幸せになれない星の住人 4−2

幸せになれない星の住人

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4−2


 赤ん坊の糞は飯が炊けた時のようなにおいがするらしい。母親の乳、ミルクだけを飲んでいるうちはそうそう悪臭はしない。離乳食に移行し、親と同じものを食べるようになると親と同じ臭いになる。
 摂取したものによってにおいが決まる。逆に言えば、摂取しないものからの影響など受けようもない。
 だけどそれは本当なのか?
 与えられたもの、取り込んだもの、周囲の環境。それが、結果を生み出す全てなのか? なかったものは生まれないのか?
 もしそれが本当だったら。
 あるいは、もしそれが本当じゃなかったら。

 どうしたらいいのか、ずっと考えている。


 日曜日の朝、宵見絵空からメールが来た。簡単な内容だったが、それだけにあいつが何度も送るのを躊躇して結局日曜日になっただとか、勝手な想像が湧いてきて妙な気分になった。
『いつから猫を殺しているの?』
 文末に勝手に『正直に答えないと、バラす』とつけ加えてみた。それは宵見の固く声を絞り出す様子にはどうもそぐわず、俺は一人くつくつと笑うはめになった。
 ベッドから体を起こし、駅前のスーパーへ買い物に行く仕度をする。卵、牛乳、野菜を適当に仕入れるかと冷蔵庫の中身を思い出していく、そのついでのように考えてみる。
 いつからとは、どの「いつ」なのか。
 この町で猫を殺すようになったのはいつからなのか。猫屋敷の主人が騒ぎだした時期と合致するか確かめたいのか?
 それとも。
 それ以前の話、この町に越してくる前からのことを聞きたいのか。俺が「いつから」こうなったのか、それを問うているのか?
 玄関に立ち、『去年の秋から』と携帯のボタンを打った。どちらの意味にとるかは宵見に任せることにする。
 家を出てすぐ、大通りに向かう。真新しい看板の飲み屋、くすんだ色の壁の刃物店、乱立する商店を見るともなし見ていくうち現れる駅。ここらへんの場合、平日の方が学生だのサラリーマンだの、主婦だので道はごった返している。休日もそれなりに人通りはあるが、幾分歩きやすいような感じがした。もっとも、大通りを少しそれた住宅街の道は、平日も休日も変わらずちらほらと人が見受けられる程度だ。おかげでこっちも、見咎められることなく後ろめたいことができる。
 自分が「いつから」こうなのかなんて、どのみち詳細に述べることはできやしない。
 それに気づいた時期なら漠然とわかる。ただ、「いつから」そうだったのか、それは気づいたより以前である可能性もあるし、最悪生まれつきなのかもしれない。
 と、ポケットに突っ込んだ携帯が鈍く振動した。
『なんで猫なの? なにかきっかけがあったの?』
 まるでこの前と同じ調子だな、と思いながら歩く。歩きながら、適当に返事を打つ。『前も言っただろ。可愛いと思って見てるうちに、傷つけたくなってた』。そんなタイミングでふと道路を見ると車道を灰色の猫が横切った。車が通り過ぎる間を見計らい、早足で駆けていく猫。この町は本当に猫が多い。それもあの屋敷のせいか、と鼻先に臭いがよみがえるようだった。
 スーパーに辿り着く。入口で買い物カゴをつかみ、まずは野菜売り場へ。値段など特に見ず、キャベツをカゴに突っ込んでいく。形の良い三個入りと乱雑に押し込まれた十個入りの玉ねぎを見比べることすらなく、十個入りの方を手に取る。携帯が鳴る。
『なにか原因があると思う? その、育った環境とか』
 三本入りのにんじんを突っ込む。きのこの並ぶ野菜売り場の端っこ、なめこも買っておく。魚コーナーは素通りして、牛肉、豚肉、鶏肉、と並ぶ肉コーナーの前で足を止めた。豚ロースと、てらてらと薄桃色に光る鶏のささみをカゴに入れる。後は、卵に牛乳、それくらいでいいだろう。味噌はまだいいか。
 どこのレジにも二、三人が並んでいて、俺は左端の列にのんびりと足を運んだ。待つついでにと、ため息をつきながら携帯のボタンを操作する。
『知らん』
 前の客がカゴ二つ分いっぱいに食品を押し込んでいたので、会計するまでだいぶ時間がかかった。手持ち無沙汰で、レジ前のガムを眺めてみたりする。
 ようやく精算が済んで店を出たところで、『そう。ありがとう』と簡潔な宵見の返信が来た。足を止めて振り返り、自分の家とは反対側にある、はっきりしないオレンジ色のマンションを見上げた。ゆるい風が頬に吹く。
 まったく、宵見は何故こんなことをいちいち訊いてくるのか。普通の人間のくせに。
 日曜日の午前中、ベッドの上で、いや、机の上で律儀に携帯に向き合う姿を想像する。あいつは何を考えているのだろう。それについて考えてみても、上手い答えは出てきそうになかった。
 帰って昼飯を作っていると、姉がようやく起きてきた。姉はいつも、休日は昼までのんきに寝ている。

 休日明けの放課後、いつものように掃除の終わった教室で騒いでいた。うちのクラスでは放課後の教室はやる気のない帰宅部、しかしそのまま帰るのはもったいないという連中の溜まり場になっていた。二年のクラス、メンバーが違う中でもそんなものだったから、おそらくどこのクラスも似たような調子なんだろうと思う。
「あー、もう六月だねー」
「うわ、やっべ。来週模試じゃん」
「それよかもうすぐ学祭じゃね?」
 馬鹿高校ではない、しかし進学校とは言い張れないこの高校は年中ゆるい空気が取り巻いていた。勉強勉強と教師が声高に言うことはないが、生徒が授業を妨害しまくって学級崩壊などということもない。どれだけ不良ぶっても髪を染めるのがせいぜい、校内で暴れまわるような奴はいなくて安全なものだ。学校祭も、「唯一のお祭りイベント」とばかりに騒ぐ上位校のように白熱することなく、適当にクラスや部活で店を出してお行儀よく終わる。楽なものだった。
 放課後の教室、何に熱中するわけでもなく、男女問わずゆるい連中で雑談するのは居心地がよかった。
「会澤先生うぜーよなー。三年入ってやたら課題出して」
「でも忘れてもそんな怒んないからいいじゃん」
「あのババァ進路相談で」
「それお前、逆ギレだろー」
 明日には忘れてまた同じような切り出し方をするような、実のない話の連なり。教師へのちょっとした悪口が終わればそれと同じ温度で何組の誰と誰が付き合っているだの、噂話に移っていく。
 適度に相づちを打ち、話題を振って、輪にまざる。
 その最中に携帯が鳴ることもまた、もはや慣れたものだった。
「何、サツキ、彼女?」
「ちげーよ」
 皆が喋り続ける中で携帯を開き、予想しきったメールの送り主の名にもはや感慨もない。とはいえ、この文面を見せられると胃の奥がうずくような感覚がするのもまた事実だった。
『今日これから、おねがい』
 素早く、『今から見繕う。家で待ってろ』と返信する。
「夏前に彼女欲しいよなー」
「違うガッコの子とか、学祭で彼氏作るって張り切ってるけど、うちのとこってそういう感じじゃないよね」
「だよな、あー、彼女欲しー」
「俺、ちょっと用事できたから帰るわ」
 会話の途中で携帯をたたみながら立ち上がった。隣の奴が「やっぱ彼女?」とつついてきて、それに「ちげーよばーか」と笑いながら返す。
「あ、俺も今日歯医者だったの忘れてた」
「んじゃもう、今日は皆帰るか」
 一人で抜ける予定だったのが、結局皆で帰ることになる。適当に各々座った椅子から、バラバラと、男も女も立ち上がっていく。そうして廊下でもどうでもいい話を続けて、玄関へ。
 JR方面へ行くのは俺一人だった。高校近くには地下鉄が通っていてバスもあるので、たいていの奴はそっちを利用する。
「じゃ、サツキ、また明日ー」
「おー」
 手を振ってから、お喋りを続行する連中の背をしばらく眺める。駅方面へ行くのが俺一人だけでよかったと、つくづく思った。
 万が一連中に見られてしまったらと心配する必要がないのは楽だ。せめてもの救いと言ってもいいかもしれない。
 勉強道具、たまにジャージを入れているスポーツバッグ、その中に常備しているビニール袋に意識を向ける。そうして俺は歩き出し、しばらくすると目の前には住宅街が広がっていた。自転車で行けばもっと時間はかからない。しかし、あの日河原に置き忘れた自転車は、次の日にはもうなくなってしまっていたのだ。

 ひたすら包丁を振り降ろす。野菜や肉を切ることになど、もはや使う気にもなれない、刃こぼれしきって付け根が血で錆びた包丁。これは猫殺し専用の包丁なのだ。一回、二回、何度でも。包丁を振り降ろす。包丁は肉にめりこんでは、鈍い音を上げる。
 猫はもう死んでいるだろう。失血死? ショック死? 茶色のトラ猫、ブラッシングもされていないごわごわした毛は、もはや血で汚れきって見る影もない。そこにまた、包丁が刺さる。一回、二回、何度でも。
 町をうろつく、多くは猫屋敷で生産された猫たち。丁度道から人が消えたタイミングで現れた、たっぷり餌付けされまるまるとした茶トラ。警戒心なく俺に近づき、「餌でもくれるのか」と期待するように猫撫で声を出したそいつの首にクリップをはめ、ビニール袋に入れ鞄に突っ込んだ。
 餌付けされ、人慣れしてしまったのがこいつらの不幸だ。
 喉を潰した猫を、ひたすら刺す。痛みでもがき苦しむ様を観察するために耳や尻尾を切り落とすのではなく、ただ刺す。包丁で潰された顔面からは恨めしげな瞳すらも見えない。いたぶるのを楽しむのではない、ただ刺しているのだ。
 包丁を握りしめるその顔は、無表情だった。ただ何の色もうかがえない目を見開いている。こうしている間だけは感情から解放される。おそらくそうなのだろうと、返り血で頬が染まるのを眺めながら勝手に思っている。
 姉のつつじは、ストレスが溜まると猫を殺す。
 伸びた髪を振り乱して、腕を振り上げて、もはや猫でなく肉の塊になったそれに包丁を振り降ろす。玄関の中で蹴り飛ばしたこともあった。ドアに叩きつけられた猫が声を上げようと大口を開いて、しかし喉を掻き切られているので何も叫べやしない、その時の表情、いつかのその光景は目に焼きついている。
 俺は姉からのメールが来ると野良猫を探し、拉致して持って帰る。ビニール袋から出した猫を姉はひったくり、ひたすらにいたぶる、いや、破壊する。姉の気が済んだところで、その頃にはとっくに死んでいる猫を俺はビニール袋に入れて鞄に隠し、川まで持っていって処分する。姉は見つからないよう猫を調達することにも処理することにも無頓着だった。放っておくと目にとまった飼い猫を路上で手にかけたりする。だから俺がやる。
 三年前から、俺は姉の奴隷だった。
 飯を作って世話を焼く。その作業に去年の秋から猫を用意することが加わった。そうして姉に虐殺されていく猫の姿を最後まで見届け、この網膜に焼きつけている。


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