倒立する塔の崩壊

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 クルト鉱脈に大きな空洞が見つかった、という知らせをハイノが聞いたのは、それから二ヶ月後のことだった。そのときハイノは大学校にいた。一日の授業が全て終わって、いつも他の学生とたむろする学室の一つにいた。たまたまそのときはハイノ一人しかおらず、彼は所在なく一度読んだ本を読み返していた。
 大学校の何人かの教授にも協力の要請があったのだという。もっとも、輪学を専攻しているハイノには関係のないことだ。だからその話を友人から聞いたときにもさしたる興味はわかず、ただ相槌を打つためにそうなんだとだけ言った。
「でもな、」その噂を持ってきた友人のササクルが、悪戯っぽく声を低めて言った。下層貴族の出身ではあるが、同じ部屋で起居していることもあり、中層貴族ばかりの大学校の中では一番親近感が持てる相手だ。
「岩に穴が空いてたところで、大騒ぎするほどのことじゃないだろう? それがこんな噂になってるのは理由があってな、この話には続きがあるんだ」
 二人の身分に明らかな差があるにも関わらず気兼ねなく付き合えるのは、ササクルの性格のせいもある。自分の家柄や資産を鼻にかけることもないし、貴族に似つかわしくない性根を隠すこともない。ハイノにとっては、大学校で唯一気の置けない友人だ。
「その空洞が、少しずつ膨張してるらしい」
 新しく層を掘り始める際は、まず長い杭を地面に打ち込む。その杭を鎚で叩き、周囲の岩盤に裂け目を作り、その裂け目を広げて、人が入れるほどの大きな縦穴を掘る。これが下層に食料や水、新しい工具などの物資を運ぶリフトの通る穴になるのだ。その縦穴を中心に各階の部屋を作っていき、最後に外縁に階段を掘る。
 あるとき打ち込んだ杭の先端が空洞に達していた。その空洞は人が生活する部屋として使えるほど大きなものだったという。層の部屋は上から順に作るため、その空洞はしばらく手を加えられずに放置されていた。それから一週間ほど後、その空洞の周りを掘ろうとした作業員があることに気づいた。以前は背伸びすれば届くはずだった天井が、今では肩車してようやく届くというほど高くなっていたのだ。確認してみたが、発見されて以降この空洞に手を加えた者はいないという。結局、誰にも判断がつけられず、塔端の輪監が伝令として塔都へ発った。
「その輪監がこの層に泊まった時に話してたっていうから、確かな情報だ」
「膨張って――ありえないでしょ、そんなの。その作業員の間違いじゃないの?」
「いや、そうでもないらしい。その空洞をどうやって利用するか検討するために、高さとか広さとかの数値を測ってたらしいんだけど、それと比べたら二倍近くになってたそうだ。それに、塔都に伝令を送るっていうのがどういう意味を持つのか――お前も知ってるだろ」
 塔都――第零層には、塔における輪学の最高機関である輪殿がある。そこに知らせるということはつまり神に知らせるということだ。間違いは許されないし、間違えば厳重に罰せられる。それは輪の御前で嘘を吐いたということなのだ。たとえその他にどのような優れた行いをしても、最下層の人間として来世を迎えることは確実だし、あるいは来世が訪れることすらないかも知れない。塔都への伝令の誤謬はそれほどの不敬だ。
「それなら――でも、なんで? そういうものじゃないでしょ、岩石って」
「それはもちろん。だから塔都にお伺いを立ててるんだ」
「ふうん」
 上層から、祈りの時を告げる「囁き」が伝わってきた。全身を撫でさするような囁き声がさわさわと下りてくる。囁きは輻輳し共鳴し、いつの間にか二人の身体を包み込んでいる。二人のところにも、見覚えのある学生がやってきて、祈りの言葉を呟いた。
「おい、ハイノ、行こう」
「うん」
 祈りの言葉を返して、二人は立ち上がった。時を伝える人を探さなければならない。
 異教においては、こういうとき鐘という大きな楽器を鳴らすのだそうだ。ハイノも資料で絵を見たことがある。紡錘をはんぶんに切ったような形だ。それを一度鳴らせば、周囲数十キロまで音が響き渡るという。しかし地下でその方式をとると、音が内壁に反響し増幅され、最後は耳をつんざく轟音にまで成長してしまうだろう。だから塔の中では、鐘の代わりに「囁き」を伝えることで時が告げられる。祈るべき時が来たことを、口伝えに最下層まで伝えていくのだ。
 二人が今いるのは、第一五層の八階だ。地上にある教会から「囁き」が発されてから、実際にはもう随分経っているのだろう。こうした在り方は、あるいは本来的ではないのかもしれない。鐘を使って、輪の中で暮らすべての人に祈るべき時を与える、その方が効率的ではあったし、同時に捧げられた祈りは地下で打ち鳴らす鐘の音のように共鳴し、より大きなものとなるだろう。
 でもそれじゃあ、とハイノは思う。鐘を鳴らす人からは、それを聞いている人が何人いるかどこにいるか、何もわからないじゃないか。それがつまり、異教がいかに一方向的なものだったかを表している。神殿なり司祭なり、神の側に立つものが恩恵を与え、そして信仰者はそれをただ享受する。そのプロセスはまるで排泄だ。神が垂れ流した恩恵を衆生はただ受け止める。そして腕を組んでありがとうございますと拝謝する。
 我ながら趣味が悪い――。ハイノは心の中で輪に頭を垂れた。たとえ些細であっても、こういった日々の小さな不敬が積み重なって、来世に帰ってくるのだ。実家に下りた時に見る、貧民達の、そして自分の両親の落ちくぼんだ眼をハイノは思い出す。ただ岩を砕き身体を売る日々の暮らしに喘ぎながら、せめて来世は上層に生まれたいと願い、罪を犯さぬようびくびくしながら、与えられた運命に忠実に生きる。ハイノのように自力で上を目指す意志の強さのない者にとっては、来世への希望だけが生きる支えなのかもしれない。
「輪を描く安寧を」
「輪を描く安寧を」
 二人は、隣の学室にいた研究生に「囁き」を伝えた。研究生は頷いて部屋を出て行く。彼が飲んでいたものなのだろう、テーブルに置かれていたコップの底で、クルト石が泡を吹き出していた。ビールではなく、通常の飲料にクルト石を入れ、疑似発泡酒にしていたらしい。
「入れたばかりだったみたいだな」
「悪いことしたね」
「ま、俺たちのせいじゃないさ」
 研究生は次の人を探すのに手間取っているのか、なかなか戻ってこない。その間に、クルト石は泡を出し終えて静かになった。そうなってしまうとただ浅黄の水の底に黒ずんだ塊が沈んでいるだけで、少なくとも美味しそうには見えない。
「こうして見ると、クルト石って汚いな」
「まあ、石だからね。うちの父もさ、好きなんだよ、クルテビール」
「ああ、よく言うよな、土竜の飲み物――と、失敬」
「いいよ」
 土竜、というその言葉にはたぶん、ハイノはもちろん、アーガたち造成作業員への悪意などはない。塔を下に向かって伸ばす。それは神聖な行いだ。そして、それを担う作業員が聖職であることも間違いない。でも――地面を掘りそこを人の住みよいように整えるその生き方は、まるで土竜のようだ。だから、とくに貴族の間では、「土竜」とは作業員を指す符牒だった。土竜がただ地面を掘り蚯蚓を喰らうだけの盲の動物であることは誰もが知っていたが、地面を掘るという一点だけに託して作業員を土竜と呼ぶ。何かを見るということは何かを見ないということで、ハイノはその不完全さが嫌いではなかった。
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