もののけ最前線!

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壱。


 春眠、暁を覚えず――といったところか。始業式の翌日、つまりは授業開始一日目のことである。「冬などとうに終わったのだよ」、と主張せんばかりのほんわり陽気に誘われて、私はうらうら舟を漕いでいた。より正しい表現を心掛けるならば、机の上にて、もう沈没していた。
「遠森(とおもり)さん、ホームルーム終わっちゃったよ。授業、もうすぐ始まっちゃう」
 隣の席に座るクラスメート――確か、仁科さんといったか――が、控え目にちょんっと、私の肩を叩いた。私は思わず、痙攣するみたいにばびっと跳ね起きた。
「んぁっ……ああ、ありがとうっ。思いっきり寝てた……」
 よだれこそ垂らしていないが、おそらくは相当に間抜けな顔で仁科さんに礼を言う。仁科さんはクスリと、鈴蘭のような笑みを浮かべた。
 その微笑みに答えるようにニヘヘと目を細めつつ、鞄の中から教科書を取り出そうと――
「あ」
 したところ、私は重大な失態に気付いた。
「どうしたの?」
「今日、金曜日……だよね?」
「うん?」
 ほんのり首を傾げる仁科さん。
 そんな彼女に、苦笑い。
「間違って、木曜日の時間割で持ってきちゃった……一時間目の現国の教科書、ないや……」
 あーあ、初日からやってしまった。一応、昨日の晩に確認……しようとして、結局したんだっけか?
 仁科さんは「あらあら」と少しだけ目を丸め、しかしすぐさま、机を私の方に近づけてきた。
「遠森さんたら、抜けてるなあ。しょうがない、教科書見せてあげる。制服はこんなだけど、教科書はちゃんと買ってあるから」
 そう言って、真新しい現国の教科書を机と机の間に挟む仁科さん――彼女が着ているのはこの学校のセーラー服ではなく、いかにもお嬢様然としたブレザーとチェックのスカートだった。彼女は二年生になる今年からこの高校に転入してきたとのことで、手違いか何かで制服が間に合わなかったらしい。
 皆とは違う制服。そして、艶やかな長い髪は黒、吸い込まれそうな瞳も黒色ではあるが、鼻筋が通っていてどこか日本人離れした顔立ちの仁科さん――隣の席になって眼福とばかりに拝んでいたものの、お近付きになるにはどうしたものかと、考えあぐねていたところだったのだ。
「あ、ありがとう!」
 慌てて頭を下げれば、ふんわり口元を緩めてくれる――ああ、時間割を間違えて正解だったのかも……
『何が正解だ、このどたわけ』
 ……うげえ。
「あー、あれ、遠森んちの猫じゃね?」
 クラスメートの一人――去年も同じクラスだった男子が、窓の外、校舎に向けて枝を伸ばす木を指差した。見たくもなかったが、一応、確認――ちくしょう、番太郎に間違いない。
「あ、ほんとだ。番太郎ちゃんだ〜」
 続けて、同じく二年連続の級友と相成った女生徒が、どこか嬉しそうに声を上げる。つられて、他のクラスメート達も窓の方を注視する――ああ、あんまり見ないでほしいなあ!
 祈り虚しく、学友たちは視線を外すどころか、窓を開け放って番太郎を迎え入れてくださった。番太郎はのっさのっさと机の間を縫うように闊歩し、私の席の隣までやって来た。そして、わざとらしく「んな〜お」と一鳴き。
『母上殿から忘れ物を預かって来た。この阿呆め、感謝するがよい』
 番太郎はそのでっぷりとした首に、唐草模様の――早い話、泥棒風呂敷を括りつけていた。その中にはおそらく、本日必要な教科書が詰まっているのだろう。くそう、お母さんめ、私が間違えていくことを見越して、部屋に入って時間割表を確認したのか……それなら、朝のうちに直接私に言えばいいものをっ……
『くそう、とは何事だ。お前がずぼらだから、母上殿に心配を掛けるのだろうが』
 はいはい、わかってますよ……
 私は観念して、デブ猫の首から包みを取り外してやる。
「なんだよ遠森、お前、また猫に忘れ物届けてもらったのかよ!」
「本当、その猫ちゃん、賢いよねえ」
「飼い主より頭良いんじゃね?」
『ふん、全くもってその通りだな』
 うるさいな!
 頬を火照らせつつ、私は「ほら行った」と番太郎の頭を撫でつけてやった。奴は小憎たらしい顔で私を見上げた後、割と素直に窓辺まで歩いて行った。
 その姿を見送ってから机の上の風呂敷に向き直り――
「っくしゅん」
 ……そこで私はようやく、この光景に目をキョトキョトと瞬かせつつ、可愛らしくくしゃみをする仁科さんの姿に気付いた。
「あれ……遠森さんちの猫なの?」
 ……顔から火が出るというか、なんだかもう、顔の中で一つの恒星が誕生したような気分だった。
「ああ、仁科さん今年から来たんだもんね。知らないかあ」
「遠森んちの猫、しょっちゅう、こいつの忘れ物届けに学校まで来てんだよ」
 解説するのをやめたまえ、同級生諸君よ! さもなくば、私の顔面が超新星爆発を起こしてしまうだろう!
 ……と、そんな心の叫びが届くことはなく。
「へえ、そうなんだ……すごいね、遠森さんちの猫ちゃん」
 柔らかな声で感嘆を漏らす仁科さん。しかし私には、そのかんばせを直視することなどできない――こんちくしょう、あのブタ猫めえぇええええええええ!
『恩人に対してその態度はないだろう。悔しかったら、己の迂闊さを省みてみるがよい』
 うるせえ、とっとと帰れ!

♯ ♯ ♯ ♯ ♯ ♯

「はーあぁ……」
 学校帰りの通学路、私は人知れず溜め息などを吐いていた。
 思い出すは、当然あのデブ猫のこと。あのやろう、こちらが大っぴらに反論できないのをいいことに、好き勝手言うだけ言って……
「……本当、化け猫ってか、エスパーだよなあ……」
 番太郎は人語を解し、操る。しかしその操り方というのが、単純に舌の根に載せるというものではないのだ。
 奴は近くにいる人間に、好きな時に好きなように自分の思考を流し込むことができる。サトラレ……ではなく、サトラセとでもいったものか。その場にいる全員に伝達することも、特定の人物に狙いを定めて交信することも可能らしい。ただし、的を絞って伝心するには多少の神経が必要とのこと。先の教室では、奴はご苦労なことに私限定で心の声を響かせていた。そのため、クラスメート達にはあの猫の能力について露程にも気取られていないのだ。
「それだけでも十分うざいってのに……」
 そしてあのブタ猫、更に、近くにいる人間の考えていることを読み取る力まで備えているのだ。教室で逐一私の脳内言葉遣いに駄目出ししていたのは、この能力故である。ちなみにこちらの力を使うのは、先のテレパスとは違って少人数でないと難しいらしい。……化け猫というより、本当はサトリとかいう妖怪なんじゃあないのか?
「……ったく、もう」
 アスファルトの上、無造作に転がっている石を軽ぅく蹴っ飛ばす。全然飛ばない。残念な感じに引っ繰り返るのみである。
「……はぁ」
 ……仁科さんに、すっかり格好悪いところを見られてしまった。
 いやまあ、元はと言えば時間割を間違えた私が悪いのだが――でも、番太郎さえ来なければ、こんな「授業参観で、皆の前で親が『まーくんファイト!』とか言って、めちゃくちゃ注目されちゃいました〜」みたいな、いたたまれないにも程がある思いをせずに済んだだろうに。というか、奴が参上しなければ、もっとほのぼのと「今度からはちゃんと時間割確認しようね」「明日は絶対間違えないよ!」「明日土曜日よ」みたいなやり取りで親密度が上昇しただろうに!
「……それに、またあんなことされたら、たまらんよなあ……」
 風がぴゅうっと吹きつける。
 やっぱりまだ、冬も退場しきっていないようだ。


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