幸せになれない星の住人 16

幸せになれない星の住人

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16


 四月に買った小説をようやく読み終えた。結局夏休みに読みきれなかったそれを、明け方まで手にとり結末を見届けた。
 罪を犯した主人公は、色々あったけれど、真の幸せをつかめたらしい。
 ふうん、とだけ思った。
 あくびを噛み殺しながら学校へ行く仕度をしようとしたけれど、その前にほんの二時間、眠りにつくことにした。

 綺麗に空は晴れていた。くすんだオレンジ色のマンションから一歩踏み出し、見上げると、朝の青空に目を奪われる。静かで、薄く穏やかに広がる青色は、ずっと見ていると体が上に引き込まれるような錯覚をもたらした。
 意識を持っていかれる寸前で、私はそっぽを向いて歩き出す。
 マンションの群れから住宅街へ。似た形の建物を見ることすらなく、ただ進んでいく。その中の薄緑色の家で足を止め、チャイムを押すが、ドアホンがとられて『絵空ちゃん? 今日はまだ……』と弱々しい男性の声が聞こえるだけ。私はその声を聞き届けてから、再び歩き出す。
 どこの庭の花も枯れ始めていた。そこら中に漂っていたふわんとする匂いも、今やどこからもやってこない。相変わらず、鼻をつく悪臭だけはとどまることなく、ある屋敷を通り過ぎるその時は息を止めた。タイミングを誤り、少しだけ吸い込んでしまった公衆便所のような臭い。
 ふと、なにかが聞こえたような気がして塀を向いた。
 けれど、見回してみても、どこにもなにもない。
 ふ、と息をついてから、私は今度こそ歩みを止めず、学校へと向かうのだった。

 朝の学校、教室へはすぐに足を向けず、私は二階、廊下の端、美術室へと赴いていた。
「あれ、絵空先輩。こんな朝っぱらからどうしたんですか?」
 そこにはすでに先客がいた。松本さんだ。彼女はスケッチブックを広げ、窓際に座り鉛筆を走らせているようだった。
 私は質問には答えず、肩をすくめた。
 まあ、見られてもいいか、とひとりごちる。
「は? 何か言いましたか?」
「ううん、別に」
 ぴったりと笑顔を貼り付けながら、私は松本さんに背を向け美術準備室のドアを開けた。絵具と、木のにおい。きらきらと淡い光に揺れるほこり。
 その棚には、これまでの美術部員の作品が収められている。
 私はその中から、三年間描きためた、自分の絵だけを見つけ出していった。まとめて持ってはいけないので、一枚一枚、隣の美術室の机へと運んだ。それを見た松本さんが不審そうに眉をひそめる。
「何してるんですか」
「別に、なんでもないよ」
 彼女の声は無視しながら、私は自分の絵を全部集め終えた。
 一番手前に置かれたのは、今年学校祭とコンクール用に描いた絵。
『空の猫』
 そんなタイトルをつけたんだっけと苦笑しながら、キャンバスを持ち上げ、

 私はその絵をごつごつとした美術室の机に叩きつけた。

「な――」
 バキリと木の割れる音に、松本さんの声はかき消された。
 確認してみると、絵の真ん中にヒビが入っていた。本当はもっと画面が消えるくらいにぐちゃぐちゃにしたいところだったけれど、これでいいか。これで十分、絵は台無しだ。
 私は絵をぽいと捨て、隣のキャンバスに手をかける。ええとこれは、いつのものだったっけ。
「何してんですか!」
 と、持ち上げたその瞬間、松本さんが慌てて立ち上がり、私の腕をつかんだ。小さな体に似合わず、その力は強かった。
 私は首を傾げて、その手を振りほどこうとする。
「放してよ」
「何、してるんですか! 絵!」
「ああ、あのね。私、もう絵を描くのはやめるの。大学入っても美術系サークルには入らないよ。だから」
 それだけ言って松本さんから目をそらす。
 すると、どこか安心したような、ばかにするみたいな声が届く。
「つまり……今さら、いじけてるんですか? 相子先輩に勝てなかったからって」
「うん。そうだね」
「っ」
 さらりと返すと、ひゅっと息を呑む音がした。
 その隙に私は彼女の腕を振り払い、キャンバスを持つ指先に力を込める。思い切り、もう一回、それを叩きつけ、
「――っやめてくださいっ!」
 振りかぶったところで、今度は胴にしがみつかれ、私は動きを止められた。松本さんの小さな頭が見える。松本さんは、必死で私にしがみついている。
「何、いじけてるんですか! いいじゃないですか、別に!」
「なにが?」
「勝てなくたって。ずっと描き続ければ」
「もう、絵を描くのはやめるの。もう――期待するのは、やめるの」
 松本さんがそのままの体勢で、顔を上げた。私を見つめて、はっと目を見開く。言葉を探すような沈黙、その後、松本さんは震える唇で、偉そうな声を出そうとした。その声は全然迫力がなくて、偉そうな感じなんて、全く出ていない。
「そうやって、逃げるんですね。嫌なことがあったからって、逃げて、期待しないなんて言って、いじけたふりするんだ。ちょっと現実が気に入らないからって、ふてくされたふりをする。そうやって人の気を引きたいだけなんでしょう?」
「うん、それでいいよ」
「――っ何、言ってるんですか! こう言えば満足ですか! 私、絵空先輩の描くもの、好きですよ! コンクールで認められなくたってなんだって、そうやって絵に感動してくれる人がいて、気持ちを共有できたら、最高じゃないですか!」
「うん、そうだね、でも」
 きっと、松本さんの言っていることは正しいのだろう。
 誰かに勝つことだとか、そこにばかり価値があるのではない。ただ感動を与え、なにかを共有できるのなら、それはきっと尊いこと。
 だけど。
 ね。
 私はやれやれとため息をつきたい気持ちで、彼女を見つめた。
 そうして。
「ねえ。私――松本さんのことは、いらないよ?」
 松本あきらは眼鏡の奥の目を停止させた。
 それは、ずっと言いたかった台詞だった。声はずいぶんと冷たく、今までの分を吐き出すように響かすことができたように思う。
 その言葉に松本あきらは唖然として、私を見る。
「私、ずっと松本さんのことは嫌いだったよ。変な名前って言われた時から。きついこと言いながら、一応私のことなぐさめようとしてくれてたみたいだけど。だけど、そういうの、意味ないよね? いらない相手から言われたって」
 すらすらと、積もり積もった気持ちは口をついて出た。それに呆然としたままの松本あきらを眺めるのは楽しかった。
「松本さん、私のこと描くってはりきってたよね。できあがった絵に満足してた。だけどずっと言ってやりたかった。あんなの、私じゃないよ」
 松本あきらは傷ついたような目をした。
 その反応を得られて、私は幾分満足した。だからここからは全部ついで。本来なら松本あきらに言う必要はない、だけど誰かに聞かせるのも悪くないかな。そう思ってつむいだ言葉。
「期待するのを完全にやめるのって覚悟がいることだと思う。確かにね、期待するのやめたら、ダメージは負わなくなるの。だけど代わりに、追い続けたものを叶える喜びとか、全部捨てることになる。ひょっこり良いことに恵まれたりしても、追い求めたものを手に入れる、本当の喜びをもう得られない。もう、本当に幸せになることは、できなくなるの」
 松本あきらは床に膝を折っていた。
 それを尻目に、私は絵を壊す。今まで描いてきたものを、全部、台無しにしていく。
「期待しないって、こういうことだよ。覚悟しなきゃならないの――だけどね、私、もう疲れちゃったんだ。だからね。私は一生、幸せになれない星の住人であることを、納得しながら、生きていくんだ」
 朝の美術室に、破壊音だけが鳴り響く。
 あらかた終えたところで、私はその場を後にする。
「さよなら」
 それは、別れの挨拶。
 松本あきら、いや、私を取り巻く全てへの、決別の宣言だった。


 空が晴れている。空気はかなり肌寒くなってきた。
 ひとりで通学路を歩きながら、私は考える。
 自己満足にも足りないくらいだったけれど、私は今までそれなりに頑張ってきたのです。「もう少し頑張ってみます」、その言葉の通りに走り続けたつもりでした。
 だけど、もうやめます。
 自分をあますことなく晒せる、なにがあっても守りたい友人はもうできません。
 絵を描くことはやめるから、もう絵で評価されることもありません。
 本当は行きたかった大学には入れないと思います。
 もう、好きな人には好きになってもらえません。
 私はもう。
 幸せになれない覚悟を決めます。


 空はどこまでも青い。青くて、果てが見えなくて、今度こそ私はそこに吸い込まれていった。


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