幸せになれない星の住人 6−2

幸せになれない星の住人

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6−2


 一日目に酷いことがあって落ち込んだから、二日目は学校祭なんて抜け出してパーッと遊ぶのに付き合ってくれ。いつもつるんでいる連中の一人がそう提案し、それに皆も乗ったから、二日目の学校祭は午前中でおさらばする予定になっていた。
 名残惜しいものなどはないが、一応今年で祭も最後。午前中、適当な理由をつけて一人になり、俺は二階の廊下を歩いていた。その端に見えてくる美術室。中に入ると、以前に嗅いだのと同じような臭いが鼻をくすぐった。
 俺は黒板近くに置かれた絵の方へ真っ先に進み、真ん前で立ち止まる。
『空の猫』
 捻りのないタイトルだな、と肩をすくめつつも、その絵に思わず見入る自分に気づく。
 去年のあの絵も空だった。同じ空だ、と頭の中でぴたりとはまる。もちろん、同じ絵ではない。描いている時間帯が夕方と、おそらくは朝という点でまず違う。画面に収まっているものも違う。去年は猫なんかいなかった。
 それでも、同じ人間の見た空なのだろうな、と強く感じられた。これが、あいつの見る世界なのだろうか。そう思うと、自然と微笑みたくなる自分がいる。おかしな気分だった。
 少し離れてみる。すると、隣の絵に目がいった。大きな金魚が夢の中を泳ぐような、そんな感じの絵で――金魚。赤みを帯びた金に輝くその魚。
 金魚。
 色とりどりの水玉の背景を泳ぐその姿に釘付けになるうち、意識が、過去へと誘われていた。

 小学四年生の時、クラスで金魚を飼っていた。最初は数匹いたものの、一番大きな奴が他の魚をいじめたりするうち、そのまるまる太った一匹だけが残されていた。
 最後の子だからと、クラスの連中はそいつをえらく可愛がった。飼育係じゃない奴らもしきりに餌を与えたがり、担任にやりすぎるとかえってかわいそうだと怒られたものだった。俺もまた、ふてぶてしい顔で水槽を泳ぐそいつを見るのが楽しかった。
 その金魚を俺は殺した。
 忘れ物をしたからと暗くなった学校に忍び込んで、電気をつけた教室。真っ先に目に入ったのはその日洗ったばかりの水槽。ふよふよと、たった一匹の金魚が泳ぐ。普段はできない一人占めをするかのように、しばらく眺めた。ぷくぷく肉がつき、愛嬌のある金魚。見ていて飽きない。いつまでも眺めていたい。
 そう思うのと同時に、手は水槽の中に突っ込まれていた。
 冷たくぶにゃりとした感覚。金魚をつかんだ。そのまま床に落とした。
 金魚を踏んだ。肉付きのいいぷりぷりとした赤い体を、全体重をかけ踏み潰した。
 鈍い感触の後に足を上げると、そこにはただ床にこびりついた金魚の残骸があった。我に返って、片付けもせずに教室を飛び出した。忘れ物などもはや頭にはなかった。
 次の日に教師が沈痛な面持ちで「金魚はいなくなった」とだけ告げた。クラスの連中は一様に驚いて、涙を流す者もいた。
 その光景を目の当たりにし、俺は心に罪悪感を抱いた。その一方で、昨日金魚を足蹴にした、ささやかな感触を思い出して、脳がびりびりするのを楽しんでいた。
 それを自覚して、俺は初めて自分のことを気持ち悪いと思った。

 あの金魚とは違う。画面の中の魚は綺麗な形をしているが、クラスで飼っていたあいつは腹がぽっこりと盛り上がり、どこか不細工な格好をしていた。
 あれが、欲求の赴くまま行為に及び、果たしてしまった唯一の経験。
 呼吸が荒くなりかけていた。瞬きを忘れていた目が、乾いて悲鳴を上げる。胸に手を当て、俺は自らを落ち着けようとする。落ち着け、言い聞かせる。幸い、周りに人はいない。こんな展示を観にくる俺は、酔狂ということか。
「――城原くん?」
 しかし。
 酔狂が、もう一人いたようだ。
 入口から、迷うことなく俺の隣にやってくるのは、宵見。おそらくこちらが妙な表情をしていることに気づいたのだろう、驚いたように目を瞬かせ、低い位置から俺を見上げた。
「……美術部なら、どうせここの絵なんて何度も観たんだろ。そこまで暇なのかよ」
 どうにか思いついたのがこんな憎まれ口とは、我ながら情けなくなる。宵見は特に反論することもなく、ただ「そうかもね」と呟いた。こちらは拍子抜けしてしまい、しかしおかげでだいぶ気分が落ち着いてきた。
「城原くんこそ、美術部の展示観にくるなんて意外。絵とか興味なさそうなのに」
「別に、絵に興味はねーけどさ」
「ふうん。じゃあ、休憩にでも来たの?」
「そんなところ」
 ましになったとはいえ、頭が上手く働かないので、返答はおざなりだった。それがむしろ自然に映ったのか、宵見は不審そうな様子は見せない。指を差し、囁くような調子で口を開いた。
「この絵、私が描いたんだ」
「見りゃわかるよ」
「そっか」
 宵見の細い指、その先に視線を移す。さっきまで観ていた『空の猫』。
「この猫、あの子なの」
「だと思った」
「――約束、守ってくれてるんだね」
 その声の端が、固さを帯びた。
 俺たちの会話はいつもこうだ。普通の同級生のように振る舞っていても、いつかは宵見に緊張がまじっているのに気づかされる。
「ああ。わざわざあんな小さい奴、標的にすることもないだろ」
「そう。よかった」
 そしてつくづく、わからない奴、と俺は思う。
 考えてみればあんな約束、それこそ宵見が警察なりに届けていればするまでもなかったのだ。たいした御咎めは期待できず、どうせ俺が繰り返すだろうからと、こちらに向かってくることを選んだのか。だとしたらずいぶん危ない奴だと思われたものだが、しかし、それはどうもそぐわないような気がしていた。宵見は俺のことを訊きたがる。何か、どこかに理由があるような。そんな感じだ。
 ただ。
 何かしら思惑のありそうな、変な奴。しかし怯えてもみせる宵見は、普通だ。
「それじゃ、私はそろそろ行くね。城原くんはゆっくりしていってよ」
「ん、ああ」
 いつの間にか宵見の方を眺めていた。それに頓着した様子もなく、宵見は軽やかに別れを述べる。少し遅れて俺は反応した。
 そうして背を向け、美術室から出ていく。
 その前に、思い出したように振り向いて、宵見は微笑んだ。
「絵、観てくれてありがとう」

 ――その微笑みに。釘付けになっていたことに気づくのにすら、時間がかかった。
 足が固まっていた。短い髪が揺れながら去っていくのを、意識もせずにいつまでも見送っていた。
 宵見の絵に、無意識に視線を向けていた。空の絵。あの絵と同じ空。鼓動が高鳴る。再度、呼吸が不規則になる。
 あの絵は宵見が描いた。
 あれと同じ空を、俺も見たことがあった。宵見と同じものを、いつかの俺は確かに見ていた。
 宵見のことが脳裏に浮かぶ。固くこわばった声。猫を可愛がる姿。多少おかしなところを見せるが、それを知ってなお一般的な感性の持ち主だと思える。
 穏やかに微笑む、普通の同級生。
 ――普通の人間の宵見が、俺と同じものを見ていた。
 いつか、「犬って見てると蹴っ飛ばしたくなるよな」と友達に言って、「お前はおかしい」と言われた俺が。じいさんの犬を絞めようとした俺が。姉が猫を殺すのを傍観する俺が。暴力に惹かれる俺が。金魚を殺した俺が。
 そんな俺でも。
 俺でも、普通になれるんじゃないだろうか。


 あの絵はそう思う力をくれた。
 絵空が、そう思わせ続けてくれたんだ。


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