幸せになれない星の住人 2−2

幸せになれない星の住人

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2−2


 今は亡きじいさんは田舎の家で犬を飼っていた。働かざるもの食うべからずなんて恥ずかしげもなく豪語するくせ、ろくに虫も獲りやしない、ふるふる震えるその小型犬をそりゃあもう後生大事にしていた。ばあさんが死んで寂しかった心をその犬は上手いこと埋めてくれたのだろう、父さんはそう呟いていた。俺はじいさんが犬を可愛がっているところを見るのが好きだったし、あの小さな犬を抱きかかえた時、無邪気に顔を舐めてくるのは悪い気がしなかった。
 小学三年の夏だった。
 夏休み、父さんが仕事で忙しいからと、俺は一人じいさんのところに預けられることになった。電車に長いこと揺られた後、田舎の青ペンキの屋根が見えてくると、尻尾を振り回して犬が駆け寄ってくる。俺は足下でハッハッと舌を出す子犬に笑みを浮かべてから抱き上げ、腕に力を込めた。犬は、普段は上げないような変な鳴き声を喉の奥からひり出した。当時の腕力なんて知れたものだが、俺は、思いっきり、犬の小さな体を潰そうとしていた。
「おぅ、かわいそうだから放してやれやー」
 と、家から出てきたじいさんが、俺に笑いながら言った。孫は力の加減がわからないだけ、ふざけているだけ、じいさんはそう信じて疑っていないようだった。
 俺は首を傾げてから、そうだよな、かわいそうなんだよな、と思った。


 全身をじっとり汗が伝うのを感じながら家に入り、二階の自分の部屋へ行くと、隣部屋のドアが開いているのが目に入った。電気もつけない部屋、入口の方だけが暗闇に浮かび上がっている。見えたのは闇に溶け込む色のソックスに包まれた脚。姉が、ベッドの上に横たわっていた。制服も着替えず、死んだように眠っている。
 いい御身分だよな、と思った。
 俺は部屋着に着替え、すっかり遅くなった夕食はどうしようか、体が気持ち悪いから先にシャワーを浴びてしまおうか、考えるが、どれも上滑りしていくような白々しい感覚があった。
 人に見られた。
 よりにもよってクラスメートに。
 宵見絵空は猫の死体を前にした俺を見つめ、放心した後、一目散に逃げていった。何も言う暇はなかった。弁明する間もない。第一、あの時の表情。何を言ったって、それこそ白々しく響くのは目に見えていた。
 いつまでも呆然としていたらまた見つかる、そう思い至ってビニール袋に猫を押し込み、運動部でもないのに持ったスポーツバッグに入れ、現場にペットボトルの水をまいてから自転車を漕いだ。学校の反対側、駅から十分程のところにある川まで急ぐ。橋の下で今度こそ誰もいないことを確認し、死体を袋から出し、中腹に落ちるよう思いっきり投げた。いつものように死体処理を終え、全力で夕暮れの道を走り抜いた。自転車を河原に忘れたのに気づいたのは後になってからで、回収する気力は起こらなかった。
 宵見は、警察に通報するだろうか?
 写真を撮られたりはしていない、証拠もないだろうからシラを切れば逃げ通せるか? 警察はちゃんと調べるのだろうか。ちゃんと調べて、他の件と結びつけたりするのだろうか――
 わざわざ通報まではしないか? ただ、明日登校したら友達に言い触らす。「あいつはヤバイ奴」、噂はいつの間にかクラス中に広がる、担任に呼ばれる、クラスメートたちに白い目で見られる――
 今まで隠し通してきたのに、こんなところから崩れるなんて。
 あいつにバレるなんて。冗談じゃない。
 拳を握りしめ立ち尽くす中、姉の部屋から物音がした。むくりと起き上がった姉が俺の姿を認め、「……ごはんまだ?」とぼんやり呟く。本当、いい御身分だよな、と舌打ちし、俺は台所へと向かった。料理するどころではないが、出前なんかとって人を家に呼びたくもない。
 誰にも会いたくない。そんな気分だった。

 翌日、正直学校など休んでしまいたかった。ただ、珍しく家に帰ってきていた父親に仮病を使うのが煩わしくて、結局俺は登校した。教室にはすでにいつもの仲間がいて、近寄るなり新作ゲームの発売日まであと何日だとか、そんな話を振ってきた。
 宵見絵空は少しして現れた。
 緊張感が体を駆け巡り、俺は宵見を注視する。宵見は俺に気づいて、微妙に眉をひそめた。それ以外動きはなく、どうにも感情が読み取りにくい。顔を背けた宵見が、他のクラスメートに声をかける。何を言うのか、気が気でないが、ここからでは聞き取れない。
「サツキー?」
「あ、おお」
 背中をバシンと叩かれて、俺はそちらに向き直った。会話の内容は耳を素通りしていき、相づちを打つ自分が馬鹿みたいで死にたくなる。
 もう一度、今度はこっそり宵見をうかがったが、あいつはもう俺の方を見てはいなかった。

 そうする間にゴールデンウィークが来て、クラスの連中と遊びに行ったりするうちにまた学校が始まった。
 いつものように窓際で馬鹿騒ぎしていると、やたらに聞き覚えのある声がして一瞬身構えた。教室の入り口に視線を向ける。宵見絵空、そしてその親友が久しぶりに顔を見せていた。
 あの日から何もなかった。もしかして宵見は、見逃してくれるのだろうか?
 持ち続けた淡い期待が、頭の奥でグラグラと揺れた。
 宵見は暗い奴ではないが、騒ぐタイプではない。大事なことはごく一部にしか打ち明けないような雰囲気を持っていた。それこそ親友くらいにならないと、重大な話はできないような。
 そう。親友になら、俺のことを話すのか? 長いこと学校を休んでいたあの女はどうも、宵見よりはやかましい感じがした。そういえば前に、飼い猫がどうだの、騒いでいた気がする。あいつに知られたら、今度こそ――
 幾度となく宵見たちの方に目をやったが、今日は特に動きはなかった。
 しかし、また不安を抱え、何もかも上滑りする日々が帰ってくるのか。いつまでこんな状態が続くのか。
 苛立ちにも似た気持ちで一日を終え、また、チラチラ宵見を盗み見る一日が始まる。俺のことをバラすのはいつか? バラさないのか? どうするつもりだ? 宵見もこちらを見ている。俺の様子を観察している。もう、バラすならとっととバラしちまえよ。そう、うんざりしていた。
 その矢先だった。
「あの」
 ふと廊下に立つと、こわばった声で呼び止められた。
 宵見絵空。
 そう思った瞬間、俺の頭は固まった。息を呑む。
 宵見はそんな俺を、無表情に近い顔で見据えていた。いや。口元が変に歪んでいて、わずかに緊張しているのが見て取れた。そんな顔で、俺を廊下の隅に追いやり、携帯を開いて突き出す。
 目に入ったのは、暗闇の中、街灯に浮かび上がる黒い子猫だった。
 それを突きつけ、何かを覚悟したような、恐れるような、やけっぱちになっているような。全部ないまぜになった固い声で、宵見は言うのだ。
「この子は殺さないでくれる?」


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