北九州

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 じわじわと、肌を取り巻く空気が温度を上げているようだった。学校でも皆ブレザーを脱ぎ、半袖の腕をさらしている。
 夏服が始まって数日目のこと。外体育が終わり汗を垂らしながら更衣室へ行くと、何度も見慣れたように自分のスペースから制服が消えていた。溜め息すら喉の奥から上がってくることはない。
 突っ立って待っていると、着替えを終えた女子に「そういえばあそこで、園江さんの制服見たかも」と手を引かれる。Tシャツとハーフパンツのまま、廊下を早足。目前をひるがえるチェックのスカート。真白く輝く半袖ワイシャツ。常に感じる何人もの、通りすがる生徒の教師の、後ろを走る女子の、視線、視線、視線。
「ほら、やっぱりここだ!」
 たどり着いたのは美術室。
 赤、青、黄色――パレットの上、絞り出された何色もの絵具。その上に無造作に、半袖のワイシャツとスカートが置かれていた。
 まとわりつく視線。
 ゆっくりと、夢の中のような気持ちで色とりどりに染まった制服の元へ。スカートを手に取る。その下のワイシャツを引っ張り上げると、ぬちゃあ、と絵具が尾を引いた。
「見つかってよかったねー」
 制服を抱き抱えたまま、教室へ。体操服のまま授業を受ける。
『制服、大丈夫……?』
 隣から、ひそやかに送られてくるノートの切れ端。
『どうしよう。汚れとれないかも。皆なんでこんなことするんだろ……』
 シャープペンで、少し乱雑な文字を綴る。すぐさま隣へ。
『ひどいよね……ごめん』
『――さんは悪くないよ。でも――も――も――も、皆許せない。なにが「見つかってよかった」だ。ふざけるな。許さない』
 また、彼女からの返信。ピンクの丸っこい字。紙を握りしめる手にこもる力は、最初より幾分やわらいだ気がした。
 ――ひどいよね。
 ふいに。「皆が、ひどい。皆が、おかしい」頭の奥から、前に聞いた言葉、言い合った言葉がゆるやかに響いた。穏やかな青空がフラッシュバックする。
 それと同時に、胸の奥をじわりと掴まれるような、奇妙な感触を覚えた。

×   ×   ×   ×

 半袖についた絵具は、どれだけ洗っても不自然な跡を残して消えてくれない。スカートの方はそこまで汚れていなかったのが幸いだ。だけど半袖は、これはもう駄目だ。色のついた位置がまた悪い。背中の真ん中。冬服ならブレザーで隠せるのに、と舌打ちする。
「駄目だ、とれない」
「どうしましょう」
 彼女は変わらず、深い黒い目で立ち止まっていた。ぼくは少し思案して、机の上に置いておいた財布を手に取った。
「新しいの、買ってくるよ。ぼくのじゃサイズが合わないだろうし」
「でも、博士」
「さすがに、シャツを買うお金は持ち歩いてないだろ?」
 口の端をわずかに上げると、彼女は浅くうなずいた。ぼくは早足で、マンションを出て駅前へと向かう。
 道に並ぶ街路樹をくぐり抜けて、小走りで進む。ビルが眩しい。すれ違う様々な人々。会社員らしきスーツ、黒い学ラン、ハイヒールがアスファルトを打つ音。走って走って、彼らから遠ざかっていく。
 目線を上げると、街の方には人が溢れていることに気づく。進む道に、人が絶えることはないのを思い知る。後ろから来たパンツスーツに追い抜かれる。前を、後ろを、人が過ぎていく。
 ――この人たちは。
 昨日どこかで通り魔殺人があって、女の人が死んだ。男子高校生が校舎から飛び降りた。隣の県で起きた連続殺人事件は、まだ裁判が始まったばかりだ。
 北九州では一人の男性が幾度も通電を受け、食事もろく与えられずワイシャツで風呂場に放置されて空き瓶で殴られて吐瀉物を糞尿を食べさせられて実の娘に噛みつかれた末殺された。一人の男性が妻の母親を妻を絞殺させられ風呂場に監禁されて衰弱死した。弟の殺害を手伝わされた十歳の少女が殺された。一家が死んだ。金目当てで一家四人が殺された。家族と、長男の友人が殺された。七人もの女性が殺された。幼い少女が幼い少女に殺された。
 彼女は制服を教科書を汚されて汚されて便器の水を飲まされた。
 人が人を殺して、人が人を傷つけて、人が人の肉を貪っていく。
 世界はこんなことで溢れかえっていて、今もどこかでこんなことが起こっているのに、どうして平気な顔で歩いていられるのだろう。なぜ平然としていられるのか。
「これも、汚染のせい……」
 気づけばその場でうずくまっていた。
 通り過ぎる人、人、人。
 誰もぼくには見向きもしない。素知らぬ顔で、世界を生きている。

×   ×   ×   ×

 書こう、書こうとずっと言ってきた。自分に言い聞かせてきた。
 パソコンの明かりだけ灯る部屋で、キーボードで文字を打っては、バックスペースで消していく。
 上手くいかない。
 言葉は水泡のように、浮かんでは表面で弾けていく。きれいにまとめて溜めていくことができない、歯痒さに身震いする。
 最小化していた、「ロボット」の記録を呼び起こす。得体の知れない臭いがして、柔らかさがなく、飲んだ瞬間生理的嫌悪を覚えるような。そんな味。便器の水はそんな味がするという。それを描写していく。彼女から聞いた通りに。だけどなぜだろう、ひどく薄っぺらく感じてしまうのだ。
 初めて北九州監禁事件について知り、詳細を調べた時には「まるで作り話だな」と感じた。起こった出来事すべてがまるで嘘のようで、こんなことをする人間が本当に存在するものか、いたとしたらどこかおかしくなっているに違いない、と本気で思ったものだ。
 ただ、その中でもわたしの内部に肉薄するような、吐き気を催す感覚があった。
 わたしが今書いているものの中には、その感覚が果たしてあるのか?



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