「上手ね」
グラウンドからは、いつも通り運動部の掛け声が聞こえてくる。それに対抗するみたいに教室から響く、まだ不揃いな歌声たちも昨日より心持ち大きくなって、開け放たれた窓を通り過ぎて青空に溶け込んで――そんな、騒がしくて、でもどこか穏やかな放課後。
――そんな時間だったから、つい、魔が差してしまったのだ。
「あ、と……すいませんっ」
わたしは音楽室の中、慌ててピアノの椅子から立ち上がる。
いつの間にか扉の前に立っていたその人は、わたしの様子を見ると、不思議そうに猫のような目を細めた。次に音楽室を使うのは確か、二年四組だったから――この人は上級生か。首を傾げると、長くて真っ直ぐな黒い髪が肩にこぼれて――ああ、この人、次のクラスの伴奏者なのかな。何となくだけど、ピアノを弾く姿が様になりそうだ。
「……まだ皆来ないから、練習しててもいいのよ?」
わたしがついまじまじ見ていると、彼女は適当に近くの椅子に腰掛けて、何というか……聴く態勢に入ってしまった。
……ああ、こんなつもりじゃなかったのに。
「あ、いえ……失礼しますっ」
大袈裟に頭を下げて、わたしは音楽室から飛び出していった。廊下の窓は開けっ放しになっていて、男の子みたいな頭をしたわたしには秋の風が少しだけ寒々しく感じられた。
……ちょっと、魔が差しただけ。
本当に、それだけのつもりだったのに。
誰かに聴かせるつもりなんて、本当に、なかったのに。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
「うーん、今日はアルト、範田さんと川本さんだけか……パート練習、なしってことで」
うちのクラスのアルトパートリーダーは、困った風に頬に手を当てつつも、軽い感じで解散を言い渡した。
わたしは楽譜を鞄にしまいこんでいく。すると、川本さんが隣からにょきっと首を出して、わたしに話し掛けてきた。
「あれ、生乃(いくの)ちゃんは部活行かなくていいのー?」
「わたし、そもそも何にも入ってないよ」
「あ、そっか。なんか、バスケ部入ってるって思ってたんだよねー」
笑いあいつつ、わたしたちは教室から出ていき、別々の方向へと廊下を歩いていった。
秋、わたしの高校では合唱コンクールが行われる。何代前かの校長が合唱好きだったとかで、秋の球技大会の代わりに無理矢理ねじこまれた行事だそうだ。参加するのは一、二年生のみ。一応進学校を名乗っているので、三年生は受験に専念させるとか。
コンクール開催は十月末。それまでの一ヶ月間、各クラスは支給されたキーボードを使ったり、二台ある音楽室のピアノを分けあったりして練習に励む。一年生も二年生も課題曲は同じ。だから、練習していないクラスとしているクラスの差が丸わかりになってしまい、結構シビアな感じになるらしい。わたしはまだ一年生だから、そこらへんは話に聞く限りなのだけれど。
十月も一週間と少しを過ぎた今日この頃、各クラスからはちらほらと、まだたどたどしい歌の断片が響いてきている。この時期だとまだ、運動部に所属している人なんかは合唱の練習をさぼったりするから、そんなに盛大な感じはしない。それでもこの、まだ一つになりきれてはいないけれど、皆一生懸命な感じの空気は悪くないと思う。
……思う、けれど。
溜め息をつきつつ、わたしの足はふらふら、音楽室へと向かっていた。
……我ながら本当に、未練がましいと思う。
「――どうしたの?」
その時だった。後ろから、上品だけどアンニュイそうな声がわたしを呼び止めたのだ。
「……あっ」
振り返ると、そこにはこの前の――伴奏っぽい雰囲気の人がいた。いや、自分でも、伴奏っぽいってどんなだって思うけれど。
さて、「どうしたの?」と言われて、わたしは何と答えればいいのだろう? 別に、どうっていう程のことは……ない、のに。
口を開かないままでいると、彼女は急に「合点がいった」という風な調子で言い始めた。
「ああ、伴奏、練習したいの? なら、うちのクラスの人たち、まだ来ないから――」
「あ、いえ、別に」
慌ててわたしはお断りする。
しかし彼女は、割とどうでもよさそうな感じでいながら――なおもわたしに、音楽室の扉を促す。
「そう? でも、昨日の感じだと、まだ結構不安なところとかありそうだし。ちょっとの間だけど、やってけばいいじゃない」
「いえ、あの……」
どうしよう。やっぱり、ちゃんと言わないと事情はわかってもらえないだろう。でも――
言わなきゃいけないのかな。
自分でちゃんと、認めないといけないのかな。
「別に、遠慮する必要は――」
「……わたし、伴奏じゃないんで」
うつむきながら、わたしはこぼした。
当然ながら、彼女からは不思議そうな瞳と首を傾げるポーズが返ってくる。
「伴奏じゃないのに、なんでピアノの練習なんかしてたの?」
「……えと、あの」
――ああもう、どうして未練がましく音楽室の前をうろついたりしたんだろう。わたしがこっそり練習していた理由なんて、人に――ましてやほぼ初対面の人になんか、話せる程立派なものじゃないのに。
またも答えられず、つま先を見つめるわたしだったけれど――突然、彼女は尋ねてきた。
「……ねえ、この後何か予定ある?」
「……は?」
「合唱の練習とかは?」
「あ、いえ……特に予定は。合唱は、人、集まらなくて、解散になったんで……」
思わず素直に、わたしは返していた。
……なんで、急にわたしの予定なんかを?
「そう。なら、ちょっと校門のところで待っててくれないかしら。たぶん、合唱の練習なら三十分くらいで終わるから」
「……え、はあ……え?」
彼女はそれだけ言って、ろくにわたしの返答もきかないまま音楽室の中へ入っていった。
……え?
「……それ、クォーターパウンダーですか?」
「一回、食べてみたかったのよね」
わたしと彼女――そういえば、まだ名前も知らない――は、何故かマックに来ていた。
……わざわざ校門で待っていることもなかったのに。どうしてわたしは、律儀に彼女を待ってみてしまったのだろうか。
来てみたはいいけれど、わたしは特に何か食べる気にもなれなくて、先に席で待っていた。すると彼女は、箱に入った大きなハンバーガーとドリンクをトレイに載せて登場したのだ。
……これ、夕食にするのかな。わたしもこの商品は気にならないわけでないけれど、カロリーとかすごいことになってるって話だし、本当に頼む勇気は今のところない。
わたしは戸惑い気味の眼差しを彼女に送ってみる。けれど彼女は特に気にするでもなく箱を開け、大きなハンバーガーを口に運んでいくのだった。
そのまましばらく、沈黙が続いた。彼女はただ、食べているだけ。わたしはそれを眺めたり、時々窓の外に視線をずらしてみたりするだけ。
……さすがに耐え切れなくなって口を開こうとした頃、彼女はぽそっと呟いた。
「……期待してた程じゃなかったわ」
「……はあ、そうですか」
「焼き過ぎかしらね。肉がぱさぱさ」
「……へえ、そうなんですか」
またしばらく、静かな時間が繰り広げられた。
ようやく彼女が食べ終わった頃、わたしはやっと言葉を出す決心がついた。
「あの……どうして、わたしを連れてきたんでしょうか?」
少し低い位置にある彼女に目線を合わせて、なんだか妙に緊張して言う。
すると彼女は、しれっと答えた。
「これ、一回食べてみたかったのね」
「はあ」
「でも、こういう店って一人じゃ入りづらいでしょう?」
「まあ、そうですね」
理解を示しつつ、「じゃあ、クラスの友達とでも行けばいいじゃないですか」とわたしは言おうとした。
しかし彼女は、こっちの言い分を読んだかのように、さらに続けたのだ。
「クラスの人と行こうにもね、なんだか私、毎日放課後はピアノの練習で忙しいんだって誤解されてるみたいで。誰も誘ってくれないのね」
それだけ言うと、彼女は紙ナプキンで口の周りを拭き始めた。
……皆に、ピアノの練習で忙しいって誤解されてる、か。
「……あなたは、合唱コンクール、伴奏なんですか」
「そうだけど」
「そう……ですか。いいなあ」
わたしはつい、余計なことまで漏らしてしまう。
けれど彼女は、特にわたしの発言に突っ込んでくるわけでもなく――なんだか感情の読めない、けれどもちょっとだけ同情みたいなのが混じった目で、こちらを見つめるだけだった。
「ねえ」
「……はい?」
「また今度、こうやって付き合ってくれるかしら」
なんとはなしに、わたしはごくっとつばを飲み込んでいた。
……なんなんだろう、この人。別に今日だって、ずっと特に面白くもなさそうな顔で、ただ食べてるだけだったのに――どうして、わたしに付き合ってほしいなんて言うのだろうか。
「嫌?」
「いえ、あの……どうしてわたしに頼むのかなって」
何て言ったらいいかわからなくて、正直にこぼす。
すると彼女は、またもさらりと言うのだ。
「あなたなら、付き合ってくれそうだから」
その後わたしたちはメールアドレスを交換した。
彼女の名前は花宮志穂(はなみやしほ)さんというらしい。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
またまだぎこちない動きの指揮者と、まだまだ不慣れな感じの伴奏に合わせて、まだまだ調和なんか取れていない歌声が音楽室中に響く。
十月も二週間とちょっとの今日。合唱の練習は、まあそれなりに順調に進んでいた。途中で音楽の先生が指導してくれたけれど、二週目あたりはどこのクラスも大体こんな感じらしい。これからの何週間かで、見違えるようによくなるんだとか。
「生乃ちゃんの隣、歌いやすいなー。なんか、安定してるっていうか。生乃ちゃん、歌上手いよね」
「え、別に、そんなことないよ」
練習後、同じパートの人に褒められて、わたしは少し頬が熱くなるのを感じた。
――でも。
ふと、ピアノの方を見る。椅子に座って指揮者の男の子と打ち合わせるのは、ふわふわした髪の毛で、やわらかい雰囲気で、ピアノやってるって言っても、誰も疑わないような子で――
「どうしたの? 帰ろうよ」
「うん……あ、先に帰ってて。わたしちょっと、用事あるから」
クラスの子たちと別れて、しばらくしてから校門へ向かった。
「あ、来たわね、生乃ちゃん」
花宮さんは自然な感じで、わたしの名前を呼ぶ。
けれどわたしはまだ少し距離感がわからなくて、声を上ずらせて答えた。
「待たせちゃってすいません、花宮さん」
「志穂でいいって言ってるのに」
「え……と、ああ、志穂、さん……」
あれ、「志穂でいい」なんて聞いてない……よね? だって、アドレス交換してから会うの、今日が初めてで……
「それじゃ、行きましょうか」
「あ、はい……」
言われるがまま、わたしは彼女の後をついて行くのだった。
つくづく、自由な人だよなー、と思った。
たどり着いたのは、またマックだった。なんでも志穂さん、「放課後に誰かとマックとかで寄り道する」というのに随分と憧れを抱いていたらしい。別に、ミスドとかでも良い気はするのだけれど……というか、そっちの方がわたしは好きなのだけれど。
今日は、これからまた別の用事があるのでわたしも腹ごしらえしていくことにした。チーズバーガーとポテトのSサイズとウーロン茶。一方の志穂さんは、本日は控えめにナゲットとオレンジジュース。
「ナゲットだけでも、結構、夕ご飯きつくなっちゃいますよね」
「そう? この前のクォパンの後でも、私、普通に食べられたけど」
……クォパン? ああ、クォーターパウンダー?
……え?
「あ、あのあと、普通にご飯食べたんですか!?」
「そうだけど、どうしたの?」
「……いえ……」
人は見かけによらないというか。大きなハンバーガーにかぶりついている姿も似合わないのに、それよりもっと食べる人だったなんて。
半ば呆れつつポテトをかじっていると、志穂さんはナゲットをつまみながら、どうでもよさそうな口調で話し始めた。
「よくわからないんだけど、小食だと思われるのよ、私」
「ああ、そんな感じですよね……」
「それでね、中学一年の時なんだけど、最初の日の給食が、嫌いなメニューばっかりだったのね。だから少なめにしてもらったら、『花宮さん、小食なんだね』って、給食当番の子が勘違いしちゃって。それ以来、その子が給食の度に『花宮さんは盛り方少なめにしてあげてー』って、いちいち当番の子に注意するようになっちゃって……」
「……ああー、ありがた迷惑って感じですか」
「そう。その子とは中学でクラス全部同じで……三年間、ずっとひもじかったわ」
「あははは……それはまた……」
どうでもよさそうながら、志穂さんの眉根にちょっとだけ恨みがましくしわが寄っているのが、なんだかおかしかった。
……そっか、この人も、色々誤解されやすい人なんだ。そんなに自由に生きてるわけでもないんだ。
そうやって取り留めのない話をしているうち、わたしたちのトレイはそれぞれ空になっていった。
「あ、わたし、そろそろ行きます」
「何か用事?」
「あ、言ってませんでしたっけ。これから、ピアノ教室の練習なんです」
「そう。頑張って」
志穂さんは、あっさりそう言ってから、氷だけになったジュースをストローでガラガラかき混ぜ始めた。
……なんとなくだけれど、この人に付き合う気になった理由がわかった気がする。
この人は、わたしがピアノをやってるって知っても、「そんな風には見えない」みたいなこと、言わないんだ。
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