北九州

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5



「あら、おかえり」
 暮れた道を歩き住宅街の一角へとたどり着き、ドアを開ける。靴を脱いで手を洗おうと洗面所へ向かう、途中の台所には母が立っていた。
 母はにっこりと、へこんだえくぼで微笑む。それに対して「ただいま」と返す。蛇口をひねって水を出す。タオルで水滴を拭ってから、ドライヤーをあててまだ間もない髪の毛に手をやる。春の宵の風に吹かれ、頭の熱はもう冷めているようだった。
 じきに夕食だから下で待っていなさいと言う母にうなずき、二階の自室に鞄を置いて制服を着替えてから、リビングへ。そうするうちに姉も帰ってきて、「ただいま」「おかえり」何気ないやりとり。父からは「飲んでくる」と電話が入って、母が「もうご飯用意したのに」と頬を膨らませる。仕方ないからと、三人で食卓を囲む。
「あ、これおいしい」
「そう? この前友だちに作り方聞いて、やってみたのよ」
「へえー」
 テーブルに並んだみそ汁、サラダ、鶏肉のトマト煮、ご飯。ぽそぽそと、箸をつけていく。あたたかい感覚が喉を通り過ぎていく。
「今日、おとなしいね?」
 ふいに、姉が顔をのぞきこんでくる。「元気ないよ?」と向けられたきょとんとした瞳、少しだけ不安そうに揺れている。母もそれに追随して、箸を止める。
 大丈夫だよ、問題ないよと、なんでもないふりで、ほかほかのご飯を口にする。
 他にすることもないからと、食後も三人でリビングにてテレビを観る。そのうちに父が帰ってくる。連絡したより早く帰ってきた父は、「何か食い物残ってる?」と悪びれず母に言う。
「あなたが夕飯前になって『飲む』なんて言うから、残ってますけど?」
「いやそれが、結局やめることになって」
「もう! 今温めるから」
 母は台所へ。父は部屋で背広を脱いで、また戻ってくる。
「お父さんいい加減ー」
「しょうがないだろ。なあ?」
 姉が、母に代わるかのように父に文句を言う。それを苦笑いで受け流していく父。背後ではテレビの中の芸能人が能天気に騒いでいる。
「まったく……お姉ちゃんはうるさいなあ。なあ?」
 参ったという様子の父がこちらに同意を求めてくる。やれやれといった表情が向けられる。
 曖昧な笑みを返す。

×   ×   ×   ×

 久しぶりに街に出る。白い部屋から外へ踏み出すと、ぎらぎらと、ビルたちの光がぼくの目を焼いた。思わずまばたきする。視界に広がる道には、ちらほらと人がいる。きっとビルの中にもたくさん。
 昼間の街道は穏やかに陽が射し、街路樹が太陽の光を受けて緑色に、きらきらと輝いていた。もう五月も終わりか、と何気なく思う。のんびりと、駅の方面まで足を運んでいく。
 ここには、この街には、かつていた青田の広がる世界にはなかったものがたくさんある。何本も線路の通った駅、駅に付属した百貨店、大きな本屋、こじゃれた喫茶店、大きな道路、その他色々。まぶしいくらいに様々なものたちに埋もれて、きれいに晴れた空はひどく遠くに感じられる。道行く人の姿はあの田舎よりもずっと洗練されているようだけれど、その中身はよくわからない。
 そうこうするうち、駅前、木やベンチがシンメトリーに並べられた憩いのスペースまで到着する。鳩がたくさん、のんきにとっことっことアスファルトの上にいる。近づいていってもあまり避けない鳩たちに、苦笑したいような気持ちを覚えた。
 と。紫や緑をまばらにまとった灰色の鳩の向こうに、それより大きな黒が見えた。近づいてみると、光沢のある黒一色の中、白い筋と朱色が混じっている。
 思わず口に手を当てた。
 青々茂る木の下で、大きな体のカラスが、横たわるカラスをついばんでいたのだ。カラスがカラスを――いや、カラスだったものを、しきりにつついている。朱色の肉を、口に運んでいる。抜け落ちた羽根の先端が無機質に白い。
 一歩後ずさる。辺りを見回す。駅前は、真昼間でも人の通りが絶えることはない。足を止めることなく、行きかう人々。
 誰もが、カラスの共食いなんかに目を向けない。
 ぼくはなんだか気が遠くなって、ふらふらと、カラスとは反対方向のベンチへとどうにか向かった。

×   ×   ×   ×

「かみさま……?」
 もしやと思って近づいてみたら、か細い声でそう呼びかけられた。ビンゴだったようだ。
 駅前のベンチに、彼女がぐったりともたれかかっていた。授業の合間に本屋でも物色しようかと考えていたけれど、それもおじゃんかと軽く肩をすくめる。
「いったい、どうしたの?」
 同じベンチに腰かけて、少し思案してから彼女を引き寄せ、太腿の上に頭を下ろさせた。見慣れた小さくて丸い頭。ポニーテールがだらんと垂れる。彼女は小柄で顔立ちも幼いから、下手をすれば母と娘のように映ったりするのかしら――と微苦笑してみる。さすがにそれはないだろう、せいぜいが姉と妹だ。
 彼女の額に手を当てると、ぽっと熱い感触が伝わってくる。一瞬だけ、目線の下の身体がびくっと震えた。わたしの手は相当冷たかったらしい。
 しばらく、おざなりに頭を撫でていると、彼女が弱々しく口を開いた。
「あっちの方で……」
「あっち?」
「あっちの、木の下で。カラスが、食べられてたんです……」
 カラスが、と頭の中でオウム返し。それが聞こえたかのように、彼女はうつらうつら、「カラスが、カラスに」と呟いた。
 しばらく彼女を撫でさすりした後、わたしは大事にその頭をベンチへと預け、一時席を立った。彼女が示した方向へと足を向ける。
 その木の下には、なるほど、カラスの屍骸が横たわっていた。肉という肉は食われた後のようで、残るのは黒い羽根のかたまりと、そこからのぞく土混じりの朱色だけ。わたしはポケットから携帯を取り出し、かつてカラスだったそれに一回、シャッターを押した。それからまた、彼女の元へと戻る。
 駅前のベンチから街を眺める。車の音は絶えず、目先にあるビルは磨かれた表面に雲の流れを映している。
「カラスも、カラスを食べるんですね……」
「そうね」
 街中で動物の死体を拝むことがないのは、カラスが人知れず処理しているからだと聞いた。カラス自身とて、その範疇なのだろう。
「だけどそれは、皆にとっては――」
 彼女は鼻先をわたしの腿にうずめていて、その横顔さえ見ることはかなわない。
 ベンチの前を幾人もが渡る。人々はちらっとだけこっちをのぞいてから、その目を各々の目標へ。こちらにはかまわず、その人なりの考えで目的で、ただ通り過ぎていく。
 太腿の上、彼女のちっぽけな拳がぎゅっと、強く握りしめられるのを感じた。



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