北九州

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 登校すればいつもの女子に囲まれる。彼女らは常に笑みを絶やさず、廊下を通り過ぎる教師に「お前らは仲が良いなあ」と穏やかな目を向けられるくらいだ。
 一人きりになる瞬間など、ほとんどないと言っていい。
 数学のプリントが見当たらず机を探していると「園江さん、宿題忘れちゃったの? しょうがないなあ」と邪気のない笑顔が近づいてくる。そして「先生に謝って、新しいプリントもらお」と席を立たせ、職員室まで先導していくのだ。途中の廊下で「園江さんは忘れ物とか落し物多いよね」「ちゃんとしないと駄目だよお」と、口々にやんわり叱る彼女たち。たどりついた数学教師のもとでは、「園江はたるんでいる」と眉根を寄せられるのに対し、「この子ちょっと抜けてるから」「わたしたちがついてるから」と、本人の無言にも構わず家族さながらに振る舞う。クラスに戻る道のりでは「先生も、あんな言い方しなくても」と代わる代わる励ましを述べる。
 教室に着くと、机の上、それに中からは筆記用具含め勉強道具一切が消えていた。周囲の人間はごくごく自然ににこにこしていて、「また園江、持ち物なくしたのかよ」と一部の男子がはやしたてたりする。隣の席の女子が「もう他のクラスに借りにいく時間もないから」と、机を寄せて教科書を見せてやると言い出した。書く物も貸してあげると微笑む。何も口にしないでいると、「お礼なんていらないよ」と、ころころ笑い声を上げる。チャイムが鳴り、やってきた教師はくっついた席を見て「また園江か」と溜め息を漏らす。クラス中の人間が皆、静かに笑みをたたえている。
 楽しげな喧騒に包まれながら過ごす昼休み、終わりがけになって一人の女子が目を輝かせて向かってくる。「園江さんの持ち物、見つかったよ!」きゅっと手首を掴まれ早足で連れていかれたのは、普段誰も使わない一階の隅にある女子トイレだった。誰も使わないくせに、びしょびしょに汚れたその床の上、教科書、シャープペン、筆箱、道具一式が散乱している。取り囲む女子たちを眺めると、彼女らはちょこんと首を傾げるのだ。「早く取りにいかないの?」
 トイレの床にしゃがみこみ、教科書を、ペンを、筆箱を、ゆっくりと拾っていく。彼女らを振りかえると、まだきょとんとした表情だ。拾った持ち物を、ぎゅっと胸に押しつける。笑い声がして、「園江さんたら、本当にドジだね」と満足そうな言葉が降り注いだ。
「しょうがないから、私たちがずっと一緒にいてあげるね」
 一人きりになる瞬間など、ない。

×   ×   ×   ×

 彼女はぼくの勉強机に向かい、ぼくの教科書を広げている。ぼくの鉛筆を握り、ぼくの貸すノートに字を書き連ねていく。
「博士。いつも教科書を貸していただいて、ありがとうございます」
「いいんだよ。知識は必要さ」
 さらりと言葉を交わした後、彼女は勉強に没頭していく。ぼくはいつもの大学ノートをたたんで、その後ろ姿を眺める。
 彼女のシャープペン、筆箱等はとり急ぎ汚れを拭いておいた。ぐしゃぐしゃにされた教科書、ノートは、ひとまずベランダで干している。正直ぼくですら触るのははばかられるが、新しいものを持っていけばまたどんな嫌味を言われるかわかったものではない。第一、何度でも汚されるのはわかりきったことなのだ。我慢して持ち歩く他ないだろう。何度でも汚れを落として。もう勉強の道具として用はなさないにしても。
 メンテナンスの合間、彼女はこうしてぼくの部屋で学習を行う。学校では勉強にならないし、自分の家で汚らしい教科書を広げるのも嫌だろう。この場所でしか、綺麗な勉強道具で、落ち着いて集中することはできないのだ。
 ただぼくも、彼女を見ているだけというわけにはいかない。
「今日はひとまず、持ち物を集中的にやられた、と」
「はい」
 彼女は鉛筆を動かしながら、ぼくに訊かれる学校での詳細を口にしていく。淡々と、曇りない声が流れる。ぼくはそれを大切に、大学ノートに写しとっていく。
「もうこれくらいなら、痛みを感じたりしないよね?」
「はい」
「本当に問題ないね?」
「はい」
「そうだよね。この程度で弱っていたら、話にならないだろう。もっともっと、耐性をつけていかないといけないんだから」
「はい博士」
 彼女はすらすらと、教科書を読みノートに問題を解いていく。
 その後ろ姿に、ぼくは満足して笑みを浮かべる。
 この調子なら神さまも喜んでくれるだろうかと、胸の奥がうずうずするのを感じた。

×   ×   ×   ×

 彼女の部屋の戸を開けると、出迎えてくれたのはサンタクロースを待つ子供のような笑顔だった。
「神さま! お久しぶりです!」
「こんにちは。元気にしてた?」
 彼女は「はい、ぼくは!」としきりにうなずく。ジャケットを脱ぐと勝手に持っていってハンガーにかけ、それから寝室のベッドにわたしを座らせる。自分はベッドの下に跪いて、きらきらと、わたしに瞳を向けてくる。
「例の子は?」
「さっき、帰りました。ほら見てください、記録、だいぶ溜まりましたよ!」
 そうして彼女は大学ノートを差し出す。見下ろす彼女の頭でちょん、とポニーテールが揺れた。わたしはそれを受け取って、彼女が医者のように羽織っている白いコートと交互に眺める。それから薄く口元を歪めた。
「ありがとう。参考になるわ」
「はい!」
 大事にノートを開く。そこには彼女がわたしに捧げるため、ちんまりとした文字で丁寧に綴った記録がある。わたし自身は顔も知らない「ロボット」が、今その身に受けていることに関する記録だ。
 舐めるよう、一文字も漏らさぬようノートを読む。と、ふいに、組んだ脚を冷たい手が触れた。視線を移すと彼女の右手はわたしの右脚を大事になぞっていき、ぎこちなく、どうにか踵へと到達する。そのまま少しだけ自分の方に足を寄せる彼女。ゆっくりと下がる頭、それに合わせてわずかに指がこわばるのが伝わってくる。そして、そのまま、ゆっくりと。ストッキングの爪先に、彼女の唇が触れた。
「神さま……彼女の耐性、どんどんついてますよね?」
 足先から、かすかな湿り気と生温かさが感じられる。それも一瞬のこと。
 彼女はぱっと顔を上げて、すがるようにわたしを見た。こちらの反応を待つ無垢な必死さ。
「そうね」
「あと少しで彼女は、北九州にも、立ち向かえるくらいになりますよね?」
 またわたしの足に視線を落とし、彼女は熱のこもった呟きを漏らした。それはそれはうっとりと湿った声音で、自分に言い聞かせるような響きが多分に含まれているのを感じる。
「……そうね」
 わたしは彼女の小さなつむじを見つめ、爪先へのキスは崇拝の証か、などとひとり嘆息してみるのだった。



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