倒立する塔の崩壊

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 誰かが言ったとおり、神がこの巨大な竪穴の存在にお気づきになったら、人は必ずや罰せられるだろう。それほどに不遜な行動なのだ。天の果てを目指すのと同じくらい、地の底へ到達しようというのは。
 いちばん下まで行くのに、今のところ十日ほどかかる。とはいえ、階段は竪穴の外縁を螺旋状に通っているものしかないため、直線距離ではその半分もないだろう。ただ、いちばん下まで行く者など掘削作業員しかいないし、掘り出した土石を地上へ運んだ疲れでその歩みは遅い。のろのろと下端を目指して行進する作業員達の姿は、しかし竪穴では神聖なものとして尊敬されてすらいる。

 竪穴であって、塔ではない。しかし、誰もがそれを塔と呼んでいた。外国の神話で語られる、神の手で倒された塔に準えているのは明らかだったし、それが不謹慎だということも認識はしていたのだが。でも彼らは自分たちの塔が「倒される」とは思ってもいなかったし、それと同時に祈りを欠かしたこともなかった。
 ハイノもそのひとりだ。輪学を学ぶ彼にとって、あの塔に起きた悲劇を諳んじることは今は亡き祖母の子守唄を思い出すより容易い。しかし彼は時に、竪穴に神の怒りたる稲妻が降るという冗談を友人たちと交わしすらする。神は異教徒になど興味を持たない。だからこそ、神を持たない輪学の信徒たるハイノたちを誅することはない。彼らがその行いによって罰せられることは、あくまで竪穴であるこの「塔」が折れて倒れてしまわないのと同様起こり得ないことなのだ。
 ハイノは塔の造成作業員ではない。塔の中ほど、第二八層に生まれた学生だ。今は第一五層にある王立大学校の寮に住んでいるが、五年前までは両親と一緒に暮らしていた。作業員の父と酌婦だった母、長じて酌婦になった妹。大学校に上がったハイノを除けば、塔では最もありふれた家族構成だ。
 塔は現在五五層まで完成している。今はちょうど第五六層の掘削にとりかかったところだとハイノの父親が酒を飲みながら言った。たまに地層から出てくるクルト石という鉱石をビールに沈めたクルテビールが、作業員たちのいちばんの楽しみだった。石炭よりは稀少だが、ルビーほど珍しくはない。だからクルト石は、それを掘り出した者に報酬として渡されることになっていた。
「五六層にはクルト石の鉱脈があってな、周りの奴らの目の色が違うんだ。俺もつい熱くなっちまった」
 クルト石は柔らかいから作業も早くなるし、と機嫌良く笑いながらアーガは言った。妻のカコも、その隣でコップを傾けている。二人のコップの底に、激しく泡を出す塊があった。クルト石だ。いつもは自分だけクルテビールを飲むアーガが、カコにもそれを許している。ここ五年間のことはほとんど知らないとはいえ、ハイノにとっては初めて見る光景だ。
 杯をあおるアーガの横には、一抱えもあるような大きなクルト鉱石があった。わざわざ荷車を借りて運んできたのだという。泡が収まるたびにアーガはその石を削って、直接ビールの中に落とす。
「そんなの、何がおいしいのさ?」
 そう皮肉げに言ってみても、お前にはまだわからんのだと取り合おうとしない。砂糖をたっぷり使った甘いドリンクばかり飲んでいるハイノを、アーガはまだ赤ん坊だと言うのだ。もちろん自分でも、少し子供じみているとは思うのだけれど。
「ただ――」アーガはふいにコップを置いて呟いた。「今掘ってる辺りに、やたらと空洞が多くてな。まだいきなり陥没したって話は聞かんが」
「空洞? 何で?」
「さあな。クルト石がそもそもそういうもんなのかも知れん。なんせ鉱脈なんて初めてだから、みんな戸惑っててな」
「ふうん」
 気をつけてねとカコが行った。その陥没にアーガが巻き込まれるかもしれない、などとは想像もしていないような笑顔だ。まあ確かに、とハイノは固いパンをかじりながら考える。アーガは悪運が強そうだから、そんな事故で死ぬとしたら一番最後だろう。他の作業員が死んでいるのを見て、祈りの言葉を呟きながら、慌てて逃げ出した足が地面を踏み抜いて落ちる。
 アーガが死んだらどうなるか――とハイノは不謹慎な想像をしてみる。子供を二人産んで既に塔民の義務を果たしているカコは、おそらくこのまま第二八層で暮らすだろう。カコの故郷の層で酌婦をしている妹のオルカや、大学校の学生として輪学を学ぶハイノは、アーガの子供というより塔の――輪の所有物だ。そう考えると、アーガの存在が失われるという以外に、自分たち家族の生活が変化することはないだろう。
「そんなことより、ハイノ、」
 アーガが突然神妙な表情を作って見せた。その右手は、左の二の腕に嵌められた輪をさすっている。造成作業員というアーガの身分を示すものだ。またか――とハイノはこっそりため息をつく。
「お前、いつになったら下に来るんだ?」
 下に来る――というのは、作業員になって、塔の掘削作業に就くことを指す。第二五層より下は地面が冷たく、生活環境はあまりよくはない。住んでいるのも、自分の家を持つことのできない貧しい者ばかりだ。男は十三歳で作業員に、女は十五歳で酌婦になるのが常識だった。ハイノの妹のオルカも、今はずっと下の層で酌婦をしている。家を出て以来一度も会ったことはない。ハイノを良くは思っていないらしく、帰省するときはいつも兄と違う時期を選ぶのだ。作業員の父と元酌婦の母、酌婦の妹。そんな家族が、十八歳になっても未だに学校に通って本ばかり読んでいるハイノを理解できるはずもない。
「まだだよ。年とって、頭働かなくなったら下りる」
 そんな日は来ないとハイノは確信していた。字も読めないまま死んでいく者がほとんどのこの層から、第一五層の大学に進学したという自負が彼にはあった。自分は絶対に彼らのようにはならないと思う確信は、意志や覚悟ではなく、単純な予測だった。
 ハイノの言葉に、アーガはふっと緊張を解いて笑顔を作った。クルテビールをひとくちあおいで、偉そうなこと言いやがってと笑う。カコは父親にそんなこと言うんじゃないよと笑った。――二人とも、機嫌がいいのだ。
 普段はそうではない。実家に帰るなりビールを――クルト石の入っていないビールを飲んだアーガに殴られることもあるし、第二八層の男の中でただ一人作業員として貢献しようとしないことをカコに罵られることもある。いつもなら週末は、第一五層に戻るのを楽しみに堪える時間でしかなかった。いつものやりとりを終えて満足したわけではないだろうが、アーガはカコ相手に愚痴をこぼしている。あいつは仕事はできるかも知れんが、人の取ったクルト石を横取りしやがるんだ。主任になって実際に作業できねえから、クルト石が欲しけりゃ買うしかねえんだな。うんうんと、カコは頷いている。以前にもそんな話をしていた気がする。彼らの暮らす第二八層は少なくとも、貧民層の中ではかなり上位に位置している。もちろん、実際には第二五層の「隔壁」より下はすべて下民として同一なのだが、それでも何となく、住んでいる層が若いほど――地上に近いほど上等だという意識は誰にでもあった。アーガは、自分より下層の者に従って働くのが気にくわないのだろう。ただクルト石が欲しいから我慢しているだけで。
「寝る」
 ハイノはぽつりと言って立ち上がった。ハイノから見ればもちろん、「隔壁」以下はすべて貧民なのだ。そうかそうかと言ってアーガは新しいクルト石をコップに放り込んだ。
「輪を描く安寧を」
「ああ、輪を描く安寧を」
 祈りの言葉を交わして、ハイノは自室に戻る。少なくとも自分たちは、家や部屋を持っている。そのことは感謝しなければならない。下層に行けば行くほど生活環境は悪化していくと聞いたことがある。空気は淀み冷え、より上層の者が使い捨てた毛布にくるまって寝る。昼夜を問わず続く掘削作業の音が反響し、舞い上がる埃はいつまでも落ちない。とても人の住める場所ではないのだという。前世にどんな悪事を働いたらそんなところに生まれてしまうのだろう。ハイノはしばし想像する。貧民層の生まれとはいえ、上層部の王立大学校に入校できた自分の前世はどんなものだったか。そこで何かしら善き行いをしたからこそ、自分は現在の境遇にあるのだ。「輪を描く安寧を」ハイノは祈りの言葉を囁いた。
 階下からは、アーガが何かを歌う声が聞こえてきた。作業員たちの間で歌い継がれてきたのだという、歌詞のない、単純な音節の組み合わせだ。岩盤に鶴橋を突き刺すとき、土砂を積んだ荷車で段差を超えるとき、作業中はいつも歌っているのだという。粉塵で削られた胴間声でアーガはがなり立てる。早めに引き上げてきて良かったとハイノは思った。すぐそばで聴いていると、まるで頭が割れるような気がするのだ。
 ハイノはペンダントを外して枕元に置いた。ペンダントの先には、三つの輪を組み合わせたモチーフが取り付けられている。大学校で学ぶ輪徒であることを示すものだ。ハイノはベッドに入り毛布をかぶった。ベッドとはいっても、岩を平たく削って、その上に毛布を二枚敷いただけのものだ。寝る時はその間に挟まって、履き潰した靴に端布を巻き付けた枕に頭を載せる。寮の柔らかい布団と枕を思いながらハイノは眠った。自分は確かに第二八層の出身だ。でも、第一五層の人間だ。彼はそう確信していた。
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