マインド・マインド -mind mined-

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『中森翼くんへ
 あなたに伝えたいことはたくさんあるのですが、その前に一つお願いがあります。
 今すぐ、この学校を出て行ってもらえませんか? 
 これから私は、この教室を爆破します』

† † † † † †

「ねえ、どうして怒らないんですか」
 彼女――青崎キララさんの声を初めて聞いたのは確かその時だったと思う。彼女、始業式の日は欠席していたから、自己紹介もしていないので。
「……何が?」
 廊下で突然話し掛けられて、けれど僕は特に驚くこともなく、短い返事をした。
「さっき、教室で。瀬川さん? でしたっけ。あの人、『翼』って気持ち悪い字だとか……失礼なこと、言ってたでしょう」
 青崎さんは眼鏡の奥の瞳を鋭くして、何だか酷く、憤慨している様子だった。けれどもその内容は、僕にとっては大したことじゃなかった。
「ああ、別に」
 自分でも、『翼』という字は実に不気味な形をしているなー、と、何とはなしに思っていたのだ。だから、裕香――つまり、青崎さんの言う瀬川さん――に指摘されても、今更だな、くらいのことしか感じなかった。
「でも、あなたの名前でしょう。私、人の名前を馬鹿にするのって、最低だと思います」
 僕とは対照的に、青崎さんは随分と気に障ったらしい。特に僕と交流があったわけでもないのに、どうして彼女はこんな、他人のことで怒るのだろうか。
 心底わからずに首を傾げていると、青崎さんは「もういいです」と不機嫌な顔を背け、そのままどこかへ小走りに行ってしまった。

† † † † † †

『どうして私がこのような行為に至ったのか、あなたには知ってもらった方がいい――いえ、知って欲しいと思い、このような手紙を書いた次第です。
 あなたは既に知っていると思いますが、私は常々、周りの無神経が許せずにいました。些細な言葉で他人を傷つけたりする姿に、堪え難い不満を感じていたのです。どうして言葉を発する前に、もっと考えないのでしょうか。常々、自分に向けられた言葉、そして他人に向けられた言葉に対しても、私は苛々していました。また、そんな無神経を投げつけられても平気な顔をしていられる無神経さにも、腹を立てていました。
 私にとって、この世はとても生きづらい場所だったのです。
 そんな中でも、あなたは特別に許せない存在でした』

† † † † † †

 別の日の、授業の合間の休憩時間でのことだ。
「翼って、本当、空気キャラ? だからさ〜」
 隣の席に座る幼馴染みの裕香が、クラスメートと談笑していた。話の内容は、先の国語の授業で席順に当てられていたところ、僕だけ飛ばされてしまったことについて。僕が当たるはずだった部分は結構難しかった。それで、僕の代わりに答える破目になった、後ろの席の男子が不平を漏らしたのだ。
「あー、確かに、影薄い感じだよな」
「でしょでしょ? 小学校の遠足の時もねー、翼が来てないのに、バス発車しそうになったこととかあって」
「うっわ、ひでぇなそれ!」
 僕の話で笑いあう二人。
 そんな彼らを見て僕は、「そんなに面白い話なんだろうか」と思いつつ、とりあえず微笑んでいた。僕がどんなキャラクターだとか、そんな話題のどこらへんに笑うポイントがあるのだろう。物凄く、どうでもいいことのように思えるのだけれど。
 と、そこで何とはなしに前の席の辺りに視線を向けると、青崎さんと目が合った。彼女はまた、不満げな表情をしていたが――僕に気付くと、さっと別の方向に顔をやった。
 彼女も、こんな話題に興味があるのだろうか?

† † † † † †

『あなたは周りの人間に、度々失礼な振る舞いを受けていました。けれど、あなたはそのことに対して何も――本当に何も、感じていなかった。
 他人から受けるあらゆることを、あなたはどうでもいいと思っていた。
 あなたは、度し難い不感症でした。
 そのことが私にはどうしても許せず、また、少しだけ羨ましかったのです』

† † † † † †

 その日の放課後のことだ。僕は高校二年生にして初めて、学校の屋上という場所に足を向けていた。特に何かを求めていたわけではない。ただ、その時の気分だったように思う。
 扉を開くと、がしゃあん! と、すごい音が僕を出迎えた。見ると、何か長方形をした物体が屋上のフェンスに投げつけられており――まもなく、コンクリートの床に落下した。
 目を釣り上がらせ、鼻息を荒くしてその光景を作り上げていたのは――青崎さんだった。
 彼女は僕に気が付くと、一瞬、焦ったような顔をして、しかしすぐにこの前と同じ顔で僕を睨みつけた。そのまま彼女は黙りこんでしまい――仕方なく僕は、聞いてみることにした。
「……どうしたの?」
 彼女が投げつけていたのは、どこから持ってきたのか黒板消しで――どうしてそんなものを、というか、どうしてそんなことを。正直、さして興味はなかったのだけれど、それくらいしか聞いてみるネタがなかった。
「……苛々、していたので」
 青崎さんはそっぽを向いて、短く言い捨てた。
「……物に当たるのはよくないよ」
「物にでも当たらないと、やっていけないんです」
 そのまま彼女は、またいそいそと立ち去っていった。
 後に残されたのは、僕と黒板消しのみ。

† † † † † †

『あなたのように何事にも心を動かされない日々は、きっととてもつまらないのでしょう。つまらないという感情さえ、あなたはよくわからずにいるのかもしれません。
 そんな生き方、私には全く理解できませんし、許容することなどできません。
 けれど、せめてあなたの一割でも、私に無神経さがあればよかった。そうすれば、毎日毎日何かに怒って、何かに当たることもなかった。擦り切れていくこともなかった。普通に笑って、楽しく過ごすことができたのでしょう。
 こんなことにも、ならなかったのでしょうね』

† † † † † †

「中森は何か部活やんねーの?」
 またいつかの休み時間。後ろの席の――ええと、日吉くん、と裕香と、僕は会話などしていた。いつものように、取り留めのない内容ばかり。
「翼は、やる気ないもんねー。私と一緒に、陸上部入ればよかったのに。足だけは結構速いんだからさー」
 適当に笑いつつ、はぐらかしてばかりの時間。生憎と、部活動に精を出す自分は想像の範囲外だった。
 会話の合間を縫って、前の方に視線をやってみる。
 青崎さんが、こっちを見ていた。
 また、酷く不機嫌な顔で。

† † † † † †

『ねえ、あなたは気付いていますか。
 誰かがあなたに話し掛ける度、私が聞き耳を立てていたことに。
 あなたに誰かが近づくことを、腹立たしく思っていたことに。
 瀬川さんがあなたに擦り寄っていく時、特別な苛立ちを感じていたことに。
 何を言われても微動だにしないあなたに不満を感じながら、どうしようもなくあなたの方を見ていたことに』

† † † † † †

 屋上に向かう。
 そこには当たり前のように青崎さんがいて、また黒板消しをフェンスに投げつけていた。
 こちらに気付いて、睨みつけてくる彼女。
「……いいよ、続けて」
 僕は屋上の扉の隣に腰掛けた。そうして、青崎さんの手元を見つめる。
 けれど彼女は黒板消しを拾い上げることもなく、僕の隣を擦り抜けて行ってしまった。
 夕日のせいだろうか、少し赤い顔をして。
 
† † † † † †

『自分でもこの気持ちをよく理解できません。
 あなたのような人間を、許すことはできないのに。見ていると、苛々が止まらないのに。
 けれど、どうしてもあなたのことが心に浮かんで離れない。初めて見た時から、気になって仕方がなかったのです。
 あなたのことが、好きです。
 だからこそ、こんなことになってしまったのです』

† † † † † †

 また別の日の放課後。裕香たちとの会話を切り上げ、屋上に赴いてみる。
 そして、やっぱりいる彼女。
 床に腰掛け、青崎さんが怒りに任せて黒板消しを投擲する様を観察することにしてみる――今日の彼女は、僕に気付いても逃げなかった。
 低めの弧を描き、激突していく黒板消し。
 がしゃあん、と音を立て、振動するフェンス。
「――青崎さんは、何にそんなに怒ってるの?」
 五月末の風が、冷たくもなく――けれど、特に暖かくもなく、ふいに大きく吹きつけた。
 青崎さんのスカートがはためく。陸上部なんて入るわけもなさそうな、白い腿が露わになりかけて――彼女は急いで、裾を押さえた。
「……知りません」
 うつむいて、踵を返す彼女。
 また一人になる僕。

† † † † † †

『誰かがあなたに近づいていくのを見ていられない。誰かがあなたに無神経を吐き出すのを許すことができない。
 あなたを取り巻く全てのものが、憎くて憎くて仕方ない。
 私以外の誰も、あなたのそばにいて欲しくない。
 けれども私はそれ以上に、あなたに我慢できないのです』

† † † † † †

 青崎さんの去った屋上で、僕は黒板消しを拾い上げてみた。
 使い古されて、四隅に穴が開いているそれ。
 彼女のように、振りかぶって――投げてみようとした。けれどもそれはやる気のない弧を描いて、フェンスに届くことなく床を転がるだけだった。
 僕も彼女のように苛立っていたのなら、激しくフェンスを揺らすことができたのだろうか。

† † † † † †

『あなたは誰に話し掛けられようと、何とも思わないのでしょう。その様子を私が不満に感じても、何も感じないのでしょう。私があなたに好意を寄せようと、どうでもいいと思うのでしょう。私に対して何かを感じてくれることはないのでしょう。
 どれだけ思っていても、何一つ報われないのです。
 あなたはこれからも、平気で無神経な他人を近くに置いておくのでしょう。
 そんな状態に、耐えることなどできません。
 だから全部、壊すことにしたのです』

† † † † † †

 教室で、裕香たちとの何てことない会話をこなしつつ、前の方を盗み見る。今日は珍しく、目が合わない。何回か視線を送ってみるけれど、彼女は一向に振り向かない。
 それとなく席を立ち、教室を出るふりをして彼女の方に近づいてみると――何やら熱心に、コピー用紙を見つめていた。

『爆弾の作り方』

 最初の行に、そう書いてあった。
 物騒だなあ、と思った。

† † † † † †

『きっと私は、あなたに出会わずともこの結末を迎えていたのでしょう。
 先程も書きましたが、私はどうしようもない神経過敏で、この世で生きていくのが非常に難しい人間なのです。
 遅かれ早かれ、こうなっていたと思います。
 だからどうか、そんなことを少しでも考えてくれるかはわかりませんが――責任を、感じないでください。
 私のことなど、忘れてしまってください。
 ……やっぱり、嘘です。
 少なくとも今の私は、あなたに何かを残していきたいからこんなことをするのです。
 あなたが何も感じられない人間であることが、許せない。
 あなたの感情を、無理矢理こじ開けてやりたい。
 あなたに、忘れてほしくない。
 あなたの心に、永遠に留まっていたい。
 あなたに纏わりつこうとする全てを焼き払って、あなたにとっての一つになりたい』

† † † † † †

 よく晴れた空の下――鳴り響く、フェンスを叩きつける音。
「ねえ、青崎さん」
 呼び掛けると、怒ったような顔をしてこちらを向く彼女。
「……何ですか」
「いや――何でも、ない」
 話し掛けておいて、僕は言葉を詰まらせた。「爆弾の作り方なんて調べて、何をするの」とは――聞けなかった。聞いて、どうしようというのだろう。
 不自然に口をつぐんだ僕を見て、青崎さんはこちらに接近してきた。
「……瀬川さんのこと、どう思っていますか」
 ふいに、静かに――けれど、まるで氷柱のように貫いてくる口調で、彼女は言った。
「……別に」
 特に考えもせず、僕は答える。どうして、裕香の名前が出てくるのだろうか。
 僕の回答に、さして反応も示さず――青崎さんは、僕の目の前で足を止めた。そのまま、膝をついて――壁にもたれて座る僕に、しな垂れ掛かってくる。
「……じゃあ、私のことは、どう思いますか」
 僕のシャツの裾を握りしめて――彼女は心持ち震える声で、言う。
 僕は、どう答えたらいいか、わからなかった。
 そのまま、沈黙が流れて――彼女は僕から体を離し、こちらの方に一瞥もくれず、扉を開けて出て行った。
 初夏の陽射しのせいだろうか。
 顔が、やけに熱い。

† † † † † †

『最後になりますが、お願いです。
 どうか、私だけのものになってください。
 青崎キララ』

† † † † † †

 ――真下で、爆発音がした。

 学校から出て行け、と言われた僕は、しかし学校の屋上で壁にもたれて座っていた。何となくだが、学校から離れる気になれなかったのだ。
 読み終わった手紙を握りしめ――僕はそのまま、屋上の床に寝転がった。
 真上には、呑気に青い空が見えた。


 青崎さんの爆弾により、クラスメートたちの何人もが犠牲になったらしい。裕香に日吉くんに、その他、僕の近くの席だった人たち。
 そして――青崎さん自身。
「……くくっ…………あははははははははははっ」
 僕は家のベッドで寝転がり、腕で目を覆わずにはいられなかった。
 ――何が、度し難い不感症だ。
 どうしてか、笑いが止まらない――そのうち両目に、生温かい感触が溢れていく。
 ――ねえ、青崎さん。僕はどうやら、君が言っていたような無神経じゃなかったらしい。
 だってこんなにも、感情が――何でこんなことをしてしまったのかと君を責める気持ちだとか、一方的な手紙に対する怒りだとか、あの時素直にあの場を離れてしまった自分への後悔だとか、よくわからないけれど君が僕を好いてくれたことへの喜びのようなものだとか、君を失ったことへの悲しみだとか――溢れてしまって、止まらない。
 僕は、それ程無感動な人間じゃなかったんだ。
 君に対して、何も感じていないわけじゃなかったんだ。
 だからこそ、今、こんな風になってしまっている。
 ――ねえ、青崎さん。君だってどうやら、相当な無神経じゃないか。
 君は、こんなことになってしまって、僕がおかしくなってしまうとわからなかったのかい。こんなにも、一度に抱え込むには多すぎる感情に流されて――苦しくて苦しくて、喉の奥が引きつるような感覚に縛り付けられて、もがくことになると――一度でも、考えてくれたのかい。
 心の水門が壊されたかのように、何もかもが止まってくれない。
 ――何が、お願いだ。
 色んな思いがないまぜになった奔流は、勢いを増して、僕の中から溢れ出して――このままどうやら、完全に枯渇してしまうようだ。
 ――君だけを残して。
 ねえ、青崎さん。僕はたぶん、君が、僕のことであんなにも怒ってくれて――嬉しかったんだ。君に対して、まだ恋とも何ともつかないけれど、ただ気になるという――そんな気持ちを、抱いていたんだ。僕だって、君のことを見ていたんだ。
 けれどそんなもの、もはや一つも残りそうにない。
 僕はこのまま、空っぽになりそうなんだ。
 ただ、君という存在だけ――心の中に乱暴に刻み込まれて――それだけになるんだ。
 
 僕はしばらく、そのままだった。
 何もかもが流れ去っていくまで、身動き一つできなかった。


 あれ以来、僕の心は爆破され尽くしたままだ。


-END-


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