幸せになれない星の住人 2−1

幸せになれない星の住人

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2−1


 ゴールデンウィーク明け、薄緑色の一戸建てに立ち寄りチャイムを押すと、中からどたどたと音が響いた。ドアホンがとられることすらなく、扉の向こうで「絵空ー?」と声がする。まもなく、ドアが開いた。
「……絵空、おはよっ!」
「おはよう、相子」
 久しぶりに見た小林相子の顔は、特に目を泣き腫らしていたり、隈をつくっている様子はなかった。相子のお父さんから「ゴールデンウィーク明けには登校させるから」と連絡はもらっていたけれど、一応大丈夫ということか。
 相子は鞄から鍵を取り出し、ドアを閉めてから「さ、行こ」と私をうながした。鍵をかけるその手つきはぎこちなく、思わず不躾に眺めてしまう。
 住宅街を歩きながら、相子は最近部活で問題はなかったかとか、部長の自分がいない間はどうだったかとか、そういったことを積極的に訊いてきた。私は、今年は新入部員が本当に初心者だから四月の活動は結局一年生の指導が中心だった、どうにかやってるよと、当たり障りのない返答をする。
 話の途中で、相子は幾度となく前髪に手をやっていた。私はなんの気なしにそれを指摘する。
「相子、髪伸びたね。邪魔そう」
「ああ、切りそびれちゃっててさー……」
 相子は、情けなさそうに苦笑いをした。
「私も、絵空みたいにショートにしてみよっかな」
「成人式までは伸ばすんじゃなかったの?」
 冗談交じりに言ってみると、「そうだねー」と相子は気の乗りきらない、薄い反応をした。
 それからはちょこちょこと、とってつけたような会話が続き、学校への道のりはいやに長く感じられた。途中、通り過ぎる家の庭から公衆トイレのような臭いと、「あの子がいない!」というここ数ヶ月ではお約束のような金切り声が届いたが、私たちはそれを無視して高校へと、肩を並べて歩いていった。

 教室に着いた時、友人たちは相子の姿を見て「あっ」とおおげさに目を見開いた。それからこちらになにか言う前に、目配せのようなことをしあう。
 しかし相子はそれに気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、以前と変わらず明るい声色を向けた。
「おはよーっ、なんか久しぶりだねっ」
 そして、にこっと、気持ちよく笑う。
 その調子に、友人たちはちょっとだけぽかんとして、それからわかりやすくほっと目元をゆるめた。「おはよう」「久しぶり」と、なごやかに会話を膨らませていく。
 私はそんな過程を相子の隣で眺め、話の輪に入っていこうとしたのだが、ふと友達の向こうからこちらに顔を向けている人物に気がついた。
 窓際に陣取っている男子数人。その中にいる城原(しろはら)サツキが、私の方を向いている。あれからすぐに、彼の名前は覚えた。
 城原サツキは、さりげなさを装ってこちらを注意深く見ていた。少しの間だけれど、睨むというほどではない、しかし強い視線を送られる。
 あの日から、彼はこんな風に監視するような目を時折向けてきた。私の方も、友人に内緒でそっと彼の顔色をうかがうのはもう慣れたものだった。彼はじとっと、冷や汗をかく手前のような顔でいる。
 彼はいつも通り人の間にいながら、こちらを意識して神経を尖らせているようです。
 私が周囲にバラさないか、もしくはもうバラしたのではないかと、不安がっているということでしょうかね?
 まあそれもそうだろうな、と鞄の中の携帯を意識しながら、私は目線をずらし、肩を軽く叩いてくる相子に同調していくことにした。「今日の英語小テストあるよね」「嘘、忘れてた」「会澤先生は三年になってから口うるさくなった」「うちたいした学校じゃないのにね」「それよりこの前」、会話の種は途切れることがない。前までと同じ朝のおしゃべりの時間なんて、あっという間だった。

「松本あきらってムカつくよね」
 相子がそう口にしたのはその日の帰り道、突然のことだった。影を落としかける住宅街の中を歩く際、ふと会話が途切れたタイミングで、少しだけ声をこわばらせて彼女は言ったのだ。
 私ではなくつま先を見つめて吐き出した相子に対し、どう反応したものか困ってしまった。その場しのぎとばかりに短く返す。
「そう?」
「っていうか、絵空がムカつかない方がおかしいと思うんだけど」
 そうかな? と首を傾げてみせる私に視線をやって、相子は頬を膨らませた。こちらの様子にどうも納得がいかないらしい。仕方ない、と私は相子が苛立つ原因について考えてみることにした。
 ひとまず今日の部活でのことを振り返る。
 私たちは美術部に一年の頃から所属していて、入学してからここまでずっと、毎週木曜日の放課後は美術室に足を運んでいた。作品展が近い時などは木曜以外でも部室にこもって作業をすることが多いが、今時期は差し迫って絵を描く必要もなく、週に一回皆で集まるスタイルを貫いていた。
 連休明けの今日もまた部活動の日。廊下で合流した一年の時からの仲間と「相子ちゃん、来れるようになってよかった」などと交わしながら、活動場所へ。
 美術部は三年生が三人、部長の相子と隣のクラスの副部長、それから私。二年生は二人、そして今年入部したのは三人だった。だいたい毎年、こうやって十人以下でおとなしめに、仲良く活動している。部員はおおよそ女子で、男子は年によってちらほら見受けられる程度、今年などは完全に女所帯だった。私たちが美術室に着くと、メンバーは全員揃っていて適当に雑談している様子だった。
 相子の姿に後輩たちは「大丈夫ですか」などと声をかけ、相子は笑って返す。「ありがとう、大丈夫だよ」と微笑むと、後輩たちは胸を撫で下ろしたようだった。相子が「さ、おしゃべりもほどほどに」とうながすと、皆で美術室の大きなごつごつした木の机を脇にどけ、準備室から人数分のイーゼルとキャンバスを持ってくる。引っ張り出したキャンバスは四月から「お試し」と言って使っていたもので、それぞれ規則性もテーマもなく無計画に色を載せられていた。
 うちの部活では主に油絵をやっている。それは例年変わらず、七月初頭にある学校祭の展示には皆が油絵を出すことになっていた。水彩やアクリル画、その他のことをしたい場合はそれ以後自由にというのが原則。そんな活動予定は変更なしだが、今年はいつもとやや違う点があった。新入部員が三人ともまるっきりの初心者だったのだ。私や相子も含め、今までの部員はたいてい中学校でも美術部だったため要領をつかんでいたのだが、今回の一年生は右も左もわからない。油絵など、一枚も描いたことがないそうだった。それでまず、道具の使い方から覚えてもらおうということになったのだ。
 基本的な油絵の工程を説明した後、下書きなしのキャンバスに色をつけていく。下塗りから徐々に描き込みへ、色を厚く。油で絵具を溶くこと、技法や工程による油の量、油の種類の使い分け、油なしでの厚塗り。絵具の色合いや重ね方。それらを自分の手で体験してもらう。
 来週からはひとまずキャンバスを脇に置きデッサンを繰り返しつつ、学校祭に向けて描きたいモチーフを探していくことになっている。お試し期間は今日までだった。これまでの経過を確認した相子は、他の二、三年生と同じように「初心に帰るつもりで」色々な技法を試しつつ、時折席を立ちあがって新入生、のみならず二年生の様子を見て回ったりしていた。
 そんな中でのことだった。
「絵空先輩、ナイフで絵具削る方法もあるって言ってましたけど、どうするんですか」
「ああ、それはね――」
 一年生のうちの一人、右隣に座っていた松本あきらさんが私に質問してきた。私は彼女の方に身を傾け、雑に色を塗られたキャンバスに目を向ける。その直前、座っている他の部員皆、そして教室の端に立っていた相子が、さりげなくこちらを見たのに気づいてはいた。
 わかりやすく、ちゃんと聞こえるよう、私ははっきりとした声で説明していく。
「――まあ、色々試しつつ、自由にやるといいよ。筆だけでざかざか描いちゃう先輩とかもいたしね」
「そうですか。ありがとうございます」
 松本さんは軽くおじぎし、やりとりはそこで終わった。以降は各自筆を動かしつつ、なんとなく口も動かしていく雰囲気になる。もともとさして顔を出さない顧問の先生がいない日だったので、絵と関係ない話で騒ぐのもご愛嬌だった。四月に訊きそびれていた、一年生の中学時代の部活が話題にのぼる。松本さんは帰宅部だったらしい。
 とまあ、波風もなく、全体的になごやかな活動だった。相子の苛立ちの原因について、心当たりは特にない。少なくとも今日に関しては。
「絵空、まさか忘れてないよね? あいつに初日に言われたこと」
「……忘れてはいないけど」
 肩をすくめたくなる私に対し、相子はむっとした表情を崩さなかった。まるで自分のことのように怒っているな、と苦笑してしまいたくなる。ああ、相子も根に持っていたのか、と思わずひとりごちた。
 松本あきらに初めて言われた台詞はよく覚えている。
『絵空って、変な名前ですね。親は何考えてたんですか』
 相子もまた四月頭のあの日を鮮明に思い出したように、八つ当たりのごとく地面の石ころを蹴飛ばした。
「あんなこと言った相手に対して、平然とすり寄ってくるなんて信じらんない。あいつ、すごい無神経だと思う」
「まあ、素直な子なんだよ、たぶん」
「人の名前バカにするとか最悪じゃん。絵空は笑って流すし。私がいない間も松本にそうやって優しくしてたの?」
「優しくってほどでもないよ、普通に、訊かれたら教えてあげるだけ」
「……絵空は優しすぎる」
 そんな言葉を、相子は睨みつけるようにして投げつけた。私はどんなことを口にしたらいいのか、どんな態度をとるべきなのか、考えあぐねて口をつぐむ。相子は見かねたように顔を伏せてしまう。前髪で目が隠れて、うつむく彼女がなにを追うのかわからなくなった。私は自分が相子にどうすべきだったか、本当はわかっていたような気がしてきて、足下を見つめる。
 二人でしばらく、無言で道を歩いた。街灯がぽつぽつとオレンジに照らす住宅街、家から出る人は見当たらない。帰宅する人もまた、たまにすれ違うくらいのもの。空を見上げれば、まだ深い黒には染まらず、インディゴの油絵具をそのままぶちまけたような色をしていた。
 別にそんなことないよ、と声に出さずに言うのはだいぶ遅れてからだった。そうしたらいつの間にか、それに気づくはずもない相子が私の制服の袖をきゅっと握っていた。
 今日一日中、教室や美術室ではにこにこと笑顔を振りまいていた相子。いつも通りに、元気に振る舞っていた相子。「優しくしていた」というのなら、まさに「優しい先輩」として美術室で笑っていたのは相子だ。
 その彼女の目が今、泣きだしそうに揺れているのが、前髪のすきまから見えた。
「絵空、どうしよう。どうしよう……」
「相子?」
 一日中我慢して、ようやく、決壊した。いや、本当はずっと、吐き出してしまいたかったのかもしれない。
 きっと相子はそうだったのだろう、とおぼろげに考えた。
「このままお母さん死んじゃったら、どうしようっ……」

 あなたならどうコメントしますか?
 メール作成画面、文章を打っては消し、打っては消しを幾度となく繰り返した。前も見ずに、相子と別れた後の帰り道、ひたすら白い画面に向き合う。そのうちにばからしくなってきて、私はパタンと携帯を閉じた。中空を見つめて、ため息をつく。
 相子の母が交通事故に遭ったのは四月の中頃のことだった。
 その日相子は登校する時、目に涙をため怒っていた。朝からお母さんと喧嘩したのだ、と肩を震わせていた。学校に着くまでには落ち着いたけれど、一日ずっとどこか気乗りしない雰囲気を漂わせていた。そして彼女は昼休みが終わったあたりに校内放送で呼び出され、青ざめた顔をして学校を駆け出した。
 買い物に出掛けた帰り車にはねられた相子のお母さんは、重体だった。一時は生死の境をさまよい、手術室のランプは気が遠くなるほど長く点灯していたという。数日経って多少容体は良くなってきたものの、いつ意識を取り戻すかわからない状態が続いているらしい。依然として予断は許されない。相子のお母さんは今も眠ったままだった。
 相子はこれまでずっと、学校を休んで病院に通い詰めていた。
「絵空には話したよね……前の日にね、モカが散歩に行ったきり帰ってこなかったの」
 私にすがりついた相子は、一言一言しゃくりあげながら、どうにか言葉をつむいでいた。
 モカとは、相子が小学校にあがった頃から飼い始めていた猫だった。スコティッシュフォールドの、全体に白っぽくて垂れた耳のあたりだけ薄茶色の、もふもふした子。私も相子の家に遊びにいく度、触らせてもらっていた。
「私すごい心配で、今日は勉強なんて手につかないからモカ探したいって言った。そしたらお母さん、何バカなこと言ってるの、どうせひょっこり帰ってくるでしょって怒った。それよりも猫屋敷の猫からノミとか変な病気もらってこないか心配だわって、そんなことばっかり言って、私怒っちゃったの」
 ぽろぽろと、止めようもなく涙を流す相子を、私は見つめることしかできない。
 暗い道にすすり泣く音だけが響き、しばらく。
「私、お母さんに、こんな冷たい人お母さんだと思いたくないって……そんなこと言っちゃったんだっ……」
 ――仮に。
 あの日相子が母と喧嘩せず、いつものように「相ちゃん、行ってらっしゃい」と送り出されていたならば、さっきの涙はなかったのだろうか。そもそもモカがいなくなったりしなければ?
 相子は、「このまま」お母さんが死ぬのが嫌なのでしょうか?
 最後に見た顔が笑顔だったなら、相手が死んじゃっても大丈夫なんですかね?
 さすがにそれは違うよな、と天を仰いだ。実の母親が生死を争っているのだ、直前がどんな状況であれ泣きたくもなるだろう。ずっと泣くことすらできずにいたのが、今になってたまらなくなった。そして今になると、後悔すべき記憶ばかりが呼び起こされてしまう。きっとそういうことなのだ。
 ただ、とも思う。
 大事な人と最後に交わした会話が、喧嘩だったり酷いものだったなら、笑って話した場合よりも立ち直れなくなってしまう気がするのです。
 本当のところはどうなのだろう。私にはわかりえないけれど。
 そういえば、と、ふとあることが頭にのぼった。モカが結局帰ってきたのか、訊きそびれてしまっていた。
 帰ってきたらきたで相子は辛い思いをするのだろうか。あれこれと考えてみるも、考えるのが面倒になってくる。そうしてまた、そういえば、と思い直すことにする。通学途中のあの屋敷の主も、最近ずっとあの猫がいないこの猫がいないと騒いでいた。あの家の奥さんも、ふいに相子のような境遇に陥ったりするのだろうか?
 と。
 またいつの間にか目を伏せて考えにふけっていると、耳にきぅん、きぅん、とかすかな音が届いた。顔を上げると塀の上、街灯の光を背に小さな猫が座っている。ふりふりと揺れる尻尾、瞳はまんまるで淡い色。闇に溶け込む黒い毛。
 前に見たあの子? としばらく見つめていると、子猫はにぅ、と首を傾げた。その仕草に、きっとあの子だ、と私は確信して目を見開く。四月末に出会ったのと同じ猫は、前と同じ顔をして、だけど今度はすぐに行ってしまわなかった。ずっと、じぃっと、私を見ている。
「……あなたは、あの屋敷の子なのかな?」
 黒猫は耳をぴくりとだけ動かすが、その場を離れようとしない。一回、まばたきをするだけ。まるで、私になにかを感じたかのようだった。
 猫に向かって微笑んだ時、私は自分が携帯を握りっぱなしだったことに気づく。そうして少し迷ってから、さらに、猫に近づいてみることにした。逃げられるかもしれないと思ったけれど、黒い子猫はまさに、というのもちょっと違うが、借りてきた猫のようにおとなしくちょこんとしていた。
 携帯を上に掲げ、ボタンを押す。カシっと、あたりに音が響いた。
 すぐさま撮れた画像を確認する。夜だからちゃんと写るか心配だったが、街灯の光のおかげで比較的はっきりと写真はできていた。画面の真ん中に写る、ぱっちりと丸い目を開いた猫。
 さすがに音にびっくりして逃げるかと思ったけれど、猫は私が写真を保存するまで、ずっと尻尾を緩慢に振って待っていた。その作業を見届ける役割を負ったかのように、私が携帯を閉じるとお尻を向けてとてとて早足で去っていく。
 私もまた歩きだした。マンションまではあと少し。微笑ましくて、途中で携帯を再度開いて画像を見直してしまった。ちょっぴり固そうな黒い毛に、街灯のせいでわかりづらいけれど薄くて綺麗なブルーの瞳――
 瞳。
 ……唐突に。見開かれた、にごった黄色の両眼が頭をかすめた。
 思わず、黒猫が去っていった方向を振り返っていた。道の先にある、古ぼけた猫屋敷の外観が頭をよぎる。
 あそこの子。「あの子がいない!」……
『動物を虐待、虐殺するような人間っていうのは、一体どういう人なんだろうね』
 この前来たメールの文面が記憶の底からのぼってきた。
 何度も何度も振り向きながら、私はマンションへと帰る。

 四月の魔が差しぶりが再発したかのようだった。
 翌日の金曜日。私は教室で、ずっとさりげなくある人物の様子をうかがっていた。周りの人に気づかれぬよう見つめるというのは大変なようで簡単で、私が会話からそれていても「何見てるのー?」「別に」で済ませることができた。あの人の周囲にいる男子は、そもそもこちらの女子には目もくれていない。
 辛抱強く目で追うことは五時間目後の休み時間まで続いた。
 チャイムが鳴って授業が終わってすぐ。あの人は教室を出ていった。ようやく一人で。
 私はすぐさまその背を追い、不自然じゃない程度早足で廊下を進む。歩く相手の背中に手が届くのは、まもなくだった。
「あの」
 彼は、振り返って私を確認し、目を剥いた。ろくに口も開けずに、ただただ驚愕し、困惑していくのが見てとれた。
 私はそれに構わず、彼を廊下の隅までうながし、一応周りを確認して。
 携帯を開いて彼の目の前に突き出す。いちいち操作しなくてもいいよう、あらかじめ画像ファイルは開いておいた。
 そして、囁くように、けれど聞き違いされぬよう、しっかりと言う。
「この子は殺さないでくれる?」

 思えばこれが、城原サツキに初めて言った台詞だった。


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