「おはよう、久子ちゃん」
「……おはようございます、姫さん」
それから数日後、朝の教室でのことである。早く来すぎたのか、私と姫さん以外の誰もいやしない。何てこったい。
あれからも姫さんは、普通に学校に来ていた。というか、あの事件以来彼女は、山茶花さんのアパートに入居していた――監視しやすいように、とのことだが、近くに住まれては気持ちが休まらないような……
「姫『さん』なんて……そんなに、畏まらないで? 大丈夫よ、もうあんなことしないから……」
「……そんなこと言って、暗示ってやつ、今か今かと掛けようとしてるんだろうっ……」
「ああ、暗示はね、『相手の血を吸う』っていう、明確な意志がある時にしか掛けられないようになってるから――私、クォーターだから、別に血とかなくても生きていけるから、普段は心配ないのよ?」
ふわーり、妖しき水仙のような笑みを浮かべる姫さん。
確かに、山茶花さんも似たような解説をして、私を安心させようとしていたが……でもこう、どうにもならない思いってのが、あるだろう!
「……ごめんね? 私、間違ってた。同じ、妖怪じゃないと一緒にいられないとか、一人で決めつけて――妖怪とか人間とか、関係ないのよね」
姫さんは長い睫毛を伏せて自嘲気味に溜め息を吐き、それから――にっこりと、笑み零れた。
色々あって、大変だったが――彼女の笑顔はやはり綺麗だと、思わなくもないのだ。我ながら単純だけれども。
「久子ちゃん、まだ、私のこと――友達だって、思ってくれてるんでしょう?」
「……さ、さあ」
「だって、そうじゃなかったら――あの化け猫さんが、近くに置いといてくれるはずないもの」
番太郎の奴、また勝手に気を利かせたつもりになりやがって……
でも、まあ。
「……妖怪に迷惑掛けられるのは、もう慣れっこだしね」
正直、彼女のことはまだ怖いけれども。
そのうちに、また笑い合ったりするようになっちゃうんだろうなあ。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯ ♯
「久子ちゃんがあんなに仁科姫に気に入られた理由――話しておいた方がいいよね」
事件の翌日の話だ。
学校帰り(本当は休みたかったのだが、番太郎に尻を引っ叩かれたのだ)、私は山茶花さんと遭遇し、例の如くお菓子に釣られてアパートを訪れていた。ちなみに、その時点ではまだ、姫さんの入居は決定していなかった。
市松模様のクッキーをボロボロこぼさないように頬張りつつ、私は頷いた。どうでもいいが、山茶花さん、姫さんのこと『仁科姫』って呼ぶことにしたのか。
「番さんには口止めされてるんだけどね――これからもこういうことがないとは限らないから、知っておいた方がいいと思う」
「……はい」
どうせ長続きしない正座をして、私は聞く態勢に入った。
「久子ちゃん、その……良い匂いがするんだ」
「は?」
何言ってるんですか、あなた。
「ああ、ごめんごめん、言い方が悪かったね、そうだな……小さい妖怪と、同じ匂いがするんだ」
「……小さい妖怪?」
「そう。妖怪同士ってのは、大体匂いでわかるんだけど――今回、仁科姫が番さんのことを妖怪だって気付いたのも、そのせいだね。で、ね。久子ちゃん、その妖怪の――幼くて、何かこう保護しなきゃいけないようなやつと、似たような匂いがするんだよ」
……どんな匂いなのだろう。
というか、妖怪って色々な種類がいるだろうに……全部に対してそういう匂いだと感じられるのだろうか?
「まあ正直、詳しいメカニズムはわからないけどね……とにかく君は、すこぶる妖怪に好かれやすい体質なんだ」
「はあ……さいですか」
何と言うか……釈然としない話だよなあ。
妖怪に好かれやすい、ねえ……番太郎とか、憎まれ口ばかり叩いているというのに。
しかし――ってことは、ん?
「アパートの人達が妙にフレンドリーなのって、そのせいなんですか?」
「……まあ、そういうのもないとは言えないな。ただ、勘違いしないで欲しいんだけど――それだけでは、ないから」
「?」
きょとんとする私を置いてけぼり、山茶花さんは軽く微笑んだ。
うーむ……まあ、いいか。
「あ……じゃあまさか、山茶花さんが何かと私にお菓子勧めるのも……」
「いやいや! ……まあ、これもまた微妙なところなんだけどね……久子ちゃん、俺にとっては故郷の妹と同じ匂いなんだよ……」
「……さいでっか」
……まあ、いいか。
紅茶葉が切れていたとのことで、出された緑茶を私は啜る。それから湯呑を置き――もうギブアップとばかりに、足を崩した。うあああ、この足、使い物にならねえ。
「……ところで、番さんとは、その後どう?」
山茶花さんが、さりげなーく水を向けてきた。
「……その。色々、切り出しづらいというか」
朝に尻をはたかれたものの――番太郎とは、それ以上の交流はしていない。今日も今日とてジャージを忘れてみたりしたものの、奴はいつまで経っても現れなかったのだ。
私だって、ちゃんと(あんな阿呆な結末ではあるが)助けてもらった礼くらいは言いたいのだ――しかし、直前に言うだけ言ってしまったからなあ……
「番さん、『自分がちゃんとついていれば、あんなことにはならなかった』なんて、思いっきり後悔してるからね――本当、久子ちゃんのこと、娘のように思ってるからね」
「は……娘ぇ!? あの猫野郎が!?」
猫のお父さん……駄目だ、気持ち悪い!
「そう嫌な顔すると、また番さん落ち込んじゃうよ……本当にね、あの人、いや猫かな? いつも久子ちゃんのことばかり考えてるから。それで構い過ぎて、『つい余計な事をしてしまった……』とか、毎回反省してるんだよ。それでもまた、世話焼き過ぎてしまうっていう」
「……あの番太郎が、落ち込むとか……」
「本当本当。よく俺らに『久子を甘やかすな』なんて言うけど、俺らからしてみれば、じゃあ番さんは何なんだいって感じだね」
そう――なのだろうか?
でも、(何度も言うが)何て言うか……
「……正直、何とも言えないです」
「そう」
微苦笑する山茶花さんを見て、私は未だ訳のわからないままである。
……父親って、ねえ。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そしていつかの日曜日――またも、山茶花アパートでのことである。
「こんなにお砂糖入れていいんですか?」
「ちゃんと本に書いてある通りに入れないと駄目だよ、生地が膨らまないから」
平和な午後だよなあ、と私は欠伸を一つ。
台所では、座敷童子と吸血鬼がケーキ作りなどに勤しんでいた。このアパートに越してきて以来、姫さんは山茶花さんに料理を習っているとかで……
「完成したら、久子ちゃんに一番に食べさせてあげるからねっ」
「……山茶花さーん、この吸血鬼の人、今度は私のこと餌付けしようとしてませんか?」
「やだもう、久子ちゃんたら」
……逞しいよなあ、本当。
作業に従事する二人を眺めるのは、私と――番太郎である。奴め、人の隣に座るだけ座って、さっきから一言も伝心してきやしねえ。
しょうがない、と、私は台所の二人に話を振ってみたりする。
「姫さんの腕前はいかがですかー、山茶花さん」
「いやー、なかなか教えがいのある子だよ」
「……私の時は、なかったんですね」
実は私も中学時代、山茶花料理教室の門下生などやっていたのだが――いつの日か、行ってもろくに指示を出されることなく、お茶を勧められるばかりになっていたのである。
「大丈夫、久子ちゃんには私が何でも作ってあげるから!」
「……餌付け禁止!」
全く、油断ならない吸血鬼だ!
と、その時。堪え切れなかったのか――隣の猫が、『ふん』と、低く短く鼻を鳴らした。
私は思わずにんまり、ここぞとばかりに言ってやる。
「ねえ……お父さん」
『ぶがっ!』
番太郎は瞳孔の細い猫目を見開き、私をまじと見上げた――しかしすぐさま、そっぽを向いて。尻尾をもじもじ、もぞもぞり。
……照れてやんの。
そんな奴の反応をもっと見たくて、ごわごわする毛を撫でながら、私は口ずさむのだ。
「ありがとう」
『……ふん』
こんな感じで、いいのだろう。
こうやって妖怪達に囲まれて、世話焼きさせたり余計なお世話を焼かれたり、心配掛けたり迷惑掛けられたり――そんな日々も、まあ、悪くはない。
これからもそんな感じで、まあ、いいか、と思うことにしよう。
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