倒立する塔の崩壊

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 食事を早めに終えて、アーガとロンシは再び作業中の階に戻る。休憩時間が終わる前に立った二人を見て、同僚がからかうような声を上げた。
「そんなに頑張んなくても、クルト石は腐るほど取れるだろ」
「放っとけ。休もうと休むまいと俺らの勝手だろ」
「ま、そりゃそうだ。掘るのが好きなら邪魔しねえよ」
 無理しすぎて身体壊すなよという声を背に、二人は階段に向かう。
 ロンシが作業していたのは、アーガの場所からリフトを挟んで反対側だった。見てみると、確かに、奥の岩壁にぽっかりと大きな穴が空いていて、その向こうは真っ暗で何も見えない。そして人が入れるような大きな穴が空いているというのに、その下に散らばった岩くずは驚くほど少ない。それほどに空洞は近くまで迫っていたのだろう。
「なるほど、こりゃかなり深いな」
 そうなんすよとロンシは頷いた。
「どうだ、ロンシ。掘り当てたときと比べて、広がってるか?」
「わからんですよ、さすがにそれは。まだ一時間も経ってないし、」
「それもそうか」
 アーガは灯りを持った手をその空洞の中に入れた。できるだけ奥まで突っ込んでも、何も見えない。奥の壁や天井はともかく、底すら見えないことに気づいてアーガはそら恐ろしくなった。
「こりゃ――深いな」
「ええ。だから恐くて」
「どんくらい深いかわかるか?」
 さあ、とロンシは首を振る。アーガは握り拳くらいの石を拾って、穴の中に放った。
 それとほぼ同時に、後ろからいきなり胴間声が聞こえた。アーガは思わず身を震わせる。その声は仲間たちの歌だった。休憩を終えて、作業を再開したのだ。そのせいで、石が落ちる音は聞こえなかった。
「どうすっかな」
「それより、アーガさんもそろそろ作業に戻らないと。ノルマあるでしょ」
「俺はいいんだよ、古株だから」
「そういうもんっすかね」
 ロンシは曖昧な表情で笑った。自分より年上のアーガを、主任が扱いかねているのはアーガ自身も知っていた。
「それより、お前のつるはし探さないと。どうする、入ってみるか?」
「この中にっすか? おっかねえなぁ」
「お前が雑なやり方するからだろうが。しっかり握って、丁寧に打ち込んでやりゃ、勝手に飛んでったりはしねえよ」
「そりゃ、そうっすけど」ロンシは何か言いたげな顔でそう呟いた。
「なんだ、お前だって雑だろってか?」
「え? いえ、そうじゃなくて、――だからこそ気味悪いんすよ。そりゃ、力一杯やったのは間違いないし、それは反省してますけど。でも――いくら俺でも、すっぽ抜けるようなヘマはしないっすよ。まして見えないくらい遠くまで飛ばすなんて」
「そりゃ――」
 それはその通りだとアーガも思う。アーガほど長くはないとはいえ、ロンシも造成作業員の一員だ。道具の重要さは知っているし、その取り扱いはむしろ平均より丁寧だ。そしてそれを教えたのは他ならぬアーガだ。第二六層という、作業員の中では最上層の出身のロンシを、最年長だからという理由で押しつけられたのだ。ロンシは憶えは悪かったが、生まれのせいか仕事は丁寧で、教えながら少し張り合いがなかったのを憶えている。
 そして何より、上層の生まれだからか、アーガ以上に信仰心が篤い。そのロンシが、塔内で神聖視されているつるはしを、事故とはいえ紛失するとは考えられないのだ。
「あの時は――そう、さっきもちょっと言ったけど、吸い込まれるみたいな、そんな感じだったんです。一日中働いてて、握力がなくなって、どんだけ力んでも全然力入んないときあるでしょ? そんな感じで。自分の握力より、下に落ちる力のが強くてつるはし落とした、みたいな感じでつるはし持ってかれた、そんな感覚なんです。何か――何かの力が働いてて」
 アーガはその感覚を想像しようとして、よく解らなかったのでとりあえず、「何言ってんだ」とロンシを小突いた。
 アーガはリフト脇の工具置き場まで行って、一番長いロープを持ってきた。輪が身体を締め付けないように八の字に結んで、身体に巻き付ける。力を込めて引っ張ってもほどけないのを確認して、端をロンシに持たせた。
「大丈夫かなあ、アーガさん重いから」
「仕方ねえだろ、結ぶとこないんだから。俺が代わりに行ってやるんだから、うだうだ言うんじゃねえよ。何ならお前が行くか?」
「や、それは、あの、ほら、もう結んじゃったし、」
 怖えなら黙って持ってろとアーガは言って、穴の縁に坐った。重心を穴のこちら側に残したまま出来るだけ足を伸ばしてみるが、やはり地面には触れない。不安に思わず呼吸が荒くなる。
「だ、大丈夫っすか」震える声でロンシが訊いてくる。強いて冷静になってアーガは、さっきから自分の呼吸音がまったく反響していないことに気づいた。それだけ大きな空洞だということだろうか。
 ふと思いついて、腹に力を込めて叫んでみる。うわっと後ろから悲鳴が聞こえた以外、なんの反響も帰ってこない。普通の喋り声でも、この塔の中では何の反響も起こらないことはありえない。強いて小さな声を出さない限りは、必ずわずかな余韻を残してから消える。しかしそれすらもなかった。あるいはひとつ上の層まで届こうかという叫びが、暗闇に呑み込まれてしまった。この穴の中には静寂よりさらに静かな静寂があった。自身の荒い息、ロンシの震える声、仲間たちが遠くで作業する音や歌。そういうものがなければ、その暗い静寂はアーガの耳から身体に入り込んで全身を黒く静かに染め上げる。アーガの叫び声も、そんな風にして殺されてしまったのだろう。
「なんだ――ここ」
「なんだはこっちですよ。何すか、いきなり叫んで。情緒不安定なんすか?」
 うるせえなあとアーガは振り向いた。叫びを聞きつけた仲間が来ようとするのを、ロンシが止めているのが見える。一人で考えている間にふと思いついて、戻ってきたロンシにアーガは言った。
「お前、つるはしはもう諦めろ」
「ええっ、嫌っすよ。家族が下ろされるじゃないっすか」
 人衆死シテ深淵ニ降リ、輪ヲ描キテ後甦生リヌ。それは輪学の根本的な概念だ。塔を掘り下げるというのはつまり、深淵を求めることだ。死んだ人の魂が降る先、生まれる前の魂が眠る場所。異教の塔が神の住む場所を目指して建てられたように、この塔も深淵を目指している。その探求を担っているからこそ作業員は尊重されるし、彼ら自身そのことに誇りを抱いている。そして、そうした意味で、塔を掘り進めるためのつるはしは宗教的な価値を持っている。つるはしは人々を深淵に導くトーチなのだ。
 それだけに、つるはしを紛失することは不敬にも値する。ロンシがつるはしを紛失した、という事実は、塔都まで報告され、ロンシの地位を下げることになる。造成作業員という身分こそ変わらないが、家族の住む場所が、より環境の悪い方に――下に移されるのだ。
 こいつは結婚したばっかだったな――とアーガはロンシの悲痛な表情を見ながら考えた。妻はかつての最下層――第五三層の酌婦だったと聞いた。そこから第二六層へ一気に上がれた喜びはさぞ大きかっただろう。アーガは妊娠が判って結婚したときのカコを思い出す。子供が出来たことよりも、第二八層という上層に移れたことや、地面の温かさの方を喜んでいた。ましてや第二六層は作業員の家族として最上層にあるのだ。そこから下ろされる屈辱は、アーガには想像もつかない。
 アーガは聞こえよがしにため息をついた。
「仕方ねえなあ」
「あ、アーガさん、それじゃ、」
「ビール、余ってるか?」
「え」
「いやあ、俺、ビール全部飲んじまってなぁ、ああ、次の配給は明後日かぁ、それまでビールなしは辛いなあ、」
「う」
「まあ他人の家族が下がろうがどうしようか俺には関係ないしなあ、ノルマこなさないといけないしなあ、そろそろ作業に戻るかなあ、」
「わかった、わかりましたよ!」ロンシが何だか泣きそうな顔で言った。
「ビールあげます。でも俺もあと二日ビール抜きはきついんで、半分でいいっすか?」
「ああ、何でもいい。クルト石はいらんぞ、売るほど持ってるから」
「や、それは俺もっすよ」
 交渉成立、と拳を突き合わせる。これで今夜はよく眠れる、とにやつきながら、アーガはもう一度穴に身体を向けた。つるはしを交渉の対象にすることはもしかして不敬に当たるのだろうかと考えながら、ロープがしっかり身体に巻き付いていることを確認する。
「行くぞ」
「は、はい」
「いいな、しっかり持ってろよ」
 そう言いつけると、ロンシはロープを自分の身体と掌に何度も巻き付けた。これで、ロンシの腕力が続く限りアーガが空洞に落ちてしまうことはない。アーガは頷いて、穴の中に身を乗り出した。これほど大きな空洞なら、場所によって地面の温度や、縦に長い場合は圧力に差が出て、風が生じるはずだ。でもその風もない。ただ何だか吸引力を感じるのは、真っ黒な闇だからだろう。アーガは座っていた岩に手頃な出っ張りを見つけて、何度か力を入れてみて崩れないことを確認した。
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