北九州

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 学校へ行く途中の道、誰かの家であじさいが花開いていた。まだ全体的に薄い黄色と黄緑を混ぜたような、そんな色をしていて、色づくのはもう少し先のようだ。曇りの天気に静かに沈むあじさいから目をそらし、通学路をひとり行く。
 雨は降りそうで降らず、体育の授業は外で。二クラス合同だ。女子全員が校舎の周りでランニングする中、男子はソフトボール。数人に囲まれる中、前を走る一人の肘が肩に当たり、バランスを崩す。尻もちをついてしまう。「大丈夫?」と足を止め微笑む彼女たち。その手をとりながら、ふいに、グラウンドの方を眺める。コン、とバットがボールを打つ音。鈍い色の空に、歓声が吸い込まれていく。
 その後の昼休み、弁当を広げる女子に囲まれていると、ふいに一人が言い出した。
「ねえ園江さん、体育の時、――くんのこと見てたでしょ!?」
 思わず首を傾げた。その名を出されてもまったく心当たりがなかったからだ。
「見てた見てた!」
「ねえ、好きなの!?」
 隣のクラスらしいその男子のことが、少しもわからず、何も言えない。しかしそんなものは意に介さず、彼女らは甲高く「好きなんでしょ」「好きなんでしょ」と繰り返す。ひどく無邪気な響きが、教室を広がっていく。
 そうして一人が、こんなことを言い出す。
「――くんに、告白しないの?」
 そこからはまばたきする間もなかった。女子たちが口々に「告白してみたら」「きっとうまくいくよ」「私たちがついてるから」と言い、昼休みが終わって授業が終わって放課後、手を引かれるまま教室の外へ。掃除が始まる音を聞きながら、すでにそこに立っていた一人の男子に目をやる。戸惑ったように口元を尖らせた男子。後ろでは女子たちが、小声で「頑張って!」と背を押す。「好きです、付き合ってください」と、言わなければ、と。きょろきょろするが、目の前には男子、後ろには女子たち。笑い声。軽やかな声援。
 どうにか言葉を絞り出した。か細い声で、どうにか。
 それに対して、男子は顔をしかめながら面倒そうに言った。
「ごめん、園江さんのことよく知らないから」
 そうして頭をかいて、立ち去っていく男子。すぐさま駆け寄る女子たち。
「大丈夫!?」
「元気出して」
「落ち込んだら駄目だよー」
 肩を叩き、甘い音色で語りかける彼女たち。動くことはかなわず、その気も起きず、じっとしているしかない。

×   ×   ×   ×

「この地区での汚染も、相当酷いものになっている」
 メンテナンス。彼女の傷を修復して損なわれたプログラムを復元する。汚れた衣服や身体を洗って、その間にその日あったことを語らせる。神さまに報告するためもあるが、ただ事実を述べていくことで、彼女自身も冷静になれる。ぼくらの目的を再確認することにも繋がる。
「名前も知らなかった男子に告白させられる。彼に露骨に嫌な顔をされる」
「はい」
「大丈夫だよ。女子たちも、彼も、皆汚染されておかしくなっているんだ。だから気に病むことはない」
 ガラスのような瞳でうなずく彼女。ぼくは大学ノートに書き取りながら、強いて淡々と続けた。
「心が痛むのは事実だよ。でもこの痛みを覚えるからこそ、次同じ目に遭った時にダメージは少なく感じられる。耐性がついていく。そのうち何も感じなくなる。すべてはきみが強くなるための糧だ」
「はい」
 ノートを閉じて、ぼくはベッドの上に座る彼女を見つめた。膝に置かれた握りこんだ拳。その拳はただじっとしており、彼女の瞳は黒く揺るぎない。
「汚染されてしまった奴らは、駄目だ」
「はい」
「北九州を潰せば元に戻るかもしれないけれど」
「ええ」
「それまでは、あいつらに何も期待してはいけないよ」
「――はい」
 真正面に向き合い、確認し合うぼくら。
 ぼくは椅子から立ち上がり、彼女の頬、首筋、肩、腕――鎖骨、胸、腹、順に、右手でなぞっていく。
「きみはきっと、相当強くなっている」
「そう、ですか」
 それからぼくは膝をつき、彼女を見上げてその両手を握りしめた。
「あの頃とは比べ物にならないくらい、きっと。でもまだ足りない。実の親を歯型がつくくらいきつく噛ませる。大便を食べさせる。一ヶ月半もの間ろくな食事を与えない。肉親の死体を解体させる。幼い姉に弟を殺させる。そんな狂気に立ち向かうにはまだ足りないんだ」
 彼女の手はぼんやりと、かろうじて熱を灯していた。ぼくの手のひらの方がまだ熱い。
 白い部屋で、しばらくの間このままの立ち位置が続く。
「もっと耐性をつけないと」
「はい博士」

×   ×   ×   ×

 天気が悪いと気分も乗らない。いっそ雨でも降れば傘をさすのも一興だけれど、降りそうで降らない、どんよりと灰色の空には憂鬱ばかりが募る。なんて考えてみるけれど、さほど気持ちは沈んでいない。考えてみただけ、だ。
 その日は昼休み前後に用事があって、どうにかこの時間で食事をとるしかなかった。食堂は既に混んでいる。わたしと友人は仕方なしに外のベンチでパンをかじっていた。
「ねえ、今書いてるのっていじめの話なの?」
「? どうして?」
 特に脈絡なしに、友人が尋ねてきた。わたしは口からパンを外して疑問符を浮かべる。
「この前、訊いてきたから」
「ああ。まあ、そうね……いじめの話っていうか、そういうのが出てくる話ではあるけれど」
 そうなの、と友人は興味深そうに顔を寄せてくる。わたしは大ざっぱに今書いている小説の内容について口にしていった。濁った空気に語る声がもわもわと浮いていく。
「図書館だと社会福祉系の本棚とか、結構良い本あるよー。ああ、そこらへんならもう見てるか」
「……そうね」
 本当は本よりも参考になる資料があるのだけれど、という台詞は頭の中に大事にしまっておく。
 偶然街で彼女と会った日。あの後わたしは彼女のマンションへと行き、また書き溜めたノートをじっくり見させてもらった。彼女はわたしにみっともないところを晒したと悔い、爪先に口付けた。それからずっと、わたしの足下に跪く。博士と神さま。しっかりと頭に叩き込むまでの間、小さな頭がひどく愛おしく映っていた。
 物を書くにはたくさんの経験が必要だと、幼い頃からずっと言われてきた。それで色々なものを見るよう努めたし、こうして都会に出てきて、情報量は格段に上がったように思われる。
 そしてここ数年――もう六年近く続けている、彼女との関係。わたしのこの奇妙な体験は、さあ、どれほどの糧となるのだろう。
「……でもねえ。いじめの体験談とかの本って、見てると本当に気が滅入る」
「そう?」
「自分がもしされたら――って想像するともう、鳥肌立って、ぞわぞわするよ」
「……そうかもね」
 曇り空を仰ぐ。この色をなんと表現するのが美しいか、そんなことを考えてみた。



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