九月の中ごろ過ぎに、絵空ちゃんに呼び出された。わたしはひさしぶりに彼女に会えるのがうれしくって、ガーゼとばんそうこうだらけの体で指定された場所に行った。
そこは町にあるおおきな病院だった。待合室で、絵空ちゃんの短い髪が見える。わたしが駆けよると、すぐに気づいてくれる。胸がたかなった。絵空ちゃん。
振りむいた絵空ちゃんは、顔になんにも浮かべていなかった。
首をかしげる。絵空ちゃんは、どうしたのだろう。
「来てくれてありがとう。お願いがあるの」
そう言う絵空ちゃんの声は、やはりのっぺりとしている。どうしたの、と肩に触ろうとすると、絵空ちゃんは椅子から立ちあがってすばやくよけた。
「――触らないで」
どうしたんだろう?
わからない。なんだか様子が変。けれど、おねがいごと? それは、わたしにしかできないこと?
絵空ちゃんには今、わたしよりも仲のいい女がいる。一時はそれで落ちこんだけれど、わたしはすぐに思い直した。だいじょうぶ、わたし、今回はがんばっているもの。たぶん、すこし時間がかかるだけなのだ。その証拠に、こうやって呼び出してくれた。わたしを頼ってくれた。それに、いざとなったら、邪魔なものはなくせばいいんだ。あの猫みたいに。
絵空ちゃんはなにも言わずに、歩き始めた。わたしはあわてて、その後ろについていく。
まっしろい、病院の廊下。ずんずん進んでいく絵空ちゃんの背中がはなれないように、わたしは一生懸命足をうごかす。階段をのぼる。病院の二階。どこもかしこもまっしろ。
そのなかの、ある部屋の前で絵空ちゃんは足をとめた。
「つつじちゃん、私が合図したら、大きな声じゃなくていいけど、はっきり、こう言ってほしいの」
いきなり、絵空ちゃんがわたしを向いてそう言った。わたしは目をぱちくりさせる。あいかわらず無表情の絵空ちゃんは、よくわからないことを口にした。
それからなかに入る。広い、まっしろな部屋。ベッドは四つだった。だけど、埋まっているのは奥の一つだけみたいだった。奥の一つにだけ、カーテンがひかれている。そこに近づいていく絵空ちゃん。わたしもついていく。
足をとめる。カーテンを隔てて、ベッドは真ん前。
そこで、絵空ちゃんがうなずいた。わたしへの合図。わたしはちいさく息をすいこみ、教えられた言葉を、きちんと口にした。
「お母さんなんか死んじゃえ」
ちゃんと言い終わると、絵空ちゃんはなにも言わず部屋をあとにした。待って、と口に出さずにわたしは追う。教えられた言葉以外は、この病院ではもう一切しゃべらないでと絵空ちゃんには言われていた。
それから病院を出て、わたしは絵空ちゃんに「どうしたの?」と問いかけた。けれど絵空ちゃんはわたしに背中を見せてしまって、なにも反応してくれない。どんな顔をしているのかもわからなかった。
その変な儀式は、なん日かおきにおこなわれた。わたしはただ、教えられた言葉を間違えないよう言い続けた。
九月下旬、また病院帰りだった。今回は、あの部屋は医者がさわがしく出入りしていて、わたしが言葉をはなつことはなかった。
絵空ちゃんはずっと歩き続けていた。なにも言わない。わたしはいつも、とちゅうで自分の家に帰らなければならなくなるのだけれど、今日は絵空ちゃんの背中を追い続けることにした。
夕陽がやわらかく絵空ちゃんの背中を照らしている。あたたかそうだった。もう秋だけれど、外はまだ冷たくない。
まださむくないうちに、もっと絵空ちゃんといろんなものを見たい。一緒にあそんで、おはなしをして、もっと仲良くなりたい。
はやく、絵空ちゃんを手に入れたい。
考える間にも、絵空ちゃんは足を休めない。ずんずんずんずん、商店街のはしっこまで行きそうないきおいだった。わたしはここまできたらひとりでは帰れなくて、絵空ちゃんが立ち止まってくれるのを待つしかない。
と。
ようやく、絵空ちゃんが足をとめてくれた。そのままわたしを振りかえってくれる。絵空ちゃん。
わたし、絵空ちゃんのおねがいごと聞いたよね?
がんばったよね?
ねえ、絵空ちゃん。
あなたは、わたしのともだちになってくれるよね?
「――つつじちゃん」
なに、と言おうとして息をのんだ。
絵空ちゃんはこれまでの無表情よりももっと冷たく、暗い影を背負っていた。
そうして、言うのだ。
「ねえ。私たちきっともう、一生幸せになれないね」
――へ? とまぬけな声がもれた。絵空ちゃんは、なにを言っているのだろう。
幸せになれない?
「今までありがとう。これでお別れだね。もう二度とあなたとは会わない」
え?
え?
絵空ちゃんは、なにを言っているの?
「さよなら」
絵空ちゃんはそのままわたしを通り過ぎて、走っていってしまった。わたしはあわてて追うけれど、足がもつれてうまくいかない。そのうち、転んでしまう。
すりむいた手が熱をもつ。いたい、けれどそれどころじゃない。歩道に倒れたまま、わたしは顔を上げる。絵空ちゃんを目で追う。けれど、あっというまに絵空ちゃんのすがたは消えてしまった。
どうして?
これでお別れって、なに? わたし、がんばったよ? おねがい聞いたよ? なのに、なんで絵空ちゃんはわたしを見てくれないの?
二度と会わないって、なに?
幸せになれないって、なに?
ぼうぜんとしたまま家に帰ると、リビングにサツキがいた。わたしを見て、いやそうな顔をする。
「……どこ行ってたんだよ」
わたしはサツキを無視した。するとサツキはまた眉をよせて、ソファから立ちあがって一歩ちかづいてきた。わたしはあわてて、つめられた一歩を後ずさって遠ざける。
あの日からサツキにはちかよりたくなかった。だってサツキはわたしを殴る。変なことを言って。
変なこと。
絵空ちゃん。
「おい。まさか、この期に及んで勝手に猫殺してきたのか」
サツキに背中を向けて、台所へ逃げる。だけどサツキはゆっくりと追ってくる。どうしよう。サツキはまたわたしを殴るの?
わけのわからないことだらけだった。
絵空ちゃんはわたしにもう会ってくれないなんて言う。わたし、あれだけがんばってほんとうのことを言ったのに。がんばって、おねがい聞いたのに。
まさか、絵空ちゃんは手に入らないの?
どうして。どうして。
わからないことが多すぎる。
どうしてサツキはわたしを殴るの。わたし、なんにもわるいことしてないのに。言いつけ破ったけど、でもおとうさん言ってたもの。ともだちを手に入れなさいって。
わたしはサツキがいないと困るのに、どうしてわたしを傷つけるの? そのままいなくなるの? どうして?
どうしてわたしはいつもこうなの。
どうしてわたしだけこうなの。
どうしてわたしはこうなの。
どうしてわたしは。
どうして。
「おい、つつじ」
目の前には包丁があった。わたしの背中に隠れて、たぶんサツキには見えていない。手にとって、握りしめる。
サツキの手がわたしの肩をつかんだ。
その瞬間、わたしは振りむいて、サツキのおなかに包丁を突き刺した。
「つつじ――?」
サツキがほうけたように目を見開いた。
「ねえ」
その目を見ながら、わたしは首をかしげる。
「どうしてわたしは幸せになれないの?」
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