すなぎも

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 とかく「ハシモト」という名前にはろくな奴がいねえ。これは我が体験の厳然たる集積であり、嵐のその日も揺らぐことなき事実だ。「ハシモト」に、ろくな奴は、いねえ。
「いやいや波取(はとり)ー、それはないって」
 その確たる証拠が今日もまた積み重なっていく。現在、高等なる学校の一教室内、昼休み。数日前、化学の先生が理科準備室で飼い始めたメキシコサラマンダー、通称ウーパールーパーを見るため皆がこぞって出て行った教室には、数える程の生徒がいるばかりだった。流行の波に敢えて乗らないその姿勢は取り立てて勇敢とかそういうんではないと思う。
 そして休み時間になるなり隣の席の女・憎むべき橋下に捕まってしまった俺も、不本意ながら残留組と化していたのだが。
「砂肝は、ないって」
「……それ以上口を開いたらお前は砂漠の塵と化すぞ」
「いやいやいや。ないわー」
 俺は下品にも顔の前で手を振り否定を示す橋下に対し、机の下拳を握り締めた。それに気づいた奴は、「何マジになってんの?」と肩口で切り揃えた髪を耳に掛けてみせる。刹那、生意気にもピアスがちらつく。その光に、俺はまた掌に血が滲むような思いだった。
 橋下。お前は、何もわかっていない。
 ――焼き鳥と言ったら、砂肝だろうが。
 何よりもまずあの触感。コリコリ、いやゴリゴリ? という形容しか思いつくことのできない自らの脳を恥じる、歯触りが良いだとかそんな次元を超えた魅惑の感覚。やはりここは塩焼きがベスト。多少焼き過ぎてもなおその身ははち切れんばかりの弾力を宿し、薄っすらと赤く微笑みかける。いやしかし唐揚げでもカルパッチョでも何でもいける。
 それこそが砂肝。砂肝なのだ。
 ああ、砂肝串から一房ずつ、ぎしゃりと歯で外していくその瞬間を、至福と呼ばずして何と呼ぶ。上下の歯で締め付ければ、不思議な触感と共に溢れ出すうま味成分。断言してもいい、何串でもいける。
 というか、砂肝は食す前から素晴らしきものだ。血の滴るような、下唇を思わせる肉厚の身。そして生ならではのあの、青ざめた部分。貝の裏側を思わせるその輝きまでもが、人々を魅了して止まないはずだ。神に誓って言える、スーパーに行けば肉コーナー、鶏肉の一角ハツの隣で必ず二分は足を止めてしまうと。
 それなのに。
「あたしは断然、豚串押しだわ。砂肝とかマニアックすぎるって。っていうか、小さい頃田舎のじーちゃん家で首ちょんぱの鶏が走ってくの見て以来、鳥駄目なんだわ」
「お前焼き鳥の話振っといて鳥駄目とか」
「いやー、砂肝。ないわ」
 こうやっていつも、「ハシモト」は俺を否定する。

 その日の放課後、俺は小学三年の頃黒板に数式を書いたらクラス委員の橋本に「お前の字、変だよ」と言われたことや小学六年の頃給食にてクラスのアイドル橋元に「波取くん冷凍みかんから先に食べるのおかしいよ」と言われたことや中学二年の頃合唱コンクールの練習中担任の箸元先生に「波取はもうジャ○アンとかそういうレベルじゃないよな」と言われたことなどなどなどを思い出してやはり「ハシモト」にろくな奴はいないのだなと結論付けつつ、家路を急いでいた。しかしどうにも過去に「ハシモト」に負わされた傷は深く、思い出す度カロリーが削られていく。そんなわけで駅前のコンビニに立ち寄ってみることにしたのだ。
 最近はコンビニスイーツとか何とか冠してティラミスだのエクレアだののクオリティが上がっていると耳にしている。ここは素直に流行に乗っておこうかと思って「ランキング第三位」とポップの貼られたシュークリームを手にしてみた。しかしその瞬間、一分と経たずに食べ尽くされてしまう光景が目に浮かび、その儚さに胸が締め付けられ、俺はあえなくスイーツを棚に戻した。うーむ、小手先の甘味は良くない。何と言うかこう、もっと末永くお付き合いできる関係を築きたいのだ。
 しかし、ここで安易にスナック菓子に手を出すのも考えものだ。そんなもん家で毎日食べている。コンビニならではをぜひ味わいたいところだ。
 冷蔵コーナーをぐるりと見回してみる。うーむ、真っ黄色に輝く出汁巻き卵が高得点か、しかしお母さんの卵焼きに勝るものはないので却下。豆腐そうめん! そういうのもあるのか。しかしあの袋を開けた途端液がわんさと零れ出る感じがどうにも苦手だから却下。もうこの際だから油ぎっちょりの和風スパゲティでも買ってみようかなあ、いや晩御飯を前提に考えろ、却下却下。
 とまあそんな具合で悩める俺だったのだが、観念して肉まんでも買ってやろうかと踵を返そうとした瞬間、とんでもない光景に出くわしたのである。
「なん……だと……!」
 それは茶色味が強く、振りかけられた胡椒がまた砂っぽい見た目を演出している代物であった。下側に中身がびっしり寄っているものだから、見た目はたいそう悪い。しかし乱雑に張られたシールには、確かに、こう記されているのである。
『砂肝』
 息を飲んで、冷静に文字列をたどる。しかし、何度読んでも、上から読んでも下から読んでも、いやそれはさすがに無理だから普通に読んでも。
「砂……肝!?」
 どこか唐揚げ的な雰囲気ではあるが、正しくは商品名『砂肝焼き』。何と言うことだろう、スーパーの精肉コーナーかつぼ八でしか見ることのできなかった砂肝が、よもやコンビニで売っていようとは。普通に知らんかった。
 ふむ……
 これは、先程の会話からしてもう運命なのだろうか。やや身が黒っぽくさびれた感じ、じゃりじゃりしてそうではあるが、正しく砂肝……うむ、レンジでチンすればきっと美味しいに違いない、いや、砂肝なのだ、美味しいに決まっている。コリッコリだ。そうさ、コンビニの砂肝を、全ての砂肝を食さずして何が砂肝マニアだ。略してキモマニアだ。ほら、悩むより前にもう、己の右手は砂肝のパッケージを握り締めているではないか。
 そんなわけで俺は砂肝を雄々しく掴みつつコンビニを出るのであった。レンジでチンは家に帰ってからすることにした。

 さて、お母さんに「あんたまた余計なもの買って」と言われつつ二分程度レンジで加熱し、ラップを開けた、砂肝。
 俺はマイ箸を構えて、ごくりと生唾を飲んだ。砂肝を食す。その時間はいつも、真剣勝負だ。あますとこなく、味わい尽くさねばなるまい。
 黒胡椒がぱらぱらと乗ったその一切れに、すいっと箸をつける。ぶにりと箸から伝わってくる確かな感触を楽しみ、しかしすぐに別れを告げ。いざ、ダイブイントゥ―マウス!!
 ……
 …………
 ………………
「ぅぉぇっ」
 ……その触感は決してコリコリという軽妙かつ甘美なものではなかった。はたまたゴリゴリという達成感に満ち溢れた音でもない。
 ぶにょんごり。
 そんな風にしか形容できない噛みごたえなのである。いや、噛みごたえと表現するのも正直どうかと思う。
 ぶにょんごり。ぶにょんごり。
 これはただ物体を上下の歯で小さくしていく際の音だ。それ以上でもそれ以下でもない。喉に流し込むまでひたすら続けなければいけない、単なる作業を示すもの。
 舌を伝わる味もまた、溢れ出るうま味というよりは生臭みと言うか、それも肉の生臭さと言うよりか死んだ魚の目のようなというか、何と言うか、何と言うか。
 ……もういい。有り体に言おう。
 まずい。
 まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、
 何度でも言おう、まずい!!!
 何だこのとんでもない商品は! まずい! まずいという一言はまるでこの物体のためにしつらえられたもののようだ! まずい! というか何だぶにょんごりって、こんな擬音が食物に許されていいのか、いや、例えお天道様が許したとしても俺が黙っちゃいねえ!
 まずい!
 ……いや、冷静になれ。砂肝がまずいはずがない。どうなっている、応答しろスネーク、こちらスネーク、もうわけがわからない、いや、砂肝がまずいわけが、あの、神秘の食材砂肝にまずいなどという形容詞がまかり通るはずが。
 と、箸を持ち口の中に破片を残しつつフリーズした俺の背後から、にょっと大きな影が出現した。
「ちょっと、一切れくらいよこしなさいよ。私も砂肝好きなのよ」
「いやお母さん、それはっ……」
 お母さんが躊躇なく、手掴みで砂肝と言っていいのか審議中の物体を口に運んだ。そして、ものの数秒ではっきりと言ったのである。
「まっずい砂肝ねえ」
 まずい砂肝……いやいやいや。
「お母さん! こんなん砂肝じゃねーよ! きっとコンビニ店員がシール貼り間違え」
「小難しいこと言ってんじゃないよ。どうせコンビニの砂肝だもんねえ、そんないい奴仕入れてるはずがないのよ」
「コンビニの、砂肝……」
「そうよ。このコンビニの砂肝は、まずい。それでいいじゃないの」
 お母さんは「ったくめんどくさい男よねえ」と言い残してその場を去っていった。取り残された俺はただ、置かれた言葉を何度も何度も、口の中残る破片と共に咀嚼するのみ。
 このコンビニの砂肝は、まずい。
 このコンビニの砂肝は、まずい。
 この砂肝は、まずい。
「この砂肝は……まずい」
 口にすると共に、一切れ、また箸をつけた。放り込んで口を閉じるとすぐさま追いついてくる、ぶにょんごりという擬音。
 ぶにょんごり、ぶにょんごり。
「この砂肝は、まずい」
 ぶにょんごり、ぶにょんごり。
「この砂肝は、まずい」
 ぶにょんごり、ぶにょんごり。
「この砂肝は……まずいんだ!」
 思わずそう叫んだ途端、目の前が急に開けた。頭の中でも、新たなる地平が顔をのぞかせる。そう、俺は悟ってしまったのだ。
 ――砂肝だから、美味しいわけじゃない。
 良質なそれが美味しいのであって、コンビニで売るような、廉価なものはそうではない。このぶにょんごりという擬音が、何よりの証拠。
 ただ、うまい砂肝とまずい砂肝がある。それだけなのだ。
 そしてその真理に辿り着いた瞬間、自然、もう一つの扉が開けてくる。
 ――「ハシモト」だから、ろくな奴じゃないわけではないのだ。
 ただ、ろくでもない「ハシモト」が存在するだけ。つまり、ろくでもなくない「ハシモト」がいる可能性もまた存在する。それを認めた瞬間、俺は顔から火が出る思いを味わった。
 俺は今まで、あの隣の席の女・橋下を「どうせハシモトだから」と色眼鏡で見てはいなかっただろうか。彼女が俺に対し投げ掛ける言葉を、いちいち悪意的に解釈してはいなかっただろうか。ああ、橋下。お前はいつも俺の隣にいてくれたというのに。
 俺はトレイを持ち上げ、残りの砂肝をすべて掻き込んだ。全部、ぶにょんごりと噛み潰してやる。飲み込んだ時、耐え切れず少しえずいた。
 ああ、何てまずい砂肝なのだろう!
 このまずさを、明日橋下に伝えてやろう。まずい砂肝が存在するということを。そして、その一方でうまい砂肝も確かに存在することを。そうして、言葉を交わし終わったら色眼鏡も何も取っ払って、彼女を見つめよう。
 橋下。
 本当は、否定していたのは俺の方だったのだ。

 翌日。小鳥のさえずりに意気揚々と朝早い学校を訪れると、誰もいない教室、俺の隣の席には既に橋下がいた。気配に気づいたのか振りかえった彼女、その髪の隙間からきらりと光るピアスがのぞく。
「あっれー、波取、早いじゃん」
「まあな」
 いきなりその顔を正面に見つめるのもはばかられて、俺はそっぽを向いていた。するとその様子を機嫌が悪いと解釈したのか、橋下はきゃらきゃら笑いながら言った。
「何? まだ昨日のこと根に持ってんの?」
「いや、そのことなんだが……」
 昨日の夜さんざんベッドの中で復習した、橋下に向ける砂肝の言葉。しかし彼女を目の前にするとそれらはこんがらがってしまい、俺は慌てて真っ直ぐにしようとした。
 そんな俺を待つことなく、橋下は無邪気に話しかけてくる。
「うん。やっぱ砂肝、ないわ」
 ……その台詞は、こんがらがる言葉を全て蹴散らし、ぴきぃんと俺を固まらせるには十分だった。
 ぶにょんごり。
 口の中、あの感触が甦る。
「だって砂とか溜め込んでる器官なんでしょ。ありえなくない?」
 ……橋下。やっぱりてめーは駄目だ。


-END-


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