学校に行くのがひどくおっくうだった。けれど理由を説明することができなくて、母も食卓でのろのろと箸を動かす私に気付きもしない。大きめの皿に盛られたキャベツの上、焼いたばかりの目玉焼きにぱっくりと箸を入れる。とろりと黄身が染み出るものの、口に運んでもなんの味もしないような気がした。父はもう出勤していて、母はのろのろと咀嚼しながら皿ばかりを見つめている。休むわけには、いかないようだった。
食器を片づけ鞄を手にとり、玄関へ。そのままマンションを出て、住宅街の景色を見るでもなく歩く。マンションの群れも低い家の並びも塀も、どこもかしこも風景は灰色にかすむようで、よくわからなかった。
「絵空、おはよっ」
一軒家の前で機械的に立ち止まってチャイムを押すと、相子が出てくる。相子は元気よく、私に朝の挨拶を向けてくる。やんわりと返す私に、足を並べる相子。そうして私たちは他愛もない話をしながら、学校に行く。
いつも感じるにおいが、今日は鼻がばかになってしまったようでわからなかった。相子が宿題の話をする。こっそりと私は彼女から視線を外し、あたりを見回す。ただ、目の前がどうにもぼんやりして、情報が頭に入ってこないような、変な感覚があった。
相子にはちゃんと見えていて、においを感じとれているのでしょうか?
朝のホームルームの時間、担任は「あら、城原くんは欠席……?」と首を傾げていた。教室にはぽつんと空いた席が一つきり。その席の周りで「サツキ、どうしたんだろうな」「メールしても返ってこないし」と、ざわめきが起こっているのが耳に届いた。
それと同じように授業も耳に流していって、普通に一日が過ぎていく。
なにも、変わったことはないように見えた。
その日は部活のある曜日で、美術室にはコンクールの終わったのんびりとした空気が広がっていた。三年生はもう秋のコンクールで実質引退だけれど、部活動に足を運ぶのは自由だ。「受験だからって根詰めることもないし」と、相子は放課後当然のように二階へと下りていって、私もそれに連れられていった。
部室では各自が自由に次作の構想を練ったりしつつ、だらだらと雑談が繰り広げられる。スケッチブックと睨めっこするふりをしながら、話題は相変わらずのもの。
「うちのクラスの子も、相子先輩の絵褒めてましたよ!」
「本当? でも改めて言われると照れるよー」
「美術部興味出てきたって、でも相子先輩三年生だから行っても意味ないかーなんて言ってましたよー。あーあ、相子先輩ももうすぐ卒業ですもんね。いなくなっちゃうって考えるとすごく寂しいです」
「そう言ってもらえると……なんか嬉しいな」
私の隣の相子は、照れながら少しこちらを向く。私はそれに、微笑みを漏らす。
そんな中でふとトイレに立つと、後ろから声をかけられた。
「絵空先輩」
「松本さん」
他の部活のざわめきも遠い廊下で、私たちの声は同じ場所から動かぬような調子に鈍く響いた。こもったような雰囲気の中で振り向くと、松本さんは眉間にしわを寄せながらいぶかしむようにこちらに視線を向けている。
「なんか今日、元気なくないですか」
ぱた、と足を止めてしまっていた。
松本さんはそんな私に合わせるようにその場から動かない。距離を保ったままだ。その目はいつものように呆れたようでいて、ほんのちょっぴり、気づかわしさがのぞけた。
ただ、それを見ていて、気持ちがゆるむこともなかった。
「……なんでもないよ?」
私は薄く、力強くとは言えないような程度で笑って、また前を向く。松本さんが小さく「そうですか」とつぶやくのが聞こえて、今日彼女の声を聞いたのはそれが最後となった。
美術部が早めに終わったため、帰宅時まだ外はそう暗くなっていなかった。太陽こそ沈んだ後だったけれど、まだ空が光を残している。雲の形一つ一つがよく見えて、地平線の向こうは綺麗な赤紫色に染まっていた。
「うわあ、空、すごい」
帰り道、住宅街の中を歩きながら相子が誰にともなく言った。首を上向け、わずかに口を開いたその顔。
「ほら、あのうろこ雲とかすっごいきれい。写メ撮ろうかな、うわー、携帯だと全然うまく撮れない!」
携帯を開いて空にかざす彼女を、私はぼんやりと見つめる。それから目線を空へ。丸い雲の連なりは空の色を端々に映し、ゆっくりと流れているようだった。似たような空は何度も見たはずだけれど、そのどれとも完全には合致しない。
空の色はいつだって違う。
「絵空が空の絵描くの好きなの、こういうの見てるとなんかすごいわかる」
「そう?」
「この、今見た空を、描きたい! って思うもん。いいなあー、こういうの。私も、大学で美術系サークル入ったら、空の絵描こうかな!」
相子はひどく無邪気に、携帯を空に掲げながらそんなことを口にする。その言葉には、口にしたそのままの意味しかないのはよくわかっている。相子はただ、綺麗な空を目にして、空を描いてみるのもいいかなと、そう思っただけなのだ。相子の、切り揃えられた前髪がわずかに風に揺られた。
たまらなくなって、私は視線を空からも相子からも外す。地面を見つめる。空とは違い、灰色ににじんだようなアスファルトの道。一軒家の群れ。
視界の端でなにかが動いた。ふいに、朝は感じられなかった臭いがよみがえる。
「あ――」
思わず漏れた言葉にもならないそれは、相子には聞こえなかったようだった。
目で追った、白くて部分的に茶色いそれは、すぐさまどこかの路地に消えてしまった。白くて、茶色の――
視線が路地から離れないまま、私はなにも考えず、小さくつぶやいていた。
「……自分なら、私より上手く空が描けるって?」
「? 何か言った?」
そのつぶやきはあまりにもか細く、相子の耳で意味をなすことはないようだった。
だから私は微笑んで、ただこう返す。
「なんでもないよ」
歩いていくうち、空が真っ黒く暮れていく。
そうやって、なにもかも知らんぷりするように一日が終わっていく。きっと、誰かの心になにかが沈もうと、気づかれることなどないのだ。
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