北九州

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×   ×   ×   ×

 みはらちゃんからは、神さまみたいなにおいがした。

×   ×   ×   ×

 空が青いだけで幸せな気分になれない奴は不幸だと誰かが言った。ならば彼女はまさしく不幸だったのだろう。
「ねえ、口の中、切れてたりする?」
「はい。ちょっと……」
「どこらへん?」
「右の、入口ちかく……」
 わたしは彼女の口内を自らの舌でまさぐり、血の味を探りあてた。蛇のようにうごめく舌に、彼女の身体がびくりと動く。
 あれから。わたしたちは納屋にこもっては、こうして彼女の身に起きたことを確かめている。
 彼女は中学三年になる今でも、いじめを受け続けている。影の薄い親、支配的な祖父母からは放っておかれたまま。食事だけはどうにかとれるようになったようだが、それも必要最低限だろう。彼女の背はいつまでたっても小さく、腕をつかめば細い骨が感じられるばかりだった。
「弟くんは元気?」
「尊陽(たかひ)は――元気、ですね。どんどん大きくっていうか、早くも太ってますけど」
 短い髪をなでつけながら、彼女は苦笑してみせた。比多橋の家も変わらないのだろう。
 納屋の中、農機具の横でビール箱に腰かけるわたしたち。取り出した大学ノートに、血の味、比多橋家の様子、それらを綴っていく。ノートもだいぶ溜まってきた。
「今日は何をされた?」
「今日は……隣のクラスに無理矢理貸し出しされた教科書が、ラインマーカーでぐちゃぐちゃにされて返ってきました。つい睨んじゃったら、殴られたんですよね。さすがに殴られたのばれたら、おじいちゃん怒るなあ……」
「何を感じた?」
「ええと、教科書を見た時は頭が真っ白になって――」
 彼女が見て聞いてされて思ったことを、わたしはノートに書きつける。
「ちょっと失礼」
「っあわっ……」
 彼女の衣替えしたばかりの夏服。白い胸に、手を這わせた。薄い、薄い肉の感触。
 これが不幸な人間のからだ。これが不幸な人間のかたちなのだ。

「あなたの周りの人間が、おかしいの」
「おかしい……ですか?」
「だってこんなに酷いことをしてるじゃない。あなたの家族だって見て見ぬふりだわ」
「そう、ですね。おかしい……のかな」
「きっと皆、何か悪い電波に汚染されているんだわ」
「汚染……」
「だからね、あなたが死ぬことはないの」
「皆……その電波っていうのがなくなれば、優しくなるんですか?」
「きっとそうね」

 互いの夏休み前だろうか。相変わらず納屋の中で、わたしたちは座って話をしていた。
「ねえ、あなたは今、大丈夫?」
「大丈夫って?」
「生きてられるの、って意味」
 少し伸びた髪の毛に触れ、まんまるい瞳をきょとんとさせながら、彼女は「うーん」と思案に暮れた。それから苦笑いのように、呟く。
「大丈夫、です。みはらちゃんがいるし。それに皆も、汚染から戻れば優しくなれるっていうし……早く、皆正気に戻って幸せになるといいな」
 眉を下げたその笑みは、どこか痛々しかった。痛々しくて、背筋をくすぐられる。その感覚にわたしは一抹の寂しさを覚えた。
「そう。……なら、大丈夫かしら」
「え?」
「わたしね、ここを出て大学に進学するの」
 彼女は息をするのも忘れたようにぴったりと固まった。
 だいぶ時間が経ってから、信じられないという様子、戸惑いをあらわにしてわたしを見る。
「え、そんな、え?」
「あなたは、町の高校に進学よね? ……残念だけど、もうすぐお別れだわ」
 そして、きっと二度と会うこともないのだろうと思った。放置されているとはいえ、比多橋の娘だ。この地を離れることは難しいだろうし、彼女にそんな金を今さらかけるとも思えない。
 名残惜しいけれど、お別れ。
 わたしは白々しく溜め息をついた。
「みはらちゃん……いなくなっちゃうの?」
「ごめんね? ……あなたに出会えて、よかったわ」
 それから彼女は何か言おうとして、それをつぐんでうつむいた。
「みはらちゃんは、ぼくの――」
 かろうじて聞きとれたその言葉の、先を知らない。
 小さな白い手が、掴むべきものも持たずに強く握りしめられている。その様子が、ひどく痛々しかった。

 その数ヶ月後、彼女はわたしを追って都会の高校へと進学した。
 地元では「弟の首を絞めようとして家を追い出された」とか「頭がおかしくなって手に負えなくなった」とか、様々に噂されていたが、真相ははっきりしない。
「神さま、ぼくも同じところに行けるようになりましたよ!」
 そう、無邪気な笑顔で報告した彼女に、何が言えたというのだろう。

 それから彼女は一人の少女と出会い、博士とロボットごっこを始めた。
 インターネットができるようになり、わたしは北九州監禁殺人事件を知る。その話をしてから彼女の中で、悪い電波のおおもとは北九州ということになったらしい。
 汚染を取り除こうとして、汚染がなくなれば人々は正常になるかもしれないと信じて、彼女は歪な遊びを続ける。



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