幸せになれない星の住人 8−1

幸せになれない星の住人

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8−1


 うだるような夏のある日、おざなりに開催された講習は午前中で終わり、生徒たちがまばらに校舎を後にしていった。私と相子も、その中の一員。
「うー、あっつぅい……この暑いのに、会澤先生気合入りすぎ」
 教室にはクーラーなんてついておらず、窓を開けても風も入らない。プリントまでも汗ばむような有様だったがしかし、外の暑さはまた格別だった。一歩踏み出した瞬間、全身を眩しい太陽光が照りつける。
「発音とかいいけどさ。私、英語の先生ならやっぱり中三の時の林田先生くらいがちょうどいいなあ」
「そう……? 私は会澤先生の方がずっと好きだよ」
 絵空は真面目すぎー、と相子がへにゃへにゃ笑う。それに私も微笑むふりなどしてみせる。
 八月の上旬。気温はどんどん上がっていくけれど、この高校で生徒の勉強熱が上がるはずもなく。夏期講習は今日で早くも最終日、三年生でもしきりにこれからの遊びの計画を立てるような声がちらほらと聞こえてきていた。それを耳に流し、私たちは駅の方面へ。あまりの暑さに負けて、途中のコンビニで二人してアイスを買った。溶けないうちにむさぼるのもあっという間、沈黙もまたあっという間。
「私、E大、大丈夫かなあ……」
 ため息まじりに相子がそう言った。
 うだるように暑い商店街、店の影に隠れ続けるようなルートを行きながら、ぽつんと漏れた弱音。
「数学の範囲でわかんないとこまだあるし……期末テストも散々だったしなあ」
「まだ夏休みも終わってないでしょ? これからずっと頑張れば大丈夫だって」
「そうかなあ……」
 相子は自信なさげに「大丈夫かなあ」「大丈夫かなあ」としきりにつぶやく。だけど、こんな弱々しい言葉だって少し前には繰り返されることもなかったのだ。
 相子のお母さんの容体は、幾分良くなってきているらしい。呼びかけにかすかな反応を示すのも見られるようになってきたという。きっと目を覚ますのはあと少し。そんな風に期待されていた。
 大学のことで思い悩む余裕が相子にも生まれてきている。一人じゃ勉強がはかどらないからと、涼しい図書館で一緒に勉強してくれなんて私に頼む。弱音と余裕。本人はそれに気づいているのか、いないのか。
「それじゃ、私病院行くから」
「うん。じゃあ、今度図書館で」
「またねー」
 相子はまだ商店街の道を行き、私は住宅街への道に入っていく。
 一方の私はこれから制服を着替えて、電車に乗ってお茶しに行く。こちらはこちらで余裕なものだな、と自虐的な思考が湧かなくもなかった。

「何、これから遊びに行くの? 余裕ねー」
 とはいえ。
 おちゃらけた調子の母にそう指摘されると、腑に落ちないものがあった。
「……夏期講習終わったからね。ほんの息抜きだよ」
「あっそう」
 マンションにたどり着き小さな自室でそれなりに気合を入れた服など着てみて、再び外に出ようとした。その姿がたまたま母の目にとまったらしい。どうでもよさそうに、母は食卓テーブルの上から間延びした声を届かせた。
「ま、E大ならそんなにせかせかすることないものね。高校最後の夏なんだから遊んじゃった方が有意義だわ」
 扇風機では足りないのか、母は手をぱたぱたさせて風を送っていた。こめかみから伝う汗が、しわ深い目尻をつうっと通過する。
 ……母は知るよしもないのだろう。私の部屋にN大の赤本があるということを。父と母が寝静まった後も、明かりをつけて机に向かっているということを。
 期待しているわけじゃありません。だけど私、N大をあきらめる気にはまだなれないんです。
 だけど母は、なにも知らないくせにわかったようなことばかり言う。母の中で確固たる地位を築いているのは、若い頃の経験、自分の目で見てきたもの。それだけなのだ。
「あんたすーぐアガるんだから、多少レベル落とすくらいの方が丁度いいでしょ。高校もそれで大正解だったじゃない。相子ちゃんと同じところに行けたんだし」
 ――だからこんなことを平気で言える。
 ぴきりと、頭の奥底に亀裂が入る音を感じた。しかし私はあえて涼しい顔をつくり、これ以上の崩壊を阻止しようとする。時計を見る。少しだけ時間が押していた。つつじちゃんを待たせるのはかわいそうだ。
 そんな私の様子にも、母は気づいてくれやしない。とどめの一発を、ふざけたくせに光のない目で、思いきり撃ち込んでくる。
「どうせ私の娘なんだからさ。期待したってみじめなだけなのよ」
 ――母は気づいていない。
 私が今まで、どれだけの思いを押し殺してきたか。母の言葉の中に、どれだけ私にとっての地雷があるのか。三年前の冬、祖父の家の物影で、私が何度「死ね」と呪詛を吐いたか。
「……それじゃ、行ってきます」
 なにも知らない母に、律儀に挨拶をする。
 そうでもしないと、自分の中のなにかが簡単に壊れてしまいそうだったのだ。

 城原くんは、「姉っつっても、俺とは血が繋がってないから安心しろよ」なんて皮肉げに口端を上げたけれど、実際、つつじちゃんは彼とは全然似ていなかった。見ているとより強くそう感じられた。
「……どうしたの? 絵空ちゃん」
 例えばこんな時、城原くんなら「何だよ」とちょっと乱暴に言葉を吐くのだ。けれどつつじちゃんは、おどおどと、こちらの様子をうかがうようにする。そうしてから慎重に、か細い声で言葉をつづるのだ。
 城原くんは、つつじちゃんは猫殺しのことなど露ほども知らないと漏らしていた。人見知りが激しくてトロいので友達ができにくい、それで最近落ち込んでいるので慰めてやってほしい。そんな感じのことをばつが悪そうに言っていた。
「ううん、なんでもないよ」
 そんな子の相手ならまあ。
 悪くはないと、思ったのだ。勉強があるとはいえ、一日中根詰められるわけではない。去年のように遊べないことが物足りなくもあり、はかなげで幼馴染みと声がそっくりな彼女と、相子とするように女の子らしいお出かけができるのは丁度いい息抜きになった。
 つつじちゃんとの会話はスローペースで、誰かさんとのようにきつい調子で質問攻めにあうこともない、まどろみのような心地良さがあった。そんな雰囲気に気がゆるむのか、思わず素直なことを口にしていることも多い。加えて、目を閉じてみたりすると、突然消極的になった相子の姿が想像できたりして、愉快でもあった。
 彼女といるのは楽しい。
 だけど、ふとした瞬間に不穏な台詞がつるりと出てくることもあった。
「それで、この前言った高校のともだちふたりは、わたしも一緒にいるときでも、へいきでふたりだけで遊びにいく約束とかしてたの」
「へえ……やな感じだね」
「うん。でももうあんな子たちいらない。わたしにとってはもう、死んだ人みたいな感じ」
 人見知りが激しくて友達ができない……それは、生来の気質だけが原因なのではなく、この子は過去になにか嫌なことでもあったのではないか? そう思わされる時がしばしばあった。
「絵空ちゃんは……大学受験?」
「ん、ああ、そう。そっか、つつじちゃんはそのまま附属の女子大か」
「そうなの」
 私の顔を見る時は、こうやって嬉しそうに目元をゆるめる。けれどたまに、ひどく極端なことを言う。
 メールでこんな子がいるのだと話してみたところ、『その子の親は再婚したんだよね。もしかしたら両親の離婚、あるいは肉親との死別なんかが影響を与えているのかもしれないよ。詳しくは述べ得ないけれども』と返ってきた。なるほど、離婚の問題かとうなった。
 どこまで踏み込むべきなのだろう。城原くんは私に、どこまでやらせるつもりなのか。
 やや顔の筋肉を固まらせてしまっているのに気づき、慌ててテーブルに置かれたアイスカフェオレに口をつけた。幸いつつじちゃんには勘付かれなかったらしい――と安心したところで、ポケットに入れていた携帯が振動した。「ちょっと失礼」と断って、コップを置き確認する。メールが来ていた。
「あ、城原くんからメールだ」
「サツキ?」
 首を傾げるつつじちゃんを目の前に、私は開いたメールに思わず笑みをこぼしていた。
「どうしたの?」
「ね、見て見て」
 無題の件名、本文には素っ気なく『御詫び、こいつもだいぶデカくなったな ※手は出してないから安心しろ』と書かれたメールには、添付ファイルがついていた。開いてみると、現れたのはあの黒猫。金色の瞳は相変わらず愛嬌のあるまんまるで、しかし少しだけ顔つきが大人っぽくなったような気がする。ちゃんと陽のあるうちに撮影したのもあるのだろうが、私が撮るよりよっぽど綺麗な写真だった。猫が真正面に写っているのがとてもいい。
 私はひとりで、にこにこしていた。
「城原くんも、気のつかい方が変だね。だけどこれすごくいい感じ。せっかくだから待ち受けにしようかな」
「……その猫、なに?」
「え? えーと、一応野良猫なんだけど……可愛いでしょ」
「わたし、猫がかわいいっていうの、よくわからない」
 すっかり浮かれていて彼女の豹変に目がいくのが遅くなっていた。
 きょとんと、首を曲げるつつじちゃんは眉間にしわを寄せ、その瞳は氷のように冷たい色をしていた。わかりやすく目を苛立ちに歪めるよりも、その顔はよっぽど不機嫌に見えた。
「つつじちゃん?」
「猫って、モノでしょう。それが媚びるみたいにこっちを見るのなんか鳥肌が立つし、かわいくもなんともない。こんなものかわいいって言って、大事にするのなんてわけがわからない。ほら、わたしたちの町に、猫屋敷があるでしょう? あそこの女なんてまったく理解できない。猫のために他人にめいわくかけて。なんでそんなことができるの? あそこの猫なんて汚らしくて吐き気がする。あの嫌な臭いをかいだだけで虫唾が走る。あんなものにエサなんかやって、人の庭を荒らして。ねえ、ああいう人って、人間より猫が大事なの?」
 声はぼんやりとして、あどけなかった。まるで子供のように、見たままを素直に述べるように、つつじちゃんはひどい毒を吐いている。いったい彼女は、どうしてしまったのか?
 猫って、モノでしょう。
 そう、なんの迷いもなく言ってしまう彼女は、いったい。
「ねえ。絵空ちゃんは、人より猫が大事なの?」

 問いかけに私は、さりげなく話の向きを変えるようなことしかできなかった。後輩の皮肉ではあったが、はぐらかすのが得意でよかった。不本意ながらそう思う。
 人見知りの女の子。
 おどおどした女の子。
 ゆっくりと言葉を選ぶ女の子。
 だけど、時折不穏当なことを言い、猫はモノだと断言する女の子。
 正直なところ私はその時、城原くんよりも彼女の方がずっと怖いと、冷や汗をかいていた。


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