投身

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前編



 それはある三月の日、駅のホームでのことだった。
 とてもよく晴れていて、ぽつぽつと立つ、電車を待つ人々は皆、陽光に目を細めているようだった。向こう側の線路で特急列車が通過し、砂ぼこりが舞い上がる。風でこちらまであおられた砂塵により、薄目はさらに狭められる。それをそうっと開いていくと、宙に残ったほこりの薄い群れが陽を浴びきらきらと下降していく、その光景が映った。穏やかで、なんとも平和なものだな、と誰もが感じている。乗車口からやや外れた場所で、のんびりとたたずむわたしはそう思っていた。
「ああ、今駅に着いたよ。そう。うん」
 車両の影もなく静かになったあたりに、やんわりと声が響いた。後ろを軽くふり向くと、携帯電話を耳にあてがった老人が電車待ちに加わるところだった。老人――いや、老紳士と形容してみたくなる。
「もうすぐだから。うん、そうだよ」
 灰色の、見るからに手触りのよさそうなコートを着こんだ初老と思しき男性。片手に下げるのは艶々とした、黒い革の鞄。そして電話の向こうに語りかける、張りがあり、なおかつ品のよさを滲ませた声音。その声こそまさしく老紳士、そうわたしの耳は訴えるのだ。
 老紳士の話し方はくだけていて、優しげだった。ならば相手はお孫さんかなにかだろうか、自分のななめ前まで歩を進めた彼を横目で追いながら、勝手に想像してみる。その時、頭上から聞き慣れたアナウンスが降ってきた。『まもなく、快速列車が通過いたします。ご注意ください』、ということは目当ての普通列車が来るまであともう何分か、と頭の隅で考える。
「うん。それじゃあ、ばいばい」
 放送が終わって少し、老紳士は終始変わらぬ落ち着いた喋り方で通話を締めくくった。携帯を鞄にしまいこみ、背筋をぴんと伸ばす。
 それと同時に、案内の通り、スピードを上げた電車の近づいてくる音が聞こえてきた。乗車口の真ん前に陣取る一人がわずかに歩を下げる。老紳士もまた後ずさり列車の通過を見守る態勢に入る――とわたしは思ったのだ。しかしその瞬間、彼は後退させかけた足を前に突き出した。もう片方の足をその先へ。そのままホームの縁へ?
 レールを削っていくような、勢いのついた音が迫りくる。その騒々しさに耳を塞ぎたくなる中、老紳士はぎりぎりの場所で立ったままだ。誰かが彼の方に手を伸ばす。しかしその手の行き先はなくなる。老紳士の体が、ぐらりと傾いた。
 電車の速度はそのまま。誰かが「あっ」と漏らす声が聞こえる。それをかき消すような車輪の騒音。老紳士の横顔が目に映る。わたしはそれに釘づけになる。それも一瞬のこと、彼の体は視界から消え――



 遅れて申し訳ありません、とわたしが頭を下げた後、申し訳程度に仕事の話を済ませてから、彼は鷹揚な様子で口を開いた。そこから出てきたのはもちろんわたしへのそしりなどではなく、ただ不謹慎極まりない台詞だった。
「写メとか撮らなかったんですか?」
 余計なことをメールに書くのではなかったな、とわたしは内心舌打ちする。単に『人身事故のせいで電車が遅れてしまって』とでもいっておけばよかったのだ。いや、いっそのこと『急に体調を崩しまして』なんて、嘘っぱちでもよかったのかもしれない。
 主に学校帰りの高校生でにぎわうファミレスで、仕事相手の詠さんはにやにやとわたしを眺めていた。
「だってねぇ。なかなか見られませんよ、人身事故の生現場なんて」
 それが、命が絶たれる瞬間に立ち会ってしまった人間にかける言葉か、と心の中で吐き捨てた。
 白昼堂々とでもいうべきか、初老の男性が電車に身投げした。現場は騒然となり、すぐさま警察が呼ばれる。当然のことのように現場検証などに時間が割かれ、ダイヤは乱れに乱れた。わたしは一時間弱後に予定していた詠さんとの待ち合わせに間に合いそうもなく、呆けた頭で状況を伝えるメールを送った。文面は混乱したものだったろうが、約束を明日あたりにしてはくれないか、と確かに頼んだはずだ。が、詠さんは『どうしても今日サクヤさんに会いたいです』などといってきたのだ。
 その懇願が、こちらに「順調に進んでいる仕事状況をぜひに確認してほしい」と求めるものでなく、「人身事故の話を聞きたい」という慎みない好奇心に基づいたものであると、薄々は勘づいていた。だがメールでははぐらかされ、結局、数時間遅れで約束の場所に行かざるをえず。たどり着いて遅れを詫びるわたしに彼は、「いやぁ。こっちも仕事全然進んでませんしね」などと悪びれず告げるのだった。
 そのことへのあきれ、不快感、いらだちを極力態度に出さぬよう自制しつつ、わたしは小さく「写真撮る人も、いましたけれどね……」とつぶやいた。
「あぁ。やっぱりいるんですねぇ。そんなもの撮って、そうそう見返したいものでもないのに」
「……撮らなかったんですかって、人に訊いておいて」
 あぁそうですねぇ、と詠さんは肩をすくめた。ばかばかしくなって、わたしは笑ってしまう。おそらく目は微笑んでもいないだろうが。
 ところでサクヤさん、と彼は急に、真面目な風な表情をつくった。その瞳がどこか鋭く光り、わたしはどきりとさせられてしまう。
「その昔、大家族で暮らすのが当たり前だった時代、人は元気だったおじいさんやひいおじいさんが徐々に弱り、床に伏せり、死んでいく様を目にした。周囲がそれに対しどんな反応を示すのか、どういう態度をとるのか、それらも脳裏に焼きつけていった」
「はあ」
「そうやって、死というものがどんなものか、理解していったそうです。ところが現代、核家族化が進み、そのような光景もなかなか見られるものではなくなった。死に向き合う場面がないんですね。現代人にとって死は得体の知れないものであり、訪れる人の死に上手く対処することができません」
「はあ、なるほど。確かに、そうやって人が死ぬところなんてそうそう見られませんよね」
「サクヤさん、よかったですねぇ。人の死への理解に近づけて」
 はあ? と思わず口にしていた。真正面にある顔を確認すると、真剣さなどはいつのまにかどこへやら、詠さんは口の端を吊り上げていた。
「人が死ぬその瞬間を、見られたでしょう?」
「あの……それ、話、すり替わってますよね? 詠さんがいうのは身近な人の死についてであって、知らない人が死ぬその瞬間だけ目撃するのとは違うでしょう? そういう機会なら現代人にもまああるでしょうし。死への理解もなにも、ないじゃないですか」
「あぁ、バレました?」
「バレましたって……」
 その時遅ればせながらウェイトレスがやってきて、注文を訊ねてきた。わたしたちはどちらも「コーヒーで」と短く頼み、厨房へ戻っていく背を見送ってからまた顔を見合わせる。
「それじゃあサクヤさん、身内の死を体験したことはありますか?」
「……ありますけど。母方の祖母が、小さい頃に」
「へぇ。まぁさすがに二十過ぎまでには誰かしら死にますよねぇ。それで、弱っていくところをちゃんと見ました?」
「いえ……それまで元気に見えた祖母が突然、です」
 そうですか、と詠さんがなぜか手帳を広げメモをとるのを眺めつつ、わたしは頭の隅で線路へと飛びこんでいく老紳士の姿がちらつくのを意識していた。こめかみのあたりが痛い。それをまぎらわすように、コップに口をつける。最初からちゃんと冷やされていなかったのか水はぬるく、わたしはわずかに吐き気を覚えた。
「それにしてもサクヤさん、血とか飛び散ってこなかったんですねぇ。服がいつも通り綺麗だ。間近にいたのに」
 と、また詠さんが話の矛先を人身事故の件へと戻したようだった。視線を彼の目へと向け直したわたしはうんざりするのもおっくうで、代わりに皮肉の一つでもいってやることにする。
「そうですね。できればきれいな服のままどこにも寄らず家に帰りたかったです」
「まぁまぁ。こういう時こそ気分転換ですよ。あ、何か食べます? 奢りますよ。あぁ、食べられるような気分じゃないですか?」
 詠さんはいたずらじみた様子を隠そうともせず、わざとらしくメニュー表など向けてきたりする。どこが気分転換だ、とわたしはため息まじりに彼の手を制した。
「……幸いなことに血を浴びることもなく、食事はできそうですけどね。詠さんのおごりはお断りします」
「つれないなぁ。しかし、死体の一部だとか目に焼きついてたりはしないんだ?」
「あまり覚えてませんけど、男性は快速列車に吹っ飛ばされて――遺体はホームの端に飛び散ったみたいです。わたし、そっちの方は見ていないので」
 ホームにまざまざと残された肉片や血、遺体の一部がどうの、などということをきっと詠さんは詳しく聞きたいのだろうが、あいにくと本当に列車が突っこんでからはぼうっとしていたのだ。「死体なんかは、見ていないです」と伝えると、一応納得してくれたようだった。
 それでも、この話をやめる気はないようだったが。
「あぁサクヤさん、振替輸送乗車券ってもらいました?」
「なんですかそれ」
「人身事故なんかで電車が遅延した時に、タダで他の交通手段に切り替えるための券らしいですよ。バスなりタクシーなり。まぁ、サクヤさん結局同じ交通手段で来たからもらう必要なかったか。どうせならタクシーでも使えばよかったのにねぇ」
「いや……頭が回らなくて。待合室でメール打つのが精いっぱいで」
「それにしても、人身事故の復旧って時間かかりますよねぇ。あぁ、私鉄ならかなり早いらしいですよ。私鉄とかだと、証拠の写真だけ撮って現場保存もせず、警察が来る前に整理しちゃってとっとと電車動かすそうです。これがJRとかだと警察が来るまで手をつけず、現場検証みっちりやらせてから復旧だからやたら遅いらしいですねぇ」
 どうも興が乗ったのか、詠さんはぺらぺらとどこかで拾ったらしい知識を披露していく。こちらがあいづち打つのもさぼっているのに、気づいているのかいないのか。わたしは実のところ話の内容よりも、ぽんぽん手帳を叩く詠さんのボールペンの音が気になっていた。
「よく電車に飛び込むと莫大な損害賠償がどうのっていうでしょ? その損害賠償の大きな名目は、さっき話した、利用客に渡される振替輸送乗車券なんだそうです。だから復旧に時間がかかる分、JRだと賠償額もお高くなる。客の数にもよりますが。新幹線に飛び込んだりしたらもう目も当てられないですねぇ。その点、私鉄だとすぐ動く分、損害賠償請求も大してやらないとか。飛び込むなら私鉄がおススメですよ」
「あの、なんでこっちをまじまじ眺めながらいうんですか」
 さぁ? と詠さんはグラスの水をあおった。そうして、もう何度目かになる「それにしても」を口にして、視線を手元の手帳へと下げていく。
「飛び込んで、死んだら、損害賠償は遺族にいくわけですが。莫大な賠償押しつけて、心苦しくないんですかねぇ。それに飛び込む場所によっては何百万人に迷惑かけるわけですし。あぁ、あるいは、自分が苦しんでいることに気づかない家族や社会に対する復讐か――」
「それは、違うと思いますけど」
 コップを持ち上げかけていた手を止め、わたしは詠さんに口を挟んでいた。
 詠さんは自分の意見が否定されたことへの不満などは見せず、純粋に興味深そうに真っ黒い目を歪めた。理由は? と、わたしに首をかしげてみせる。
「……本当に死にたい人は、そんなこと考えないんじゃないですか? なんていうか、死ぬことで頭がいっぱいで……そういう、いってみれば打算みたいなこと考えて死んだりしない気がします」
「へぇ? でも、当てつけで自殺とかよくあるじゃないですか? 好きな人にフラれて『死んでやる!』とか。自分を失って苦しめばいいとか、そういうことを考えて」
「確かに、自殺の引きがねはそうなのかもしれませんけど――死ぬ直前、最後の最後に思うのは……そういうことじゃなくないですか?」
 最後の方は、詠さんの視線に耐えかねてうつむき加減で喋っていた。そんなわたしのなにがおもしろいのか、カリカリとボールペンを走らせる音が聞こえてくる。
 頭を上げると、詠さんが「ふぅん」と、訊ねてきた時とは反対側に首をかしげていた。その顔にはにやにやと、楽しそうだけれどどこか仄暗い笑みが浮かんでいる。
「最後に思うこと、ねぇ……もうちょっと考えてみた方がいいかな。ところでサクヤさん、人が死ぬところを目撃した気持ちってどんなものですか?」
「……詠さんはもっと、人の気持ちを考えた方がいいと思います」
 そう話を切って、ようやくやってきたコーヒーをとっとと飲み干し、わたしたちは別れることにした。もちろん詠さんには、次の待ち合わせまでには約束の品を完成させると誓わせて。
 この後は会社に戻り、書類整理などを済まさなければならない。さっきは家に帰りたいなどといったが、そういうわけにもいかないのだ。
 足が重い。しかし、とわたしは両手で頬をぱんっと叩き、気を引き締めていくのだった。



 週末の早朝、会社へ行く支度をしていたところ、携帯の着信音が鳴り響いた。電話をかけてきたのは少し離れた実家の母だ。おおかた昨日の夜に連絡しようとしていたのを忘れたのだろう。わたしは多少ためらったものの、時間に余裕もあったので電話をとることにした。
「もしもし、お母さん?」
『久しぶり、元気にしてる? あんたろくに連絡もよこさないんだから。そういえばこの前ねえ――』
 時間がある、とはいえゆったりと世間話でも始めそうな母に全部付き合えるほどではない。わたしは「用件は?」と先をうながした。
『なによもうせっかちねえ。ああそれでね、今度の日曜、おじいちゃんとこに来れる?』
 今度の日曜、というと明後日だ。昨日伝えようとしていたにせよ間近すぎる。祖父の家は今母のいる場所からさらに遠く。あまりにも急な相談ではないか、とこちらが顔をしかめる気配を察した様子もなく、母はおっとりした声で喋り続けた。
『親戚みんな集まるの。ほら、おばあちゃんの命日でしょう』
 それを口実にして、祖父宅で宴会もどきでもするつもりなのだろう。祖父も伯父もみんなみんな、なにかと騒ぐのが好きだった。そういうことにわたしを巻きこむのもまた。
 嘆息したくなるものの、積極的に断るほどの事情も持ち合わせていなかった。日曜なら会社に出る必要もない。それに、口実とはいえ祖母の命日であることは否定しようもない、逃げようもない事実なのだ。
「わかった、行くよ」
『そう。じゃあねえ――』
 なおも話を続けようとする母を制止して(おそらくお土産にあれを買ってきてほしいだのと頼むつもりだったのだろう)、わたしは通話を切った。
 携帯を机に投げ出し、しばし、椅子に腰かける。
 それから息をついて、立ち上がった。途中になっていた準備を終わらせる。そうして、上着をとってのろのろと部屋の外へ。

 気温が高く、出勤時着こんだコートはすっかりお荷物になっていた。なにも羽織らずとも外気はちょうどよく、会社の屋上にはまぶしいくらいの太陽の光が降り注いでいる。このところ天気がいいがここまで暖かいのは本当に久しぶりだな、とひとりごちた。
 十四時過ぎの屋上には誰もいなかった。おかげで、車が下の道路を通る音が耳を澄ませば聞こえる程度で、静かに昼食をとれそうだった。コンビニのサンドイッチの包みをはがしながら、わたしはほっと一息つく。
 ようやく昼ごはんを食べられる、と思ってデスクで飲み物を用意したりしていたところ、ちょうど前の席の同僚が帰社してきたのだ。もちろんそれだけならばたいして気になりはしないのだが、同僚はぐっちゃぐっちゃと、しきりに口を動かしていた。ガムを噛んでいるのだ。その音が耳障りに思えてしかたがなく、わたしは席を立ってしまった。
 ベンチの上で、サンドイッチをほおばる。すっかりふやけたようなパンの触感と、安っぽいハムとレタスの風味が口を満たす。落ち着いて食事をとれた分なのか、味気なさが舌についた。それをまぎらわすように、わたしは周囲の様子に意識を馳せることにする。今日は本当にいい天気。なんだかんだ、外に出て遅いランチにして正解だった。陽射しは夏ほど暴力的でなく、このままうつらうつらとうたた寝してしまうのもいいかもしれないと思えた。すがすがしくて、穏やかで――屋上のさらに上へと視線を移す。晴れた空は真っ青に広がり、雲の筋一つすらない。ずっと見上げていてもそれは変わらないようで、めまいがしてきた。
 口にあったものを飲みこんでから、視線を手元に。自販機のペットボトルで舌をリセットする。それから味などは気にしないよう、強いて別のことを考えようとした。これからのスケジュール。処理すべき書類。上司への報告。メールチェック、電話連絡。電話――
『今度の日曜』
 乾いた唇を舌でなめる。
 残ったサンドイッチを一気にたいらげる。ペットボトルの中身もすべて片づける。それからすっくと立ち上がり、屋上の入口へ――は、すぐに行く気になれず、反対方向、フェンスの方へと足を進めた。
 屋上の縁に立つ。柵で守られたそこから見下ろす風景はとりたてて珍しいものではない。広い道路を通過していく車、まだ緑をつけぬ茶灰色の街路樹。歩道をそれぞれに歩いていく人々の頭。その数はわたしが出社した時とどれほど違うのか。おそらくそう変わらないのだろう。
 薄緑色のフェンスを左手でつかむ。がしゃんと、あたりの静けさに音が加えられた。
 ここまでは人々の話す声も、足音も届かない。道行く人、各々の頭の中になにがつまっているのか、わかるはずもなく。わたしはそれでもなお、一つ一つの頭をぼうっと目で追っていた。
 と、その中で。ポケットから振動が伝わってくる。携帯をとり出し、画面を確認すると一通のメール。開いてみると、相手は詠さんだった。
『ご相談したいことがあるので、日曜日にお会いできませんか』
 日曜日、と声に出したかはわからない。
 わたしは少し迷い、断りの返事を打った。それにしてもメールだとあの人がいっそう白々しく感じられるのはなぜだろう、などと笑ってみたりした。しかし、これでは済まずにまたすぐ追撃メールがやってくる。『何かご用事が?』、しつこいなあ、と思いながら、この前の反省を踏まえて適当な嘘を使おうかと考えた。正直に答えることもないはずなのだ。詠さんの相談というのが急を要するものでないことは感覚的にわかっていたのだから。不誠実に、適当な理由ではぐらかしても罰が当たりはしない。ただ、それもあまり意味がないな、と結局、本当のことをいうのを選ぶ。日曜日は祖父の家に行く。祖母の命日だから。
 送信ボタンを押して、おそらくもう返信はないはずだと携帯をしまった。それからもう一度、下を眺めた。それで今度こそデスクに戻ろうと決意する。
 今朝はこの光景にわたしも含まれていたのだな、とひとりごとを口にした。



 母と伯母が追加の料理を仕上げたので、わたしは大皿に盛られたそれを居間に運んでいく。
 日曜日、祖父の家は想像通りに騒がしかった。朝からずっとだ。にぎやかな声とたくさんつくられた食事、さらに大量のつまみと酒。しかしそれに対応せず、人数自体はそうおおげさでなかった。家の主である祖父、そう離れていない町に住む伯父伯母、叔父、それに母とわたし。父はたいていこの集まりにはやって来ない。また、わたしの従兄であるところの伯父の息子二人もそうそう姿を見せなかった。
「あいつら、忙しくなんかないくせに顔出さねえで。ったくいつまでもプラプラしてよお」
 酒を片手に語る伯父は、言葉こそ憎たらしげだが口調は酔ってゆるんだ顔とまったく同じだった。すでに何回もなされたその話を聞く祖父と叔父も、深刻そうな雰囲気などみじんも漂わせていない。わたしより少しだけ年上の従兄たちはどちらも、定職に就かずふらふらしていた。今集っている大人たちは親なりに親戚なりに彼らを心配しているようだが、「あいつらの自由にやらせたらいい」と、あくまで楽観的だった。わたしに続いて酒の席に戻ってきた母と伯母も、同じ。伯父はコップを掲げるようにしながら、母に満面の笑みを向けた。
「喜美んとこはいいよなあ! しっかりした娘さんでさ」
 そうして、話題がわたしに移るのもまた何度目か。座ったところで缶チューハイを手渡され、赤い顔で笑いかけられた。缶のお酒はあまり好きではないのだが、わたしはあいまいな笑みをこぼしておく。そうする他はない。親戚たちは子供組に酒をすすめつつ、わたしたちのことを酒の肴にすることを好んでいた。
「うちんとこと違ってゆーしゅーでさあ」
「ほんと、昔からよくできた子で」
「やだもお、そんなおだててねえ」
 褒めそやしたり謙遜したり、それらはどれもわざとらしくなく、誰もが自然体だった。この場所では皆、ゆったりとしてくつろぎきっている。朝からそうだったし、以前からずっとそうだった。
 居間の後ろの襖を開けると、そこは仏間。わたしの背中の向こうには祖母の仏壇がある。今日は祖母の命日で、一族が会した理由はそれなのに。到着してすぐお参りをして、それで終わり。そこからはただの宴会。
 みんなが気楽でおおらか。
「本当、なんの心配もない子だよなあ」
 わたしは慣れたその光景に、文句をいったりはしない。ジュースによけいな苦みを混ぜこんだようなチューハイを口に含み、頭の奥のむずがゆさを気にしないふりでやり過ごす。

 明日の仕事が早いからと言い訳して、わたしは午後六時過ぎに祖父宅を出た。母は一緒に帰りたがったが、やんわりと拒否し先に失礼する。
 早く退出したとはいえ、ここから自分の部屋までは電車を幾度か乗り継いでざっと三時間はかかった。二本目の汽車に乗っているうちにあたりはすっかり真っ黒に染まり、窓の外に見える建物からは明かりがもれていた。
 線路の向こうに街灯が並ぶ。ぼわんと朱色の光を発するそれらが不気味に見えたと思ったら、窓にしけた顔の女が映った。
 それを眺めるのも忍びなく、わたしは今この列車に乗ることになった、その原因たる祖母について思いを巡らせてみることにした。親戚たちはそれぞれに彼女のことを想っていて、酒で騒いでいるだけでは決してないと十分承知している。なにせ母たちからすれば実母だ。胸の内にはわたしにははかりようもない感情があると、この歳にもなれば想像はつく。酒で元気に盛り上がるのも、弔いの一つなのかもしれない。ただ、それでは足りない気が、個人的にするのだ。だから心の中で語らせてもらう。
 生きていた頃の祖母は。幼かったわたしの目にわかるほどに、神経質な女だった。母とともにたびたび訪れたわたしの、戸を閉める音がうるさいと、しょっちゅう眉をひそめていた。母の立てる物音にさえも不機嫌そうにしていた。すでに家を出た娘息子について、あれこれとため息をつき文句をいっていた。思い返す彼女の顔は、いつも眉間のしわとセットだった。そのぴりぴりした声に、わたしはいつも怯えていた。故人を偲ぶなら少しはいいことを並べておきたいのに、そういった思い出があまりにもない。
 語りたい、といってみたがわたしに伝えられるのはその程度の情報だった。後に思いつくのはすでに述べた事実とそう変わらないことだらけ。
 親戚たちは、祖母に似ず、あるいは似ないようにしたのか、みんなおおらかだった。神経質な祖母を受け入れるためにそうなったのかもしれない。
 気持ちを再び窓へ。そこに浮かび上がるわたしの顔。
 そうだ、と思い至る。あと一つだけ、並べ損ねた事実が残っている。
 誰も不思議と口にはしないが、祖母はわたしと似ている――

 まもなく電車が大きめの駅に到着し、『終点です』とアナウンスが入った。そこからまた乗り換えだ。窓の外をちらと見てから、わたしは降車しようとした。窓の外。線路。降りる――その、なんとも絶妙に感じられるタイミングで、だった。
 鞄の中から、鈍い振動が伝わってきたのだ。



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