北九州

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8



 授業中、ぽんと、折りたたまれた紙が机に放られた。隣を見ると、彼女が控えめに微笑んでいる。
『突然ごめんね。宿題のプリント、――さんが捨てるところ見たんだ……ひどいよね。止められなくてごめん』
 丸っこくて可愛らしい字。ピンクのペンで大事に書かれたそれを読み直し、少し考えてから、ノートの端をちぎってシャープペンを握った。
『別に大丈夫。だけどこんなことしてたら、――さんに目をつけられるよ』
 黒い文字は自分でも素っ気なく感じられるが、直すほどでもないかと思い、そのまま隣へぽんと渡す。
 現代文の教師が教科書を読み上げる中、また紙がやってくる。
『それはいいんだよ。ごめん。本当にごめん。ひどいよね……』
 くしゅ、と手に取った紙にしわができた。
 また切れ端を作ってペンをとる。
『ひどい。――さんも、――さんも、皆ひどい。自分たちが捨てたくせに「なくしたの」なんて白々しい。ひどい。……ありがとう』
 こっそりと置いた紙の、最後を見て、彼女はじんわりと笑みをこぼした。
 チャイムが鳴るとすぐさま、女子たちの群れが取り囲む。
「園江さん! 宿題のプリント、見つかったよ!」
「今日中に提出したら許してもらえるかも! ほら!」
 腕を引っ張られて着いた先は、教室を出てほどなくしたところのトイレだった。一番手前の個室、和式便所の中に一枚の紙が浮いている。
「さ、早くとらないと」
 女子たちが視線を集中させる。固まったままでいると、肩を押される。
「ほら、早く」
 どうにかしゃがみこんだ。それから、恐る恐る、便器へと、手を伸ばす。手を伸ばさなければならない。視線。
 指先を水が触れた瞬間、背筋を悪寒が走り抜けた。本能的に手を引っこめる。だけど。視線、視線、視線。
「ほら! もう、ちゃんと探さないと!」
 その時何が起こったのか、しばし、理解が追いつかなかった。
 頭に乱暴に手を添えられた、その圧力を感じる間もなく、顔が、水の中へじゃぼんと落とされたのだ。半開きだった口に水が、便器の水が浸入――その瞬間に喉の奥、舌の根を言い知れぬ不快感が電撃のように這う。顔を浮かせようと必死でもがく。
「ほら、ちゃんと見て!」
 がぼがぼと、むせるのを抑えられない。口が、喉が、全身が、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
 ――どれだけそうしていたのだろう。
 ようやく頭を押さえた手が離れ、便器から顔を外すことができた。あらん限りに咳き込む。咳き込んで咳き込んで、必死で身体から不快感を追い出そうとする。
 目を薄く開くと、いくつもの視線とぶつかってしまう。自分を取り巻く笑い声。
 その奥までどうにか目をやると、彼女が、胸の前を手で押さえてこちらを見ていた。
 ――ひどいよね。
 咳き込んで咳き込んで、うなずく。

×   ×   ×   ×

 話を聞いているだけで鳥肌が立った。
「ちゃんと見て探せと、便器に顔を突っ込まれた?」
「――はい」
 背中を怖気がくすぐった。ただそれを彼女には悟られぬようにして、ぼくは冷静な風を装い大学ノートを広げる。
「便器の水は、どんな味がした?」
 単語の定義について問うような調子を意識する。
 ぼくは博士。彼女を襲うすべての出来事に対し淡々と、余計なことを感じず、記録に努めるのが仕事だ。
 だから正確に、訊いて記入しなければなるまい。
 便器の水はどんな味だったかと。
「吐き気が、しました」
「もっと具体的に」
「……得体の知れない臭いがして、柔らかさがなく、飲んだ瞬間生理的嫌悪を覚えるような。そんな味でした」
「そう」
 彼女が鈴のように小さく吐き出したそれを、ぼくは一字一句違えず写しとっていく。
 ――便器の水の味は、飲んだ者にしかわかるまい。思い出したくもない。
 喉の奥を襲う吐き気に耐えながら、ぼくは彼女をしっかり見据えた。彼女の真っ黒な瞳――ガラスのような、しかしもっと、底を見ることをためらうようなそれが、今。何を宿しているのか、想像もつかない気もするし想像に難くない気もする。
「耐えられるかい」
「――どうにか」
 ノートを閉じる。ぎゅっと、胸に抱きしめる。
 彼女の、膝の上に置かれた拳を見つめる。固く握りこんだわけでもないように見えるが、果たしてどうなのか。
「大丈夫。順調すぎるくらいだ」
「はい」
「そう――もう少しだよ」
「はい」
 彼女は人形のように、機械的にうなずく。

×   ×   ×   ×

 今日の彼女はひどく消耗しているようだった。月に一度程度の、二人で外食しようと決めている日。いつもなら誕生日プレゼントを買いにいく子供のような、はしゃいだ顔を見せる彼女は、その目に暗い光を潜めていた。
「どうしたの?」
 待ち合わせた駅で彼女は、スカートの裾を握りしめうつむいたまま。そこからか細く声がする。
「神さま……すみません。今日、その、なにも食べられそうになくて」
「どうしたの、お腹の調子でも悪いの?」
 ふるふると首を振る。その、淡く産毛の生えたうなじあたりから、何も語りたくはないという空気が漏れ出る。
 わたしは溜め息をつき、立ち話もなんだろう、ひとまず彼女をアパートまで招き入れることにした。
 彼女の住んでいる新築マンションとは及びもつかない、学生用の慎ましいアパート。薄グレーの壁を目に流しドアを開ける。室内は黄ばんだ白の壁。ノートやレポート用紙が散らかりっぱなしだが、彼女に恥じらうこともないだろう。
「神さま……」
「とりあえず、座りなさい?」
 わたしは促し、彼女を敷きっぱなしの蒲団の上に腰かけさせた。もぞもぞと、ちんまりした足がシーツをなぞる。それから彼女は、背負いっぱなしだった鞄を下ろして、その中から大学ノートを取り出した。
「あの……すみません。口では説明できないんで、見てください」
 目は伏せられ、視線はこちらと噛み合わない。わたしは黙ってノートを受け取り、前回読み終わったところからなぞり始めた。
 ちょうどわたしがその部分にさしかかったあたりで、彼女は口元を手で覆う。
「……大丈夫?」
「すみません。大丈夫です」
 ぎこちない声。読み終えてみて、それもやむを得ないかと嘆息した。
 わたしはテーブルの上に置いたパソコンを立ち上げ、起動を待つ間もひたすら画面を眺めていた。彼女には背を向ける形となる。間抜けな音と共に現れるデスクトップ。そこからフォルダを開き、今書いている小説のファイル――そのすぐ下に置いた、「ロボット」の記録ファイルを開いた。ワードが立ち上がるまで、また数秒。
 ノートを横に置き、その内容を一文字も変更せず打ちこんでいく。ふいに、背中に重さがかかった。彼女がわたしに、ぴっとりと張り付いてきたのだ。
「神さま……」
 きゅっと、軽く、祈るように握られ添えられた両手。ふにゅ、と薄い胸が押し付けられる。そこからとことこと、伝わるのは彼女の心音。熱い吐息。
「――きっともうすぐ、終わるわ」
「え……」
 わたしはキーボードを打つ手は止めず、空気に沈み込むような口調で綴った。
「耐性、ちゃんとついてるじゃない。まだ足りないけれど、でも、一年前より遠くない。きっともう少しの辛抱だわ」
「神さま――」
 背中に、かすかに湿った唇が当たった。わたしに全身全霊、顔をうずめてしがみつく彼女。
 彼女の、「ロボット」の体験についてはもうだいぶ溜まっている。小説中に活かせる部分も、活かせない部分も、だいたいわかってきた。もう近日中にできあがるだろう。彼女たちが満足する日もそれと同時なのであろうと、根拠もなくわたしは思っている。



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