倒立する塔の崩壊

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 案の定、戻ってきた学生はひとくちも飲まずに飲料を捨ててしまった。棚から新しい瓶を出して注ぎ、またクルト石を落とす。二人は祈りの言葉をその学生と交換して学室を出た。
「あんなの飲む人、こっちにもいるんだね」
「そりゃ、好きな奴は好きだろうな。俺も子供の頃よく飲まされた」
「そうなの?」
「ああ、安いし派手だし、下層貴族の子供は大抵飲んでる。もっと上のことはわからんが。普通はすぐに目もくれなくなるもんだけどな」
 二人はさっきまでいた学室に戻った。待ちくたびれていたのか、それとも何か用事があるのか、二人の元に囁きを伝えてきた学生はいらだった様子で祈りの言葉を言ってすぐに出て行ってしまった。
「安寧が足りないな」
「ササクルはすぐそういうことを言う」
「まあ、性格だ」
「それじゃ社交界でやってけないよ」
「いいんだ、そういうのは兄貴に任せた。あいつは人当たりもいいし、一族養ってくくらい簡単だろう。俺は卒業したらその脛かじって悠々暮らす。まあ仲は悪いが、そのくらいはしてくれるだろ」
 ササクルはそう言って、左の耳たぶをつまんだ。そこには銀のイヤリングがひとつついていた。貴族という彼の身分を表すものだ。一つなら下層貴族、二つなら中層貴族、三つあれば上層貴族。階層を表す明確な印を身体に纏うのは、それだけ塔の中が厳密な身分社会であることを示している。ハイノは無意識に自分の二の腕に手を伸ばした。
「この大学校に入ったんだ、少なくとも生まれた層より下には送られないさ」
 ササクルは、下層とはいえ貴族の子息なのだ。さらに大学校では、塔の根幹に関わる輪学を専攻している。野心的になりさえすれば、上層貴族のさらに上、あるいは第零層にすら到達できるだろう。それだけに、貧民層の出身で、どう頑張ったところでこの大学校のある第十五層より上には上がれないハイノから見ると歯がゆいものがある。いくら意欲があっても、下層民と上層民の間には、越えられない隔壁がある。輪の中に在るすべての塔民は平等だ。それなのに、明確な差がある。
「ただ――輪監に選ばれたら、別だけどな」
「そうだね。でも、滅多に選ばれないでしょ、前任が死なない限り」
「ま、それもそうか」
 全五五層あるこの塔では、第零層――地上階に塔主の住まう輪殿がある。そしてその下に、上層、中層、下層の各貴族や大学校などが続く。第二五層の「隔壁」――貴族層と貧民層を分ける関の下は、区分上はすべて貧民としてひとまとまりになっているが、実質はやはり、上層に住んでいる者ほど生活水準は高く、よって身分――掘削作業員としての身分に過ぎないが――も高い。そしてそれらの塔民たちを統率するのが、各層に一人ずつ配属されている輪監たちだ。
「でもさ、輪監になれば、何の作業もしなくていいし、社交界なんて面倒なこともない。輪の中で塔民たちが輪監に逆らうはずないし、悠々とのんびりと暮らせるのは間違いないよ」
「ま、そうかもしれんけど。確かに、輪学に人生も人格もすべて捧げるのは尊敬できる。でも、俺はササクルだ。輪のために自分を失うのは――嫌だ」ペンダントをいじりながら、ササクルはそう断言した。
 輪監の役割は、各層の塔民の統制や、配給食糧の分配、陳情の受理など多岐にわたるが、そのなかでも最も重要とされるのが信仰の統率だ。囁きでもって行われる祈りを一つの大きな声にとりまとめ、輪の流れに載せるのだ。
 輪学の実現に身を捧げるその生活は、まさに清貧の極みだ。貧民と同じものを身につけ、同じものを食べる。それは現世で可能な限り徳を積んで、来世さらに高い身分に生まれることにも繋がる。輪学のために何かを犠牲にすることは尊いこととされている。輪学を学ぶことに時間を費やすことは徳であり、塔民の啓蒙のために靴をすり減らすことは徳であった。彼らは時間を、あるいは衣服を、輪学に捧げたのだと言える。
 そして輪監が聖人と言われるのは、人格すら輪学のために捧げることによる。ササクルが「輪のために自分を失う」と言ったのはまさにそのことだ。どの層においても、輪監は輪学を全てに優先する。例え病みついて死に瀕していようと、囁きが伝わればそれをだれかに伝えるために立ち上がるし、その口は常に祈りの言葉を囁いている。輪学のために仕事をし、輪学のために余暇を捧げる。
 彼らがそこまでの信仰心を得るのは、元々熱心な輪徒だったということもあるだろうが、それ以上に輪監になるために受ける教育によるところが大きいとされる。一週間程度の短い期間ではあるが、第零層の輪殿に寄宿し、輪皇から直々に教育を受ける。そして、修業期間を終えた者はまさに生まれ変わったかのように人格が変わってしまうという。
 だからこそササクルはこれほどまでに輪監を拒否するのだろう。本来であれば、輪監は、輪学にいて限りなく頂上近くに位置する、極めて価値の高い役職なのだ。貧民出身のハイノはおそらく現世では輪監になることはできないが、学友のほとんどは輪監になることを目標にしていた。
「囁き」の輻輳がゆっくりと引いていく。いつの間にか始まって、やがて耳から脳、全身に充満し、常態化するのを待っていたかのようにゆるやかに静まる。「囁き」は至極スムーズに行われる。打撃音でもって周囲に時を知らしめる鐘とは違うのだ。
「――やめよう、この話」
「そうだね、どっちにしろ、僕たちは下層者だし」
「ああ。よほどのことがない限り、輪監になんてなれない」
 二人は立ち上がった。諍いは罪だ。認識こそ違えど、二人ともそのことは理解している。
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