九月の末頃だった。その日僕はちゃんと、大学生協ではなく駅前の大型書店に足を運んでいた。
そして入口に立ってすぐ、現実を目の当たりにした。
『N大出身作家、香月浩介!』
そこは書店のおすすめ本が置かれるコーナーで、だいたい月ごとに内容は変わっていた。その時々で、新刊でも古い本でも並べられる。
そのおすすめ本の中に、よく見知った彼の既刊が並んでいた。帯には『重版御礼』とでかでかと書かれている。たった二作であるが、『今月のイチオシ』と、綺麗なポップのつけられた彼の作品。
ぐらり、と視界が揺れた。
ポップには書店員の書いた細かい説明が載っていたが、その文字を追うことはかなわない。吐き気をもよおす悪寒が体を駆け巡り、僕は、結局何の本も手に取らず書店を出た。
帰り道、スーツを着た学生とすれ違った。おそらくは、最近就職活動を始めたばかりの大学三年生だろう。まだ瞳に宿る力は強い。楽しそうに、隣を歩く同じ年頃の人と話をしている。
この三年生には明るい未来が見えるのだろうか?
よれたスーツを着て、そのくせどこの企業へ行ったでもない僕のことは、彼の目にはどう映るのだろう?
――僕は、大学の四年間でとうとう、普通の企業に勤めて働く道に行く覚悟ができなかった。それは当初、他に追うべき夢があって、それしか見えていなかったからだった。
僕は、小説家になりたかった。
それは中学生くらいから漠然と持ち始めた夢で、高校、大学と進学していってだんだん自分の中で納得いくものが書けるようになるにつれ、確固たるものとなった。高校も大学も文芸部に入り、僕の小説はそこに所属する人間に認められた。「拝浦が一番上手い」、その言葉は僕にとって当たり前のものだったが、言われると気持ちは高ぶり、またさらに書く意欲が湧いてきた。
小説だけで食べて、生きていける人間など一握りだ。僕は、自分がその一握りになれると信じていた。
書きたいものがあった。僕は小説以外では報われることは何もなくて、その虚しい気持ちを描きたかった。自分の好きなように進路も選択できない不自由。話を聞かない親。友人に裏切られる辛さ。好きな人に振り向いてもらえないみじめさ。そういった全てを作品にぶつけて、それが誰かの心に触れればいい。より多くの人にそうしてもらえるよう、新人賞を獲って、デビューして、作品を重ねて、売れっ子になって、そして、そして、死ぬ時まで小説を書いていたかった。
他のことは期待しても無駄なだけだったが、小説だけは期待してもいい。そう思っていたんだ。
彼が現れるまでは。
香月くんは大学一年の後半から僕の所属する文芸サークルにやってきた。気さくな彼はすぐに他のメンバーと打ち解けた。そしてそれ以上に、彼の作品は凄まじいものだった。
書き始めたのは最近だと言った。そんな彼の作品は、誰よりも、僕よりも、頭一つ分飛び抜けていた。
彼は僕が最後まで守ろうとしていた期待を粉々に打ち砕いた人間だった。
本来ならもっと上の大学に行ける実力を持ちながら自分の意志でここに来た。親は彼のことを応援している。友人は彼を裏切らない。誰からも彼は愛される。
その上で、素晴らしい小説を書いた。
それでも僕は、自分はまだ大丈夫だと思っていた。きっと場所が変われば僕の小説の方が評価されるはず。そう思って、色々な所に投稿を続けた。しかし、どれも二次選考落ち、行って三次。いつまで経っても報われない。そして大学四年の四月、僕がある出版社の新人賞で二次選考に落ちた時、彼が別の賞で大賞を獲った。そうして彼は華々しくデビューした。彼は文芸サークルの誇りとなった。誰もが彼を褒めそやした。
母は「そんなものいつまで続くかわからない」と言ったが、そんなことは問題ではない。彼は羽ばたいた。才能を認められ、世に名を残すチャンスを与えられたのだ。
それに比べて、僕は。
――小説ですら、期待はできないのではないか?
彼の笑顔を眺めながら、僕はそう思った。四年生が終わるまでサークルに所属し続けたのはちっぽけなプライドからだった。彼の受賞に嫉妬してへそを曲げた、周囲にそう思われたくなかったのだ。幸い、受賞後忙しくなった彼はあまりサークルには顔を出さなくなって内心ほっとしていた。
こうして僕は空っぽになった。
小説で駄目だった。かといって他の道には進めない。それは、自分にはもはや何も残っていないことをわかっていたからだ。
気がつけば家に帰り、スーツのままベッドに倒れ込んでいた。
頭はいつまでもとりとめのない思考で埋め尽くされていた。自己満足の世界。それすらもままならなくなった今現在。
――けれど。
僕は期待することをやめたつもりだった。小説を書き続けるのは、一応サークルに属しているから。そう自分に対し言い張ってきた。ならば、サークルをやめ、就職浪人と称して大学に居続けるようになってなお、小説を書いている理由は?
『すごいですね!』
――ああ。
無邪気な声が僕を繋ぎとめたのだ。
潰れそうな僕、圧倒的な絶望の渦に、一筋の糸を垂れたその声。
「受験」「洗濯機」「黒猫」
書かなければ。書いているうちは、僕はまだ意識を保っていられる。余計なことを考えずに済む。
――あの子のために、書くんだ。
そう立ち上がり、パソコンの電源ボタンを押そうとした。その時だった。
鞄の中から鈍い音がした。携帯のバイブ。ムーっムーっと、呻くように鳴る音。顔をしかめて、僕はそれを取り出した。メールの着信。ああ、彼女からか。
そして文面を目にした瞬間、僕はわけがわからず固まった。
『人殺しがどんな気持ちか、知りたいですか?』
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