北九州

prev/top/next 


19



 学校へ行く途中の家に咲いたあじさいは、まだ穏やかな紫色を保ったままだった。いくつもの、むらなく紫の花々。その中の、中心部だけぽつんと青い一房。
 そのあじさいに、思いきり、鞄を振り降ろした。

×   ×   ×   ×

 その日はとても晴れていて、窓の外は澄み渡る空がまぶしかった。それでも気温は春のようで、洗濯よりは昼寝をしたくなるような、そんな天気だった。
 ベッドに横になり、考えるでもなく考える。
 例えば外では人々が世の酷さに目をつぶって生きていることや。例えば学校では誰かが虐げられるのにもかまわず、生徒が授業を聞いて教師が授業を行うことや。例えば皆が、誰かが酷い目に遭っていても笑っていられることや。例えば彼女はそのすべてに目を背けず、打倒北九州を目指し、ぼくと共にあることや。
 そんな事々を、考えていたのだ。
 ドアがダン、ダン、ダン、と乱暴極まりなく叩かれるまでは。
「……?」
 いったい何だろう、そう思いながら、たいした不安もなく、扉を開けた。
 瞬間、向こうにいた誰かが、ぼくの首に手をかけた。
「――!?」
 ものすごい力で、玄関から、廊下まで押された。そのまま倒れる。馬乗りになられる。
 彼女に。
 何の表情も浮かべない、怒りとも喜びともとれる息を口から鼻から漏らした彼女。怒りの表情も喜びの表情も作り方を忘れたかのように、歪な無表情をした彼女。
「な――」
 首を絞めつけられ、声もまともに出せない。何があった、どうした、どうして、目で問いかけようにも、彼女の瞳にはきっと何も映っていない。それだけは確実にわかった。
「ねえ」
 彼女が。うっそり、幽霊のように口を開いた。
「ねえ。ねえ。ねえ。博士。今ね、教室、血まみれだよ。椅子も机もひっくり返って、教室中地獄絵図。あいつらも教師も、殴られてぐちゃぐちゃ。誰か死んだかもね? よくわかんないけど。椅子で殴ったくらいじゃ死なないのかな? 頭から血を流してる人とかいたけど。どくどくどくどく、床が水溜りだけど。椅子も机も、教科書もノートもあいつらもみんなみんなみんな散らかって、ぐちゃぐちゃなの。すごいよ? 真っ赤なの。血の海」
 喉の苦しさに悲鳴にならない息を漏らしながら、ぼくは、彼女の語るその光景を鮮明に思い描くことだけができていた。
「ねえ。ねえねえねえ。ここ、北九州じゃないよ? なのにこんなに酷いこと起きてるよ? ねえ。ねえねえねえ」
 教室にやってきた彼女が椅子を振り上げ、隣の少女を殴打する。何回も何回も。呆然とするクラスメートの頭に、次々と、椅子を机を振り降ろす。のっそりと、教室を闊歩する。逃げ惑う生徒。呼ばれてやってきた教師も頭をかち割られる。教室の床に血が飛ぶ。赤く赤く、薄汚れていく。
「これでも北九州はもっと酷いって言える? そんなものに耐えないといけないの? ねえ。北九州を潰すってどうやって? 北九州にいる人全員殺すの? 爆弾でも落とすの? 電波ってどうやったら止まるの? それで汚染はなくなるの? ねえ。ねえねえねえ。答えてよ」
 首にかけられた両手が、ぐっと、力を増した。外そうと自分の手を重ねるけれど、その力の強さに愕然とする。
「答えてよ――」
 喉の奥が潰される。息が止まる、骨が潰される。
「は、な」
 どうにか絞り出せたのはそれだけだった。しかしその瞬間、彼女の瞳が無防備に見開かれる。ぼくはその隙にありったけの力で、彼女の腹を蹴飛ばしていた。
 ゴンッ、と鈍い音がする。自分でも信じられないような力を出していたことに気づいた。彼女は壁に頭を打ちつけ、気を失っている。しばらくぼくは荒く呼吸し続ける。ぜはあ、ぜはあと、思うまま息を吸い込む。それから立ち上がり、おそるおそる、彼女の頭に触る。血は出ていない。首に触れると、とことこと、確かに脈は打っているようだった。
 彼女と向かい合う形で、壁にもたれかかる。
 学校で皆に暴力の限りを尽くした後、ぼくを殺しにきた彼女。
『ここ、北九州じゃないよ? こんなに酷いこと起きてるよ?』
 また呼吸が荒くなる。
 息を吸っても吸っても足りず、そのくせ吸うたびにむせてしまう。
『北九州を潰すってどうやって?』
『答えてよ』
 心臓が、胸が破裂しそうなくらいに鳴る。目の前がぐるぐる揺れて、視界が不鮮明になっていく。
『あなたは、間違ってる』
 何が?
 どうして?
 どこから?

×   ×   ×   ×




prev/top/next 
傘と胡椒 index



Copyright(c) 2013 senri agawa all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system