倒立する塔の崩壊

back | top | next

 アーガは苛立っていた。
 自分でも投げやりだとわかる声で歌いながら、乱雑につるはしを振り下ろす。それが輪に対する不敬であり、あるいは来世での生まれに差し障るということは理解していたけれど、それでも苛立ちを抑えることはできない。濁った音と共に、つるはしの刃が半分ほど地中に埋まった。今は部屋を拡張する段階だから、形など気にせずただ掘り広げればいい。歌の節に合わせて、強いてリズムを守りながらつるはしを振るう。いくつもの穴を穿ったところで、大槌でその周りを叩くと、岩盤が砕けて剥落する。砕けた岩を台車に載せて、邪魔にならないところに積み上げる。ある程度までそれが溜まると、作業用のリフトの所まで運ぶ。二十年以上、毎日のように続けてきた作業だ。怪我をしないように気をつける必要はあるけれど、余計なことを考える隙間はいくらでもある。その隙間をいっぱいに使って、アーガは苛立っていた。
 もう三日もビールを飲んでいない。クルテビールに至っては、最後に飲んでからそろそろ五日経つ。ビールやクルト石に中毒性があるとは聞いていたが、まさかこれほどとは思っていなかった。つるはしと岩がぶつかる音はクルト石を鑿で砕く音に聞こえる。立ち上る粉塵はコップの底から湧き上がる泡に見える。仲間の声は家に帰るたびに嫌みをぶつけてくる息子の声に聞こえる。気晴らしに抱く酌婦はコップにビールを注ぐ妻の顔をしている。
 考えごとをしていたせいで、振り下ろしたつるはしが狙いを外れた。斜めに入ったつるはしは岩の上を滑って、アーガの足のすぐ側に穴を穿つ。砕けた石がぶつかった足が少し赤く腫れる。アーガは舌を打った。
 彼の住居は第二八層にあって、現在造成作業をしている第五六層までは片道だけでも三日はかかってしまう。だから当然作業員宿舎――といっても層の最上階の広場に毛布を敷いただけだ――に泊まっている。そしてこの宿舎では、水も食料もビールも、全てが配給でまかなわれている。
 食料や水はいい。一日に三度の食事は保障されているし、欲張りさえしなければ渇かないだけの水ももらえる。しかしビールは違う。塔の外で作られたビールは貴重品で、それを揺らさずに塔端まで運ぶのはデリケートな仕事だから、一人一人に支給される量は少ない。しかもビールは水と違って、飲む者に欲張ることを強いる。
 それでも今までは、ある程度の計画を立てて飲むことが出来ていたし、時にはクルト石と交換で同僚からビールを買うこともできた。でも最近――空洞が膨張している、ということが判って以来、その計画を守ることが出来ないでいる。飲まなくては――岩に空いた穴のことなんてどうでもいい、そう思えるほどに酩酊してからでなくては眠れなくなってしまったのだ。クルト鉱脈に当たってから半月、今や誰もひとかけらのクルト石になど目もくれないから、ビールを手に入れる術はない。
 伝令が地上に向かって出発してからそろそろ一週間が経つ。今頃は第一五層辺りに着いているだろう。あまり空洞のことを漏らすなと厳命されてはいたが、各層の輪監に歓待を受けて、酔った勢いで口を滑らさないとも限らない。伝令になりたかったな――と、アルコールを欲したアーガの脳が考える。もっとも、塔端から塔都への伝令などと役職は、上層貴族である塔端の輪監にしか勤まらない役割であって、ただの作業員に過ぎないアーガの出る幕ではない。それは理解しているのだけれど。
 ああそうだ、一五層にはハイノがいるんだ。そう思いついて、息子より酒のことを気にかけていた自分に苦笑する。落ち着かなければ。ビールは週に一度配給されるから、明後日には飲める。それまでの我慢だ。
 そう言い聞かせて、アーガはもう一度つるはしを構えた。仕事を続けなければならない。自分たちは塔を少しでも下に伸ばすことで塔都に生活を保障されている。それを裏切るのは、とりもなおさず輪から逸れることでもある。来世こそは貴族に生まれたい。第二八層の住人であるアーガにとって、それは現実的な目標だ。そのためにも、現世で着実に徳を積み重ねなければならない。そうだ、苛立っている場合ではないのだ。でも。
 空洞が膨張している。そのことを知った瞬間、アーガは言いようのない不安に襲われた。同僚たちは掘る手間が減っていいじゃないかなどと言っていたが、彼にはそんな楽観的な考え方はできなかった。
 大地は揺るがないもののはずだった。大地が決して崩れない確固たるものだからこそ、人間はその中で生きることができる。大地がその頑丈さでもって覆い隠すものを見たいからこそ、彼らは下へ向かってつるはしを振るう。その前提が、揺らいでしまった。
 輪監が伝令に発った以降も、そちこちから空洞は見つかっていた。膨張するものもあれば、しないものもあった。仕事が早く済んでいい、と仲間は言っていた。しかしそれは、塔が伸びる速度が速まったというだけで、彼らのやるべきことや徒労が軽減されるわけではない。ただ彼らと土竜だけが担っていた地面を掘るという意義が薄れただけだ。
 例えばこの空洞の膨張を起こしている力の源を知ることができたら、その力をコントロールし下へ向けることができたら、自分たち造成作業員の仕事はただ生まれた空洞を整形するだけのものになってしまう。学のないアーガでも、異教の塔に起きた悲劇は知っている。それでも塔を作り下を目指すのは、それが神聖な行為だと信じているからだ。
「人衆死して深淵に降り、輪を描きて後甦生りぬ」
 アーガは輪典記の一節を諳んじた。その深淵を見出すのがこの塔の目的だとアーガは信じている。
 下へ行くのだ。大学校の先生が来れば、すぐに空洞の謎を解き明かしてくれる。クルト鉱脈を越えれば、空洞に悩まされることもないだろうし、以前のようにクルト石を取引に使うことができる。そうすれば全部元通りだ。自分たちが一部の貴族に土竜と呼ばれていることは、アーガも知っていた。時にその言葉の影に侮蔑が混じっていることも。そしてそれを受け入れていた。ただ地面を掘る、その行為は土竜に準えられても当然だろうし、土に汚れたぼろきれを纏って汗にまみれる姿はお世辞にも上品とは言えない。でも、自分たちは深淵に最も近い場所にいるのだ。その事実だけで、たとえ土竜と蔑まれても受け入れることができる。もちろん、その見返りとして、ビールやクルト石はありがたくいただくけれど。
 アーガはつるはしを振り上げる。いつの間にか黙っていたことに気づいて、歌い始める。掘り始めたばかりの空間に、アーガの割れた声が響く。ハイノなどは耳障りだというこの声も、アーガにとっては塔を作るための粉塵に鍛えられた自慢の声だ。
「アーガさん、」後ろから誰かが話しかけてきた。振り向くと、手に持った灯りに照らされて仲のいい後輩のロンシの顔が浮かんでいる。どうしたと問うと、ロンシは祈りの言葉の後に短く飯っすと続けた。気づけば、いつの間にか昼の「囁き」が辺りに充満している。アーガは最後の一押しとつるはしを振り下ろしてから、振り返って祈りの言葉を返した。
 新しい層を作るとき、地盤の状態によるが、十程度の階を作る。まず一番上の階を、中央のリフト穴から放射状に作り、それが完成したら次の階に取りかかる。食事はいつも、その層の一番上の階に集まって摂ることになっていた。二人は外縁の階段を上る。
「そういえば、どうだ? お前の所では、空洞は出たか?」
 最近ではこれが作業員同士の挨拶になっていた。アーガ自身が空洞を掘り当てたことはないが、一日に一人は誰かが頷く。
「ええ。ついさっき。俺は初めてですけど、何て言うか――恐ろしいです」
「恐ろしい?」
「俺はそのとき、新しく横方向に掘り進めようとしてたんです。だから壁に、できるだけ深くつるはしを刺そうとしてた。だから力一杯振って――そしたら、もうその壁のちょっと向こうに空洞があったんですね、ほとんど何の手応えもなく壁が崩れて。勢いあまってつるはしが飛んでったんです。いや、飛んでったっていうか吸い込まれるみたいに消えちゃったんです。それが、恐ろしい、そんな感じで、」
 そのときの手応えを思い出したのか、ロンシは裸の腕をさすった。そういえば、紛失しないように休憩の時も常に持ち歩くことになっているつるはしを、彼は持っていない。
「それじゃお前、つるはしなくしたのか?」
「ええ。まあもちろん飯食ったら探しますけど、あの空洞に入るのか、って思うと――」
「それ、俺も付き合うか?」
「え?」ロンシは呆気にとられたような顔でアーガを見返す。
「つるはし探すの。一人じゃ大変だろ」
「――どうしたんすか? そんな優しいアーガさん気味悪いっすよ」
「うるせ」
 アーガはロンシを一発殴る。でもありがたいっすとロンシが言ったとき、ようやく一番上の階に着いた。
back | top | next
inserted by FC2 system inserted by FC2 system inserted by FC2 system