北九州

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 目前を広がるのは静かに揺れる稲穂。あぜ道を古ぼけた靴で歩けば、遠くからサイレンが聞こえてくる。
 ここはそれだけの場所で、自分はその場所の枠から出ない、つまらない人間だった。せいぜいが、髪の毛が少し茶色いくらい。
 田んぼを横目に歩いていく。どう見ても時代錯誤な蛇のような三つ編みが、それに合わせて揺れる。主張すべき自己ももたぬほんの中学生の、ささやかな自己主張。
 農家だらけの土地でも少子化のあおりだけは立派に受けているようで、同世代は一人っ子で溢れかえっていた。わたしもその一人。父と母、父方の祖父と祖母、このあたりではごく一般的な家族構成。娘にどこの高校へ行かせるべきか、金がもったいないから近くでいい、何駅も先の進学校に通わせるべきだ、今の時代学がないとやっていけん、そんなことで家族が喧嘩する。その程度の、珍しくもない家庭でわたしは育った。周りと同じように。枠からはみ出ずに。友だちは少なかったけれど。
 そんな日々を送る中学二年生、つけ加えるとその頃から既に作家は目指していた、そんな女の子が考えることもまた、つまらないことだ。
 何かが、起きないかと。
 家には父の趣味で本がたくさん積まれていた。その本を読みふけっていると、父は必ず言ったものだ。
「家で本ばかり読まず、たくさんのことを経験しなさい」
 と。
 そのたびにわたしは思う。こんな田舎で、何もない、没個性的な人間であふれかえった土地で、どの程度の経験ができるというのか。
 多くの小説の主人公と違い、自分は過酷な境遇になどいない。甘やかされるが故の苦悩すら。平凡。ただその一言に集約される。ぬるい幸せと身に注ぐべくもない不幸。そんなもの、何もないのと一緒だ。中学の、紺色の襟のセーラー服と同じくらいにださい。ださくて面白味がない。
 そんな折に一つの噂が耳に届き、わたしはひどく興奮することとなる。
 ここら一帯の名家、比多橋(ひたはし)の家にようやく長男が生まれたという。それ自体はどうでもよかった。ただ、その噂により一つ、わたしにとって興味を惹かれる対象が生まれたのだ。
 比多橋の家には、小学五年生になる一人娘がいたはず。
 胸が躍った。名家の一人娘。跡取りが生まれない以上、将来的に婿養子をとるよう、周囲からはさんざん期待されてきたはずだ。それが、弟の誕生により立場を失くす。
 まるで、小説に出てくる人物。
 彼女に近づけば、何かが変わるかもしれない。そんな期待を寄せ、わたしは比多橋の家に近づいた。
 果たして彼女は、わたしの理想通りの女の子だった。
 自分の家より一回り、いや二回り大きい比多橋の家、その敷地にある納屋の入り口で、赤いランドセルを背負った少女がうずくまっている。全体的な印象は丸い。人づてに聞いた話によると、比多橋の娘は年寄りの「肥えることは幸福の象徴」という価値観により、小学生の時分からすでに大人と同じ量の食事を与えられていたらしい。もちろん、甘いお菓子も何かにつけ渡された。甘やかされでっぷりと太った子供。背筋がぞくぞくするような感覚を、忘れられそうにない。それが今ではどうなっているのか、と勝手に想像してまた身震いした。
 丸まった彼女に声をかける。
「どうしたの?」
 彼女は見かけに似合わず俊敏に、わたしを振り返った。まんまるな瞳が光る。ただその光は、縁がひどく淀んでいるような、そんな印象を与えた。わたしはますます熱を上げる。
「なにか用」
 彼女は、つっけんどんにうなった。歳にそぐわぬ低い声を、強いて出しているような感じだ。わたしはそれをあえて無視し、かがんで優雅に右手を出した。
「わたしは、壱口(いちぐち)みはら。あなたのことが知りたいの」
 彼女が目を、鼻の穴を大きく開く。
 にっこり微笑んでみせると、返ってきたのは右手を払いのける威勢のいい音だった。
「うるさい」
 第一印象は最悪に近い。
 最悪で、最高だった。

 彼女のことを知るため、わたしは動き回った。近所の子供を、親たちを尋ね、小学校にも赴いた。
 その結果わかったのは、彼女が小学校、入学してから今に至るまでいじめを受け続けていたことだった。驚くべきことでもない。醜く肉のついた体と大切に育てられ肥大化した自意識、標的になりやすいのは目に見えている。いじめの内容については逐一メモをとった。大きくなるにつれ酷くなる傾向にあり、今ではプリントを回されないのも連絡を飛ばされるのも当たり前、服に隠れて見えない部分を殴られる、トイレの床に落ちた食べ物を口に押し込まれる。四年生の時いじめを知った彼女の祖母が殴りこんだのがまた、悪化に拍車をかけたらしい。教師ですら黙認しているのが笑えた。「成績はいい。親も厳しいようだし、休み時間は図書室にこもっているようだから。でもそれを鼻にかけているような子だから」これもまた理想通り。頭だけ良くて、周囲を馬鹿にしきった良いとこのお嬢様。それが「人が見ているのは自分の家だけ。自分自身のことは何も見ていない……」そんな風に気づいていく、ああ、なんて素敵なストーリー。
 何度か直接会ってみたが、そのたび威嚇するように精一杯鋭い目をされたものだった。
 人づてでなく、彼女自身の口から聞いてみたくなる。
 あなたの身には今何が起きていて、あなたは今何を思っているのかと。

 月日が流れた。わたしは結局近くの高校に通うことになる。彼女を観察していたいから、その意志を秘めて親を説得した。彼女も順調に町の中学に進学していた。
 彼女が中学一年生の、夏以降からか。でぷでぷとついた肉が急激に落ち始めた。一時期はぶかぶかのセーラー服を着ていた彼女がいた。次の春にはもう彼女は肉が足りないくらいになっていて、これは何か――わたしの知識の及ばないところで何かあったのだろうかと思った。
 桜の花びらが舞う日。わたしは比多橋の納屋に勝手に上がり、農機具が並ぶ中、ぽつんと座りこんでいる彼女と対面した。
「またあなた……」
「ねえ。何があってそんな風になっちゃったの?」
 かがんで、わたしは彼女の瞳をのぞきこんだ。
 ついっと視線をそらす彼女の頬は、わずかにだがこけている。新調したらしいださいセーラー服に、手がすっぽり隠れるぶかぶかのカーディガン。
「食べる?」
 わたしはポケットから、苺の飴を取り出した。彼女の鼻先につきつけてみる。
「このままだと死んじゃうわよ?」
「……いいよ別に」
 その呟きは歳に似合わず低く、この世のすべてを見た老人のような、諦めに満たされているように感じられた。
 それが引き金となったらしい。彼女は、唐突にそれまで抑えていた何かを、次から次へと溢れさせていった。
「ゴキブリを口につっこまれたんだ。吐き出そうとしたよ? だけど口を押さえつけられて、飲みこむしかなかった。食べたんだよ。それから食べ物を口に入れるたび、思い出して吐きそうになるんだ。ねえ、なんでこんなことできるの。何も食べなくてもおじいちゃんもおばあちゃんも知らんぷりだよ。皆優しかったのに。今はもう誰も優しくない。ねえ、こんなことされる、ぼくは――」
 ぼく、という一人称は知らなかった。人からも特に聞いたことはない。幼い頃から厳しく躾けられた裏での、彼女のささやかな世間への抵抗?
「ぼくは、死んだ方がいいの?」
 ――そう思った瞬間に、わたしは彼女の言葉も聞き終えず、飴玉を手から放り、細い身体を抱きしめていた。
「あなたは、そうね」
 真っ黒のセーラー服の胸を、じわじわと熱さが這っていった。それは彼女の涙の熱。骨と皮の感触と、わずかに残るやわらかさ。わたしは腕にこめる力をいっそう強くした。
「客観的に見ても、いけすかない子供だと思う。だけど、それがあなたを虐げていい理由にはならない」
 彼女の身体が大きく震えた。悲鳴のような泣き声を上げ、わたしの背にしっかりと手を回して。彼女は泣いた。赤ん坊のように泣いた。



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