幸せになれない星の住人 4−1

幸せになれない星の住人

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4−1


「松本さんて本当よくわからない……」
 相子がそう漏らしたのは、朝、家に迎えにきてすぐだった。歩きだして早々、苦笑いのような表情を私に向けてきたのだ。
「絵空、結局昨日何時まで残ってたの?」
「ええと、七時半くらい」
「じゃ、家帰るの結構遅くなったんじゃん。あー、今さらだけど、うちらとうとう三年間徒歩で通したね。自転車だったらもうちょい早く行き帰りできるのに」
 ここから学校までは三十分ほど。JRから来る人などは、雪の降らない間は自転車を使うのが普通だった。ただ、私たちは自転車を持っていない。中学校卒業前に二人してタイヤが壊れて以来、新調していないのだ。高校進学にあたり、買おうかという話も出たには出たが結局実行には至らなかった。
 その理由はいつも私がこう言ったからだ。
「歩くの好きだからね」
 そして昨日木曜日、すっかり暗くなった通学路をひとり歩くことになった原因は、松本さんだった。
 思い出すと、私の方こそ苦笑いしたくなる。

 五月最後の木曜日、美術部では学校祭の展示への本格的着手が始まっていた。早い人だともう下書きに入っており、そこまで行かない人でもだいたい描きたいものは決まっていた。どのモチーフを選ぶか悩んでいた一年生二人は、相子にすすめられてレモンとビンの基本的な構図を描いてみることにしていた。二人はうなずきあい、「一緒に頑張ろうねー」と並んでスケッチブックを広げる。
 各自が進みだす中、どんな絵を描くのかすらよくわからないのが一人。残りの一年生の松本さんだった。相子が心配して「迷ったら相談して?」とのぞきこんでも、スケッチブックを閉じて「大丈夫です」などとうつむいてしまう。進んでいないから恥ずかしくて見せられないのか、そもそも他人の手を借りるのが嫌なのか。どちらにしてもやっかいなもので、相子は困ったように私を見た。その時松本さんも、眼鏡の奥からちらっと私に目を向け、かと思ったらまたすぐ顔を伏せた。
 そうして六時過ぎになり、いつもの活動時間は終了。荷物をたたんで机等動かした美術室を元の状態に戻す、そのさなか、松本さんが私に声をかけてきたのだ。
「絵空先輩。ちょっとこの後相談してもいいですか」
「相談?」
 こくりとうなずく松本さんにあっけにとられた。彼女はどこか鋭い目でまっすぐに私を見上げており、不機嫌そうともとれる難しい顔をしていた。その表情で「相談」と言われると、重い印象を受けてしまう。こちらをうかがう他の子たちもまた、松本さんの様子にびっくりしているようだった。
「今日時間がないなら明日とかでも構わないんですが。それとも私の話を聞くこと自体嫌ですか」
「あ、ううん、別にこれからで大丈夫だよ」
 そんな言い方をされては断るわけにもいかないよな、と微笑んだら、松本さんは「ありがとうございます」と淡々と述べた。他の部員はこれから始まる私たちの「相談」とやらを気にするように振り返りつつ、一人また一人と美術室を後にしていく。一番後になって相子が「それじゃ、鍵は絵空がお願い」と言って出入り口に立ち、彼女もまた最後に気づかわしげにこちらを見てから去っていった。そうして訪れた、二人きり。
 とりあえず向かい合わせに腰掛けた時、松本さんは机の上にノートを閉じたまま置いていた。スケッチブックより二回りは小さい、なんのことはない、普通の大学ノートだ。もしかして絵のことで相談というわけでもないのかな、と首を傾げる中、松本さんはきっぱりとした声で切り出した。
「私、抽象画っぽいの描きたいんですよ」
「……へえ?」
 予想を裏切られ、また、その言葉自体が私としてはとても意外だったので、とっさに出たのは感嘆じみた吐息だけだった。「抽象画っぽいの」――知り合って二ヶ月足らずではあるが、それは松本さんのイメージとは結びつきにくいものだった。辛辣なことも口ごもることなくはっきり言う、しかし基本は無口で他の部員とあまり話すことのなかった彼女が、描こうとしているもの。
「だけど私、初心者ですから、描き方とかわからなくて」
「そっか。でもなんで私に?」
「部員でいったら一番抽象画に近いの絵空先輩かなと思いまして」
「……そうかな?」
 美術部で描いた作品は準備室に保管され、卒業後各自持って帰るか、素晴らしい作品だった場合そのまま残され飾られたりする。新入部員には現部員がこれまでに描いてきた絵はだいたい見てもらっていた。その中の私の作品はどれも、空をモチーフにしたものだったのだが。
「抽象っていうよりは、私の場合わりと自分が見たもの描いてる感じだけど」
 抽象的というのならば、例えば相子が描いた森の中を泳ぐ魚の絵などの方がよっぽど近いのではないか。去年の秋に行われたコンクール、うちの部の中で唯一賞をとったその作品は、緑深い森を漂う錆び色の魚が画面上に差し込む光を目指すという、暗色を多く使いながら不思議とあたたかな雰囲気を持つ絵だった。新入生たちも「相子先輩すごい」と絶賛していたし、そちらの方が記憶に残っただろうに。まああれとて、決して抽象画ではないのだろうけれど。
「抽象画っていうと語弊があるんですかね。何て言うか、作品のモチーフとはまた違った作者の内面が滲み出ているような絵というか」
「内面……」
「絵空先輩の、住宅街にぽつんと自転車が置かれていて、その自転車が空を見上げるみたいな構図の絵。あれとか、綺麗な夕焼けとかそれ以上に作者の抱えているものが画面からぶわーって噴き出してるみたいで」
「へえ、そうなんだ?」
 そんな解釈をしてもらうとは、純粋な驚きがあって私は笑いながら松本さんを見つめていた。藍色の空が見える窓を背景に、松本さんはいつもより熱を帯びつつ、くだけたような様子で、しかし至極真面目な顔は崩さなかった。
「それで、そういう内面が映るような絵を描きたいんですが」
「……うーん、私もよくわかってないから詳しいことは言えないけれど、その、表したい内面の核になるようなモチーフを選んで、内面に合わせて色づけしていくような感じなのかな……」
「なるほど」
「あとはやっぱり、描き慣れないうちはデッサンの繰り返しとかかな? 中学の時の先生が言ってたけど、描きたいもの描こうとしても、デッサンとかへなちょこで自分でも納得のいかないものになっちゃうと、だんだん描くのがつまらなくなっちゃうから」
「そうですか。わかりました」
 私はゆっくりと、考えながら答えをつむいでいく。そう、できるだけ真摯な態度で挑むものの、松本さんの相づちは事務的な感じがして、こちらとしては少し物足りなかった。それで、つい、訊ねていたのだ。
「松本さんは、自分の内面とかそういうのを表現したくて、美術部に入ったんだ?」
 問いに、松本さんは口をつぐんだ。それから手元のノートにちらちらと視線を向け、ようやくこちらを見る。「まあ、喋ってもいいかな」とひとりごとのようにつぶやいてから、彼女は私に向かって言った。
「私、小説家志願なんですけど」
 またも飛び出した、こちらにしてみれば予想外な言葉。
 小説家志願。いきなりのことで声も出ないが、冷静に考えてみると抽象画よりかはまだ松本さんのイメージに合いそうだった。眼鏡で気難しい感じ。
 こちらとしても、作家さん志望とは興味の湧く話だった。
「中学の頃から文芸部があったら入ろうと思ってたんですけど、まあなかったんで帰宅部でした。この学校も文芸部ないんで、帰宅部でいいかなとも思ったんですけど、せっかくだから何か入って色々経験した方がいいかと」
「へえ、なるほど。それでどうして美術部に?」
「絵も小説も、創作っていうくくりだから、得るものも大きいかなと」
「ああ。そっか、創作っていうくくりか……。だけど私、小説とか思いつきもしないなあ。すごいね、松本さん」
 素直な気持ちで褒め言葉を口にするも、松本さんは少しムッとしたように眉根を寄せた。
「別にすごくないです、書くだけなら」
 ツンケンと投げ捨てられるも、何にそこまで苛立つのか私にはわからなくて、謝ることもできない。それで、気を取り直すように質問を重ねることにした。
「それで……松本さんは、自分の内面を描くような、そういう小説を書くの?」
「いえ、確かに中学までは必然的にそういうのが多くなっちゃってたんですけど……」
 そこで、松本さんは初めて口ごもるような仕草を見せた。うつむき、じっと自らのノートを見つめている。長いことそうしてから、意を決したように私を見据える。ただその目は言葉を発する直前まで、迷いを孕んでいるようだった。それも、「どうしよう、こいつに話してもいいのかな」と、こちらを値踏みするような。
「……まあ、こっちのこと言わないのもフェアじゃないかな」
 フェア? と私が疑問符を浮かべる前に、松本さんは続けることにしたらしい。もはや迷いなく、すらすらと語られたのは松本さんの事情だった。
「私は、恵まれた環境にいたっていうんですかね。親は普通の勤め人、父も母も仕事人間って程じゃなく家族も大事にするような人たち、近所の人も優しいです。異常な親、おかしな隣人なんて、望むべくもありません。小学校中学校もいいところでした。変な先生に当たることもなく、無難に褒めたり叱られたりしましたよ。友達も、まあ、私、喋り方がキツいらしいんで多くはないですけど、ちゃんと存在してました。皆普通の子です。帰りはいつも数人連れだってでした。中学では小説書いてる子と毎日見せあいっこして、それなりに楽しくやってました。だけど、中三の時、思い知らされたんです」
 一拍だけ、松本さんは間を置いた。私は何も言わず、次を待つ。
「別のクラスの人の、高校生のお兄さんが小説の新人賞を受賞したんです。それだけなら『へえ』で済みました。小学生が賞獲るような世の中ですからね。ただ、しばらくは色々噂好きの人が話すのを聞かされたんです。曰く、その人の家は父親がアルコール中毒で、ええと、機能不全家庭っていうんですか。学校に通うのもやっとの状態だったそうです。親のことで兄妹そろっていじめられもしたとか。そして受賞したその人は、そういった自分の経験を全てぶつけたそうです。凄まじい怒りも悲しみもやるせなさも、それでも人を求める気持ちも全部全部。一方の私はその話を聞いた日、友達に小説を見せて、『あきらの書く話はいつも平和だね』と言われていました」
 平和。
 それは「いい話」と賞賛するようにも聞こえるのだけれど。
「私、思い知らされました。私の経験からでは平和な、お花畑な話しか書けません。読む者が息を呑むような、凄まじいものをぶつけることなんて、できやしない。自分と同じような子たちと集まってのほほんと小説、いえ、小説なんて言えない駄文を書きあうばっかりで、このままだったら全然駄目だ。こんな、普通以下でも以上でもない人生、全然駄目だ。もっと、凄いものを知らないと。そう思ったんです。ただきっと、色々なことに手を伸ばすにしても、私自身の体験だけだったらきっとよくない。のほほんとした私の価値観で物事を感じるだけだと、きっと足りない。もっと、私とは全然違う環境にいる人がどんな気持ちで生きてるのか、リアルに知りたいんです」
 どんな気持ちなんだろうね?
 松本さんが、拳を握りしめ痛切に訴える姿に、別の声が重なるようだった。私はすっかり圧倒されながら、眉間にしわを寄せ吐き出す彼女から視線をそらさない。
 知りたい。そうか、知りたいのか。
「――そういう意味では、美術部はハズレでしたね。女子だらけだから、私が直接見たことないような、何かドロドロした展開とか期待したんですけど、どれだけ掘り下げても『なかよしくらぶ』でしかありませんから」
「確かにね……うちは本当、仲良くやってるね。別の部活の友達とかは、人間関係でもめたって話、よくするけど」
「はい。そういう意味ではつまんないから、ここの人とはあんまり話す価値を感じないです――一人を除いて」
 そこで松本さんは、また一拍置いて。
 眼鏡の奥でにやりと微笑みながら、私を眺めた。
「私が今描いてみたいのって、絵空先輩の内面なんですよね」
 正直なところ、すぐには意味が飲み込めなかった。意味がわかったところで、首を傾げる気持ちは同じだ。
 私の内面だと?
「美術部を見学してみようと思ったのは、さっきも言った通り創作活動の足しにしたいとの気持ちからでした。だけど、入ろうと思ったのは、絵空先輩がいたからです」
 松本さんは私を見つめる。眺める。
 面白いものを目の前にしているように。
「……私、あまり目立たない方だって、自分でも思ってるけど」
「だって、絵空なんて変な名前」
 四月、自己紹介の時言い放ったのと同じように、松本さんは口にした。あの時の松本さんは、単純に珍しいものに対し辛口に感想を述べただけ、そう思っていたのだが。
「まあ最近多いらしい、おかしな名前って程ではないんでしょうけど。絵空事って言葉の意味を考えたら、酷い名前じゃないですか。どんな親の元で育ったんだろう、さぞや屈折した内面を抱えているんだろうなって、想像掻き立てられましたよ」
「別に、屈折なんてものじゃないと思うよ。私、そんな大層な人間じゃないと思う」
「それに、絵空先輩の絵です」
 松本さんは急に立ち上がり、美術室の出入り口――その横の、準備室のドアを指差した。私を誘うように。
 こちらも席を立ち、彼女に近づいていくと、扉は開かれた。キャンバス、イーゼル、絵具箱、絵具と木のにおいが混じる準備室、松本さんは棚からすぐに私の絵を引き当てる。
 それは、去年の秋のコンクールに出した絵だった。さっき松本さんが語っていた、自転車と夕焼け空の絵。
「この、暗くなった住宅街、このあたりから作者の暗澹たるオーラが漂ってくるみたいで、私は正直相子先輩の絵よりぞくぞくしましたね」
「それは……ありがとう」
「相子先輩と絵空先輩は仲良しですよね。相子先輩、最初の方は微妙に私に冷たかったですけど、今は美術部でひとりぼっちな私に積極的に構おうとしてる。いい人です。その隣にいつもいる絵空先輩は、いったいどういう人なんでしょうか?」
 影を落とす住宅街、電柱と電線。画面の下にぽつんと置かれた年季の入った自転車。自転車の見上げる黄金に焼かれる空。
 私の絵を見下ろす松本あきらは、これまでは見ることも叶わなかった、暗く情熱を燃やした瞳をしていた。
 好奇心――それからおそらく、自分にはないものへの羨望、嫉妬。彼女が抱えるのはそういったものだと、私にもひしひしと感じられた。
「私、絵空先輩をモチーフにした絵を描きたいです」

 長い道のりを行きながら、相子は少し心配そうに私に目を向けた。
「昨日の、松本さんの相談ってなんだったの?」
 肩をすくめながら、私は返答を考える。そのかたわら、相子が心配するのは私が何か失礼なことを言われたのではないかということと、松本あきら自身のことなのだろうと思った。初日に私が侮辱されてから、相子は自分のことのように怒っていた。ちゃんと謝るまで許してやんない、そう息巻いていた彼女はしかし、松本あきらが美術部で一年生の中に入らず、それどころか誰とも話さず浮いている姿を目にするうち、態度を改めた。もしかして自分の態度が悪いのが彼女が浮く原因の一つになったのではないか、そんな風に気に病んだりして、なにかと松本あきらが輪に入れるよう画策している。
 なるほど「いい人」だな、と改めて思い知らされた。
「――松本さん、空の絵を描きたいんだって」
「えっ、そうだったの? じゃ、絵空とかぶるねー」
「そう。だから、私と構図とかもかぶっちゃったらまずいかなって、相談したかったんだって」
「ああ、なるほどねー。そっか」
 それなら納得、と相子は朗らかに笑った。その様子に私は、「『それじゃあとりあえず空の絵でも描いてみれば』と言ったんだから、まあ嘘ではないよな」とひとり苦笑した。
 ひとまず松本あきらは、学校祭には空の絵を出す。私の内面云々の絵は秋のコンクールまでじっくり練っていくことに決めましたと、勝手にうなずいていた。
「だけど松本さん、絵空とは話すみたいでよかったよ。なんで懐いたのかは謎だけど。波長でも合うの?」
「そうなのかな?」
「絵空もわかんないのー? でもまあ、ひとりぼっちで浮いてたらそのうち幽霊部員とかになっちゃいそうで嫌だもの。一人でも話せる人がいるようでほっとした。正直、絵空にあんなこと言ったのはまだ許せないけどねー。絵空もこれから、松本さんが他の人にもなじむよう、さりげなーく誘導してね?」
「……うん、わかった」
 笑顔でうなずいて、他の話題に移っていく相子から一瞬だけ目をそらした。上を向く。今日の天気は晴れ、綺麗に濃い青に広がる空には、綿菓子みたいな雲が一つ浮かぶのみ。
「……相子の方が、よっぽど優しいよ」
「うん? 何か言った?」
「ううん、別に」
 つい漏らしていた言葉は、相子には届いていないようだった。なにも言っていないとごまかす自分が、昨日と同じだなと思う。
 昨日、私の絵を描きたいという松本あきらに、私はため息まじりでつぶやいていた。
「小説家志願、ね……」
「何か言いましたか?」
 微妙な笑みで「なんでもないよ」と取り繕うと、松本あきらは気分を害したように眉をひそめた。つぶやきの内容を確かめたがるその表情に、だけど私は答えない。彼女はしばらく不満をあらわにしていたものの、根負けしたように「絵空先輩ってボソッと嫌な感じのこと言ってそう」と吐き捨てた。
 まったく、小説を書く人って皆ああなんですか?
 問いかけは宙に吸い込まれることすらなく、電波に乗せ伝えるかも未定だ。


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