終わる世界の友の会

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「なーんか物足りねぇなぁ、ってわかります?」
 お昼休み、教室では見事にハブられているため私は化学準備室へと赴く。そこには愛妻弁当を一人つつく、担任の仁(じん)先生がいるのだ。
 仁先生はこの学校で唯一私を構ってくれる、やせ型で背だけひょろりと高いおじさん先生。授業は板書ばかりで生徒には「キモイ」なんて言われて評判が悪い。めったに喋らないけれど、その声は深くて飲み込まれそう。きっとそれをちゃんとわかっているのは私だけだ。
「仁先生なら知ってるかなぁ? 昔やってた深夜番組のコーナーに、ええと、外苑東通りの狼っていうやつがあってですね、なんか二人組が新聞とか見て事件とか社会の理不尽さに怒ってみせるんだけど、それでも小さいことしかできなくて、なーんか物足りねぇなぁって二人でハモってから、中古テレビとかをハンマーでぶっ壊すって内容らしいです。知ってます? 私も話を聞いただけなんですけど、ちょっと観てみたいかなぁ」
 向かいに座ってお弁当を広げ始めつつ、先生の様子をうかがった。こっちには興味なんかない、という素振りを見せながら、話の途中ふと注がれるねっとりとした瞳はいつも通り。
 それに満足して、私は独り言のような会話を続けるのだ。
「色々納得いかないのにたいしたこともできないって、なんかわかりますよねぇ? 絶対におかしいって言えることで世間は溢れていて、だけどおかしいって言ったら負けみたいな変な風潮。気にしないのがクールなんですよ、世界は別に酷くなんてないんですよって言いながら生きてるような感覚。できるとしたら小さな反抗ばかりで、それすらも誰も気にしない。世界をどうにかすることなんかできない。きっとそれが世間の約束ってやつで、皆クールぶってるんだろうなぁって思ってたんですけど、いるもんですね、納得できないってちゃんと言える人も。そんなこと、つい先日思ったんですよ」
「……ここ数日いなかったのは、それで」
 ぼそぼそと呟くような、そのくせ妙に湿った声が響く。
 私はにっこりしながら、答えた。
「えぇ。私、魔法使いにあってきたんです」

×   ×   ×   ×

 目が覚めると身体に奇妙な圧迫感があった。
 横たわる自らを眺めていくと、制服の上からガムテープで幾重にも縛られていた。手首を、足首を、腕回り、胸の下。
「やあ、気がついたかい」
 視線を上に移したところ、微妙に高い男性の声が降ってきた。こちらを見下ろすその人の表情は、逆光でうかがえない。
「おっと、せっかく口は塞がないでおいたんだからさ、叫んだりしないでおくれよ? まあ、ここの防音なら少しくらい騒いでも問題ないだろうけどね」
「……つまり、誰も助けにきてはくれないよと」
 溜め息混じりに私が言うと、男性は少し首を傾げたようだった。叫ぶな、と言いながら、こちらが取り乱すのを期待していたのだろうか。
 ひとまず彼の思惑は無視して、私は記憶を手繰っていくことにする。
 覚えているのはそう、学校帰り、人気のない公園で公衆トイレに立ち寄ったこと――
 ああ。そこで、この人に拉致されたのか。
「一応言っておきますけど、まぁ制服見たらわかるでしょうけど、私の家、お金なんてないですよ? それともまさか、完全なる飼育とかそっち系ですか?」
「きみは……随分と、余裕だね?」
 そこで少し外が陰ったのか、彼の容貌があきらかになった。
 一目見てもすぐ忘れてしまいそうな、髪の毛はまだふさふさしているおじさん。ただの四十代くらいの優しそうな顔のおじさんだ。
 彼は少しだけ眉をひそめながら、ぶつぶつと何か言っていた。はっきりとは聞き取れなかったけれど、「これも世界の」「間違っている」とか、そういうワードがあったように思う。
 そして一つうなずいてから、彼は言う。
「きみはとっても可愛い子だね。きみは選ばれたんだよ」
「はぁ」
「ぼくは魔法使いなんだ」
 はぁ? と口には出さず、私はいぶかしげな視線だけ送る。
「それはその、三十歳まで童貞だったとかそういうのですか」
「女の子がそんな言葉を使ってはいけないよ」
「私、男の子です」
「えっ」
 さらっと言ってみたら、彼は一歩だけ後ずさった。
「縛った時わかりませんでした? 胸の感触とかおかしくなかったですか?」
「いや、その……ならどうしてそんな格好を」
「別に。大したことではないでしょう?」
 縛られて、身動きもとれない私は投げやりな言葉を返す。
 自称・魔法使いさんはとたんにおろおろ慌てだした。親指の爪を噛んで貧乏ゆすりを始めて、これは、どうしたことだろう。さっきより激しく、ぶつぶつ何か喋っている。
「きみは、おかしいね?」
「え、はい」
 ふいに尋ねられて、考えなしにうなずく。
「おかしいよ。男の子なのにそんな女の子の制服で堂々と出かけて、女子トイレに入ろうとして。おかしいよ。おかしいおかしいおかしい」
「あ、あの……」
「うん。最初の目的とは違っちゃったけれど、これもまた世界のためだ。きみ、名前は」
「えーと、シューヤです」
「そう。ぼくは鶯(うぐいす)谷(だに)。シューヤくん、ぼくがきみを魔法でちゃんとした男の子にしてあげよう」
 魔法使い・鶯谷さんは言うだけ言って別室に引っこんでいき、私は以降空腹をこらえて寝ることしかできないのだった。

 翌日。甘い香りで目が覚めた。相変わらず身体は縛られている。
 寝転がされたリビングから見えるダイニングキッチン、そこには私より少し年上くらいの――とてもとても綺麗な、女性が立っていた。
 こちらに気づいた彼女は申し訳程度に笑う。二つしばりの髪が胸の前にさらりとこぼれた。黒髪がなぞるふんわりとした曲線。ほどよく、良い場所に肉がついているけれど全体的にすらりとした印象、スタイルの良い女性だ。白い肌が眩しい。しかも目元の優しげな美人。
 もう顔もおぼろげな昨日の男性、鶯谷さんとは大違いだ、と思っていたら背後から声がする。
「やあ、起きたかい。紹介しよう、そこの彼女はハル子。ぼくのものさ」
「えっ、こんな美人とお付き合いを」
「いや。そういうんじゃない。彼女はぼくのものなのさ」
 そう言いながら、鶯谷さんは女性、ハル子さんの方へと近づいていった。
 チン、とレンジが鳴る。そちらをちらと見てから、女性は生クリームらしきものをかき混ぜる手元の電動泡立て器に向き直った。ケーキでも焼いているのか。甘い匂いがいっそう強まる。
 と。ハル子さんの隣に立った鶯谷さんが、ぼそりと、妙に優しく呟いた。
「ハル子。きみのその美しい指を泡立て器に突っ込んで」
「はい」
 私がえっ、と発する間もなかった。
 ハル子さんはずぶしゃあっと、回り続ける泡立て器に左の人差し指を突っ込んだのだ。
 機械的な振動の中、一瞬だけ生々しい音が混ざる。
 私は思わず息を飲む。
「――ほら、シューヤくん。これがぼくの魔法さ」
「え、あの」
「こんな馬鹿げた酷いこと、頭が空っぽになって操られていなければできないだろう?」
 ハル子さんに目をやった。
 彼女は何の感慨もなく、ほたほたと血の流れる左の人差し指、それから鶯谷さんを見つめている。その顔には薄っすらと笑みすら張り付いていた。
「ハル子は偽りなく、ぼくに従う。命令に逆らわず、嘘をつかず、ただぼくのそばにあり続けるんだ。そういう風に魔法をかけた」
「いや、魔法って……」
「きみも、いずれはそうなるよ。ちゃんと男の子になる魔法と平行で、ハル子と同じ魔法をかけているから。そろそろ効いてきた頃じゃないのかな」
「はぁ……」
「とりあえず、拘束を解いてあげる」
 気の良い親戚のおじさん、そんな風に鶯谷さんは笑った。
 そしてその後、ガムテープから解放された私はリビングの椅子に座らされ、ハル子さんの焼いたケーキを食べさせられた。ハル子さんは料理上手らしい、生地がふんわりとして、生クリームが少しピンク色がかったケーキは、なかなかの美味だった。

 数時間後、夜のことだ。
 昨日は気づかなかったがハル子さんは鶯谷さんと同棲していたらしい。いくつかある部屋のうち一つが、彼女にあてがわれているのだとか。
 そしてその日、自分の部屋で眠るはずの彼女は、リビングに正座させられた私の正面に立っていた。
 一糸まとわぬ、生まれたままの姿で。
「あの、鶯谷さん、これは……」
「どうだい、ハル子は美しいだろう。本来男なら感じ入るところがあるだろう?」
 しぶしぶ、月光を背にしたハル子さんを眺める。その白く浮かび上がる肌は、男どころかたいがいの人間は駄目にしてしまえるような、妖しいまでのなめらかさをたたえていた。彼女の穏やかな笑みから下をなぞるように見ていく。たおやかな首、触れるのをためらいたくなるくせ、その感触を確かめずにはいられないような鎖骨のくぼみ、白く白く盛り上がった乳房、すっとくぼんだ臍、ふわりとした産毛――なんだか気が遠くなってきた。舐めまわして思うさま顔を埋めて引き倒してやりたい。そういうことを思うべきなのかなぁ、とおぼろげに考える。
「例の、ちゃんとした男にする魔法ってやつですか」
「きみが望むなら、今ハル子を好きにしていいんだよ? 大歓迎だ」
 この人は何をやっているのだろう。自分は何をやっているのだろう。ハル子さんは何も言わず全裸で立っている。頭の奥に宇宙が見えたような、途方もない気分になった。
「えーと、これは和姦てことになるんですかね?」
「はは。そういえば処女ならば強姦致傷、という話があったけれど本当かな」
 あぁ、血が出るから? と苦笑いしてから、ふとおかしなことに気づく。
「処女なんですかハル子さん」
「そうだよ?」
「え、鶯谷さんと同棲してるのに?」
「ハル子が完全に魔法にかかって、何の邪念もない存在になった時、ぼくたちは初めて結ばれるんだ」
 うっとりと、見た目よりも高い声を響かせる鶯谷さん。
 魔法、完全、邪念のない――わけがわからないが、奇妙に琴線に触れる鶯谷さんの言葉たち。
 私はいよいよ馬鹿らしくなってきて、昨日よりさらに投げやりになってやった。
「すみません。私、女の子の格好して触手に身体をまさぐられる妄想じゃないと抜けない性癖なんです」
 鶯谷さんはあからさまにビクッとした。私がすましていると、慌てて取り繕うように、わざとらしく溜め息をついて言う。
「性癖という言葉の使い方が間違っているよ。あれは、単に癖という意味合いが強い。性的なニュアンスは本来ないんだ」
「でももう、性的な意味で使ってる人が大半でしょう」
「よくないよ。間違っているのはよくない」
 鶯谷さんは一生懸命、なにやら伝えようとする。しかし私とて、それを聞いてやる程お人好しではないのだ。
「触手萌えなんてありふれた妄想バリエーションの一つでしょう? それに女装が加わったりなんだり、たいして騒ぐ程のものでもない。世の中には巨大生物に丸のみされるシチュエーションに屹立するような人もいるんです。そう神経質にならないでくださいよ」
「シューヤくん、そうじゃない」
「信じられないようなこと考えてる人、たくさんいますよ? 実の母親が脂ぎったおっさんに強姦されるの想像して元気になっちゃう人とか。ガスマスクにすっぽり覆われた顔と生身の身体のギャップに性的興奮を覚える人とか。あとあれですか、デンドロフィリアとか。植物でしごいたり植物挿入したりなんだり、誰だって人に言えない性癖の一つや二つ持ってるんですよ。そういうの普段はひた隠しにながら、夜はひっそりそれぞれオカズってね。あぁ、私もさんざん笛舐められたり弁当に精液かけられたりしましたよ。こういう見た目だと苦労します。妄想にとどまらず色々実行しちゃってる人、たくさんいますしねぇ。だけど見て見ぬふりがマナーなんです」
「シューヤくん」
「ついでに言うと私、美人もとい女性よりか中年のおっさんの方が好みです。犯すならハル子さんより、むしろ鶯谷さんの方が興奮しますね。とにかくです、そういうのをあなたの基準で勝手に美人さん強姦しろとか、そういうのがあるべき姿とか、やめてくださいよ」
「――違うんだっ!!」
 突然、鶯谷さんが声を荒げた。
 それから彼はあろうことかその場にうずくまり、細かく痙攣しだす。またぶつぶつ、何か呟き続ける。
 なんなんだ、この人は。
「……今日は、もういい」
 そうして彼は、自分の寝室へと戻っていった。去り際、「ハル子、シューヤくんが逃げないよう見張っていなさい」とだけ命令していく、その背中がひどく小さかった。
 その姿が闇に消えると、ハル子さんは床に脱ぎ捨てた服を拾い集め、足を通し始めた。
 それから、独り言のように漏らす。
「……あの人、かわいそうな人なの」
 そうして月の光を浴びながら、彼女は薄く微笑んだ。
 その言葉と笑みはひどく甘く、私の脳裏に残った。

 細くて長い、だけど骨ばっていて男の人のものだとよくわかる指の夢を見た。十本の指。数にしてはたいしたことない、というか普通に一人の人間が持つ両手の指だ。それがゆらゆら、わさわさと、蠢く。蠢いて、近づいてくる。さながら触手のように。私の身体をおそるおそる、取り巻いていく。
 懐かしい感覚に目を覚ますと、私の正面に昨夜とは打って変わって晴れやかな笑顔の鶯谷さんがいた。
「やあ、おはよう」
「……おはようございます」
 朝ご飯はハル子さんの作ったトーストとハムエッグ、サラダ。香り立つコーヒー。ありふれすぎた食卓だ。
 カチャカチャと朝食を終えると、ハル子さんと鶯谷さんがなにやら目と目で合図、立ち上がったハル子さんが私の肩にやわらかく手を置き、さりげなく動きを封じた。
「あの」
「午前中はきみに、みっちりと魔法をかけようと思う」
 鶯谷さんはどこからかガムテープを取り出し、それで私の口を覆った。
 言論を封じられた私。そこに彼は、長々と言葉を叩きつけてくる。
「シューヤくん。きみは昨日、自らのおぞましい妄想について世間ではありふれている、誰でもこの程度持っていると言っていたね。だけど考えてみてくれ、きみのその妄想や、女装癖というのは異常なものだろう? 昨今ではどんなものでも、そういうものもありなんだと言って受け入れる風潮があって、なんたらフリーとか広く許すべきという考えが強くなっている。だけどそれでは駄目なんだ。そんなものを許すから世界がおかしくなっていく。おかしな人間の凶行に無垢な人々が巻き込まれる時、憤りを感じないかい? そういう人間と同じ嗜好を持っていると知った時、罪悪感を覚えないかい? そういう人間は糾弾していくべきなんだ。そうやって社会を保っていかなければ、本来正しい純粋無垢なる人間が保護されないじゃないか。そうそうきみは女性よりも男性を犯したいだの言っていたが、それで子供が生まれるかね? 人類が繁栄するかね? そうやって何でもかんでも認めていくから、人類という種全体が衰退していく。低レベルな生命体になっていく。生物としてあるべき姿というものは、確実に存在するんだ。その型にはまる生き方こそが正しい。想像するくらいなら許される、と言うが、その想像こそがあるべき姿の妨げになっている。他人の嗜好を見て見ぬふり、ということは語られずとも知ってはいるということだ。他人がおぞましい妄想をしていることを知っていて、それを隠して真に円滑な関係を築けるだろうか? 相手をハナから疑わねばならない。心の奥底に隠した何かの存在に怯えなければならない。ならばそんなもの、最初からなければいいんだ。誰も何も隠していなければいい。表面通りの空っぽであれば皆安心なんだ。認めるわけにはいかない。他人に言えない妄想なんてしてはいけない。裏側なんてなくていい。これが正しい人間の姿というものなんだよ」
 まる一時間は喋り通しだったが、鶯谷さんは要するにこのようなことを延々と繰り返すだけだった。私がどれだけうんざりした顔をしても、彼の繰り返しはとどまるところを知らない。
 全て語り終えると、彼は私のガムテープを外し、にっこりと笑みこぼした。
「わかったね? きみも何も包み隠さぬ、ぼくの操り人形になるんだよ。それがあるべき姿なのさ」

 午後、鶯谷さんはどこかへ出かけていった。
 残された私とハル子さんは、なんとなくテーブルについて向き合っていた。お互い、無言のまま。ただお互いに喋ることがあるのはわかっているような。
 ふいに、ハル子さんが口を開く。
「逃げないの?」
 彼女はいつも通り薄っすら微笑みながら、その瞳は妙に冷たかった。
「鶯谷さんを犯したいって、まさか本気?」
 彼女は穏やかに、私を睨みつけている。初めて、彼女から本当の感情を感じとれたような気がした。
 それに思わせぶりな笑みを返してみて、私は言う。
「好みのタイプではありますけど、私には心に決めた人がいますんで。そうですね、近々出ていきますよ」
「そう――よかったわ」
 私にとっては、鶯谷さんが心に決めた人なのよ。
 言われずとも、その意志を読み取ることはできた。
 ハル子さんはふっと瞳を和らげた後、テレビをつける。昼の情報番組は、昨日起きていたらしい幼女誘拐殺人事件を大きく報じていた。
「小さな女の子を強姦したあげく殺害――死姦って、理解できます?」
 なんとなく、事件について訊いてみる。ハル子さんは何の感慨もなく答えてくれた。
「ちっとも」
「理解はできませんよね。私も趣味じゃない。ただ、そういうのが好きな人もいる、っていうの、わかる気がしません?」
「ええ。こういうのはマイノリティーであるべきなのだろうけれど。だからといって特別なことだとは思わないわ」
 何一つ浮かべず話すハル子さんに、私はおおいに満足した。
「それにしても、ある日のあるタイミングで公衆トイレを利用する。たったそれだけで誘拐されてしまうなんて、世の中は理不尽ですね」
「ええ。ちょっとしたはずみで、ろくでもないことに巻き込まれてしまう。ちょっとしたはずみをずっと待っている人間が存在する。恐ろしいことだわ」
「世界は――だいぶ、終わってますね」
 彼女はゆっくりと、ただ首を縦に振った。
 彼女もきっと他人のろくでもない妄想のタネにされ、おぞましい性癖に巻き込まれ、ちょっとしたタイミングで人の心の裏側の被害に遭って、そうして鶯谷さんにであったのだろう。
 それだけわかれば、十分だった。
「それにしても。人死にの話を聞いた後って、妙にお腹がすきませんか?」
「一昨日作ったババロアならあるけれど」
 オレンジのババロアはつるりと喉を通り、鶯谷さんが帰ってくるまでに全て私の胃におさまっていった。

 その夜のことだ。
 鶯谷さんは私に正しい男のあり方のようなものを教えようと、ハル子さんの服を脱がせようとした。しかしさすがにこちらも食傷気味、丁重に制させていただく。
「そういうの、いいですから」
「……きみはまだ、魔法が効いていないみたいだね?」
 魔法。その言葉ももはや、やれやれだ。
「ねえ、鶯谷さん。私も今夜には逃げるつもりなんで、最後に聞かせてくださいよ。あなたはどうして、他人のおぞましい妄想とか、そういう裏側を恐れ――なくしたいと思うようになったんです?」
 明かりもつけないリビング、正座した私は正面に立っている鶯谷さん、その傍らにあり続けるハル子さんを見上げる。
 そうして極力冷たく聞こえるよう、問うのだ。
 鶯谷さんはぼぅっと、子供のように首を傾げる。
「どうして、も何も。そんなものがないのが本来の姿なんだ。それに逃げるってどういう」
「何かきっかけがあったはずでしょう? とりあえずそこのところ、はっきりさせときたいかなって。後学のためにって言いますか」
 淡々と述べながら、口元だけ笑みを浮かべてみる。
 鶯谷さんは闇夜にもわかるくらい、うろたえていた。本当に繊細な人だ。隣のハル子さんは微動だにせず、ただ彼を見つめているというのに。
 月の光をたよりに沈黙を続けること、どのくらいか。
 根負けしたように、鶯谷さんが語り始めた。
「つまり、ぼくが魔法を使えるようになった時期のことを話せと言うんだね? それを聞いて何になるかは知らないが――いいだろう」
 そこから彼は、自身が常々、笑いながらもその実怒りを抑えている人々、親切にしながら相手を裏切るタイミングをうかがっている人々、そんなものたちに疑問を抱いてきたことを話した。それについて知らんぷりですごす人々への不信も。本音をひた隠す世に対し、恐れを抱きながら、それでもなんとかやってこれたのだと言う。
 しかしある日、その我慢も決壊を迎えたのだとか。
「以前住んでいた家があるのだが、古くてね、改修することになったんだよ。ぼくはその家に妻と、小学生の娘と住んでいた。工事の関係で、一定期間は家の中で作業をする必要があり、改修のためだから仕方ないしね、ぼくは工事屋が娘の部屋に入ることを許したんだ。そしてある日――何気なく工事の様子をのぞいてみたら、どうだ。若い工事屋の男は、娘の部屋で、作業の合間に彼女の下着類の入ったタンスをあさっていたんだよ。あさるだけじゃない。彼女の下着を自分のおぞましいいちもつにこすりつけたり、舐めまわしたりしていた――なあ、仕事に就くからには、客の信頼を裏切るような行為は控えるべきではないのか? 自らの欲望だの、私情だの、捨てて作業に徹するのが正しい姿なのでは? だけどぼくは思ったよ、いかに仕事といえど、『我』を捨て去ることは不可能なのではないかと。ならば、おぞましい私情など、他人に言えない裏側など、そもそもなければいいのではないか? 隠すべきものなど、初めからなければ平和なのではないか?」
 その後工事屋ともめただとか、事件の最中妻と不仲になっただとか、そんな中出会ったハル子さんが自分の思い通りになることに気づき、自らの魔法の才能を自覚したのだとか――そんなことは聞かなかったが、たぶんそういうことなのだろうな、と私は勝手に想像する。
 想像して、溜め息をついた。
「あぁ、鶯谷さん。あなたは――本当の意味で、魔法使いだったんですね」
 え、と鶯谷さんが短く息を漏らす。
 私はそれにまた嘆息して、肩をすくめて言ってやるのだ。
「あなたは単純に、いくつになっても人の隠された悪意だとか意図だとか、包み隠した裏側を受け入れることができなかったんだ。世間のお約束に納得できないまま、大人になっちゃったんだ。自分を裏切ったりしない、お人形に憧れて。三十過ぎて――魔法使いになっちゃったんですね」
「きみは、何を」
「私ごとき若輩者が申し上げるのもなんですけど、はっきり言ってあげますよ。あなたがどれだけあがいても、世界からおぞましい裏側なんてなくなりません。あなたは魔法使いだけど、魔法なんて使えないです」
「何を言ってるんだ。ハル子を見ろ」
 彼は一瞬だけ爪を噛んでから、安心を求めるように、隣に寄り添うハル子さんを向いた。私もそちらへ視線をスライドさせる。
 人形のようにすましているように見える、ハル子さん――
「ハル子は、魔法にかかっているんだ。だから何の隠しごともなく、ぼくに従って」
「ハル子さんこそ裏の思惑だらけじゃないですか」
 ぴくり、とハル子さんが眉根を寄せかけた。
 だけど、鶯谷さんが見ているのだ。彼女を操り人形だと信じて疑わない鶯谷さんが。そうである限り、彼女は反応することもできない。私はそれを知っているからこそ、好き勝手言うことができる。
「ハル子さんは魔法にかかっているわけでも何でもありませんよ。ただ、あなたの操り人形のふりをしていれば――どんな命令にも従っていれば、あなたは彼女に依存し続ける。どんな酷いことでもこなしていけば、あなたは彼女により強く執着するようになる。それが彼女の狙いです」
「な――」
 おそらく。ハル子さんは自分を思い通りにしたがる人間を求めていたのだろう。何があったかは知らないけれど、きっと世の理不尽を味わわされて。
「あなたがいない時に聞いた限りでは、ハル子さんは世の中の理不尽もおぞましいものも、共感できなくても受け入れている人間でしたよ。そして自分もそういうものを抱えていることを、わかっている。あなたの理想とは違うんですよ」
 そこまで言い放ったところで、ハル子さんが一歩私に近寄った。あきらかに、眉を吊り上げて。
 そして自分でそれに気づいた瞬間、バッと、焦ったように口をふさいだ。
 そこまでしてしまえば、鶯谷さんが気づくには十分だったろう。
「ハル子……?」
「っ」
 ハル子さんは何も言えない。
 ただ、何も思わないわけではない。それを、鶯谷さんも知ってしまった。
「ハル子、きみは」
 ハル子さんは呆然と立ち尽くしている。感情も裏もない人形としてではなく、思惑を知られ困惑する人間として。
 鶯谷さんが崩壊するのはすぐだった。
「うあ、あ――――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 彼はその場で頭を抱えてうずくまり、気が遠くなるような時間、呻き続けた。
 そうして。
 声も枯れつくしたところで幽霊のごとく立ち上がり、ふらふらと、台所へと向かっていく。そこから包丁を取り出し、その切っ先をハル子さんに向けた。
 ふしゅー、ふしゅー、と獣のような息を出す鶯谷さん。
 そんな彼を、ハル子さんはただ見ている。
 ただただ、見つめている。
「ふっ、ふ――」
 彼女の顔をしっかりと目に入れた瞬間、彼の動きは止まった。
 ハル子さんが微動だにしないのは、彼の魔法とやらが効いていて逆らうことがないからか。
 それとも、彼に逆らわないことで、自らの支配欲を満たすという目的があるからか。
 どちらが正解なのかわからなくて、彼は足を止める。動くことはできない。磔にされた魔法使い。
「……それでは、この辺で」
 もはや私が知るべきところではないだろう。
 哀れな魔法使いと操り人形の行く末を見守ることなく、私は無垢を求めた世界を後にした。

×   ×   ×   ×

「例えば道で隣を歩く知らない人が女子高生犯すことばっかり考えてて、私をそういう目で見ている可能性もあるわけです。何かのきっかけでそういう裏の顔にその人が支配されちゃって、私が強姦されるかもしれない。世界は人に言えない隠しごとと、たまたまそれに巻き込まれる理不尽と、それを無視するふりの人々でいっぱいです」
「……とりあえず、秋野。きみはどうして、鶯谷という男に、自分が男だなんて嘘をついた?」
 仁先生のどこか的外れな質問に、私は肩をすくめて答える。
「特に裏も意図もないです」
 強いて言えば、鶯谷さんの目的が完全なる飼育方面だったら癪だから、といったところか。要は単なるハッタリだが、それに引っかかる鶯谷さんは徹底してないなぁ、と思う。徹底していない、あるいはあの人は、本当に人を信じたい無垢な人だったのか。
 仁先生は食べかけの弁当のふたを閉じてから、じっとりと私を見る。
「……こんな話をした、きみの真意は? 裏側は?」
 舐めまわすように。
 私の首筋を、薄い胸を、スカートの下の脚を、仁先生は見つめる。興味のないふりも、そろそろ飽きてきたのか。
「処女だと強姦致傷って、本当ですかね?」
「……じゃあ今回は、ただの強姦か」
 もしくは和姦? と、先生は口元を歪める。
 触手のようにゆらめく、細く長い指たち。あの日の影も重なって、指の数が増える。増えた幻想を私は抱く。
 あっという間に肩を掴まれ、私は床に押し倒された。弁当が床に無残に散らばる。
 天井を眺める。
 蛍光灯の一本が切れかかって、バツン、バツンと不規則に光を放っている。
 あの日はまだ、蛍光灯は完全についていた。学校で誰にも相手にされず、先生に泣きついたあの日。
 ――世界は、世の人は、裏側だらけだ。
 素知らぬ顔で触手に犯される妄想をしたり、他人につくすふりをして他人を支配したり、その他たくさんのおぞましい思惑。女子高生の身体目当てで教師になる人なんて、きっと珍しくもないのだろう。
 あぁ、世界は、終わってるな。
「……魔法が使えるのも、いいかもね」
 ぽそりと、掠れた声で独り言を呟く。
 たくさんの思惑を抱えた日常を、私は納得して生きているつもりになっている。大人になった気になって。
 きっとこの状況に甘んじている自分にも裏側があって、人知れずおぞましい心を飼い慣らしていて、素知らぬ顔で生きている。
 だけど、そう。「なーんか物足りねぇなぁ」
 理不尽なことも納得できて人並みに過ごしているけれど、それでは駄目だと心のどこかで思っている。世界を壊してやりたい。壊して壊して、作り直してやりたい。そんな願望に懐かしさを覚えてしまう。羨望とともに。
 魔法が使えて悪意も何も持たない、明るい人間だけ作り出せれば、平和に朗らかに、満足して生きることができるのだろうか?
 魔法使いを目指すべきか。
 魔法使いになれるのか。
 それが正しい道なのか。
 答えはわからぬまま、無機質な天井に終わる世界を見た。


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