から「ロボット」は隣の席の少女から優しくされ、授業中にこっそり手紙のやりとりをしていた。そこにはクラス連中への恨み、高校生らしい悩み、今まで誰にも話したことのなかった胸の内、そんなものが載せてあった。耐性をつけていかなければならなかったのに、やすらぎを得て、それを怠っていた。苦しみをぬるくしていた。結局隣の席の少女は、クラス連中の仲間にしかすぎなかったようだけれど。
「ぼく以外信用するなって、あれほど言ったのに! 彼女は、裏切ったんです!」
汚らわしいものを目にしたかのように。彼女は叫んだ。
わたしはここに来る途中まで、友人の言葉、自分の書いた小説、ままならない想い、そんなことで頭がいっぱいだった。
ただ、彼女を見て、彼女の話を聞いて、心を覆ったのは純粋なるショックだった。わたしは、怒る彼女にショックを受けた。
小説を批判されて、とか自分の小説が上手くいかなくて、とかではない。そんな理由つきの痛みでなく、ただ――そう、これは幼い日、母親を殺した少年の話を観た時の、あの衝撃に近い。漠然と、ショックなのだ。ただ嫌だ。そんな気持ち。
その正体はなんなのか? 彼女に対するこの思いは。
どうしてあの時の衝撃と似ているのか。何故わたしは彼女に対してそう感じている?
もっとよく考えねばならないのか? 考えてみたら、そう、それこそ彼女との過去までさかのぼっていけば、わかるのか?
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