ボノボ

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○ボノボ○



 そもそも純原先生は若手でそこそこのイケメンにも関わらず、生徒の評判はよろしくありませんでした。その原因は授業内容が平板なこともありますが、それよりも着任式での宣言がまぁ「僕は君たちの味方だ。悩み事があったら何でも先生に言いなさい」という小学生相手かとツッコみたくなるようなものだったことに由来しています。女子たちはすっかり先生をナメきっておりました。
 私もまた「小学生相手にしたらしたでまたナメられるんだろうなぁ」などと思ったものでしたが。
「僕は、現世で徳を積む。そうして来世で、ボノボになる」
 そんな先生からこんなすっとんきょうな言葉が発せられるとは、思ってもみなかったのです。
 私がようやく「ボノボになる」のエコーから解放された頃、先生は右手人差し指を突き出しつつ口を開きました。
「ところで石若君、イスラム教における最も罪深い行為とは何だか知っているかね?」
「はぁ?」
「それは偶像崇拝でも姦通でもなく、自殺なのだよ。命とは神からの預かりものであり、その期限を人間が定めるとはおこがましい、ということらしい。キリスト教などにおいても自殺は重大な罪悪だね。それ故イスラム、キリスト教国では自殺率は低い。だが、ゼロではない。どれだけ宗教で定められようと、社会に禁じられようと、人は自殺する」
「はぁ」
「強姦もまた重罪だ。人の尊厳を冒す最低の行為に他ならない。性犯罪の中で最も重い罪とされる。それを普通は誰もが知っていて、それでもなお醜い欲に任せた強姦事件は後を絶たない」
「はぁ」
「そして子殺しもまた罪深い行為だ。幼子を手にかけるなどとんでもない。時代によっては口減らしなどといって容認され、また、神に子を捧げるといった風習も存在した。だが基本的に親は子を守るべきものだと、僕らは思っている。なのに、悲惨な子殺し事件はとどまるところを知らない」
「はぁ……」
 先生はそれはもうすらすらと、語りに語るのでした。私は相槌を打つ他ありません。
「どれもこれも人の世を脅かす悪事に他ならない。これらの罪が当たり前のように起こる世界は、平和などでは決してありえないだろう。もちろん、動物の間でもこれらの行為は存在する。ゴリラは自殺するし、オランウータンは強姦をし、チンパンジーは子殺しをする。どこの世界も穏やかではないものだ。この世に楽園はないのか? ――それが、あったのだよ。ボノボの世界だ」
「あの、ボノボって、なんでしたっけ?」
「確か、サルの一種だよ」
 確かっておい、と思わずツッコみそうになります。が、その間もなく先生は畳みかけるのです。
「ボノボは非常に平和な存在とされる。その世界には自殺も強姦も子殺しもないらしい。まさしく悪のない理想郷――それは人の世など及びもつかない、楽園そのものなのではないだろうか」
「え、はぁ……?」
 私がぽかんと、コメントに困っていると、先生はまた唐突に切り出しました。
「ところで君は輪廻転生について知っているかい? そのうち授業で教える予定なのだが」
「え? ええと、大まかには。現世の行いによって、来世でなにに生まれ変わるかが決まる、でしたっけ?」
「そうだ。行為――業によって次の生が決定される。悪い業を積めば次の生まれは悪くなり、よい業を積めば次の生まれはよいものとなる。一般に、人間はその中でランクの高い生き物だ。が、僕は思う。人間に生まれることが真に幸福か? 貧乏だろうが金持ちだろうが、どんな国だろうが、こんな糞のような人の世に生かされる時点で地獄とさして変わりないのではなかろうか」
「えー……」
「そこで、ボノボだ。その世界は真の楽園。とするならば、徳を積みよい業を積み生まれ変わることのできる最上の生き物とは、ボノボなのではないか」
 先生は有無を言わさぬ口調で、最後には再度右の拳を丸めこみ、主張を終えるのでした。
 色々と口をはさみたいことはありました。そのボノボというのがどんな生き物か知らないけれど、動物の世界なんだから暴力だの闘争だのと無関係ということはないのではないでしょうか? とか、輪廻の最高位がボノボとはあまりにオリジナリティが過ぎる言説ではないでしょうか? とか。しかし、澄みきった瞳の、その奥底が真っ黒く揺るがない先生を前にして、それらの言葉がいったいどんな意味を持つのでしょう。反論を述べる道が徒労にしかならないのは明白で、私は先生の主張を認めたふりをしつつ対応していく以上ありませんでした。
「……それで、先生は徳を積んでボノボになりたいと。ボノボになるために、クラスで孤立している私を助けようと思ったと」
「そういうことさ。若い者をよい道に導くことはきっと、多大なる徳を積むことに違いない。だから教師になったのだよ」
「へえーぇ……それで『悩み事があったら何でも先生に言いなさい』ですか。困っている子がいたら助けてあげるんですね」
「ああそうさ」
「私、困ってません。きっと他の迷える子羊たちが先生の手を必要としていることでしょう。私にかまわずそんな子たちを助けてあげてくださいね、それでは」
 にっこり笑みをこぼしながら、私は椅子から立ち上がりました。食べかけのお弁当は会話の最中に畳んでおく周到さです。
 が、そんな流れるような動きの私を、無粋にも先生は引き止めました。腕をつかんで、真面目な顔で訴えてくるのです。
「待ちたまえ。救いが欲しいのに無理をすることはない。楽になるんだ」
「だーかーらぁ、クラスで孤立していることについては、おいおい自分でどうにかします。先生のお手をわずらわせるような問題ではないのです」
「いいや! 悪人正機説というのを知っているかい? 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。その本意は悪人こそまさに阿弥陀仏に救われる対象である、ということだ。ここでいう悪人とは、自分で自分を救うことができるとは思っていない者のことだ! まずは認めなさい、自分以外の力が必要であることを」
「あの、詳しくはわからないのですけど、先生、倫理と思しき知識を自分の都合のいいように使っておりませんか? そもそもですね、この事態は私が招いたことなのです、そして大したことはありません、今は大人しくしている最中なのです。あといい加減放してください、セクハラで訴えんぞ! ……っです」
 先生は渋々といった風に手を放しながら、「今あきらかに、『です』って後づけしたよな……?」などとぶつぶつ言います。しかし首を振ってから、じっと、まっすぐに私を見るのでした。
「この事態は君の招いたことだ、とはどういうことだね?」
「それは……」
 勢いでついつい余計な情報を与えてしまいました。私は適当にはぐらかす方法を模索しましたが、この先生は一人ぼっちな私を救う気まんまんであり、下手な嘘をつけばその方向で暴走されることになりかねません。さしたるデメリットもないだろう、と腹をくくり、真実を語ることにしました。
「この学校にいる私と同じ中学出身の子は少数なのですが、その中でも高い割合がうちのクラスに集中しておりまして。そこに一人、中学三年の時も同じクラスだった人がいてですね」
「ほう」
「その人が、高校で私と同じクラスだとわかるや否や、クラスメート全員に私が中学時代にしたことを吹聴したのです。それで、新学期早々孤立ルートを歩むこととなりました」
「中学時代君がしたこと、とは?」
「クラス内の友人関係、恋愛関係、その他裏事情を掌握して、人間関係めちゃめちゃにしてやりました」
 端的に、ありのまま、教えてあげました。なのに先生は、気のせいでしょうか、わずかばかり私と距離をとってみせたのです。
「……え、人間関係をめちゃめちゃに、とは」
「AちゃんがBくんのことを好きだとわかればAちゃんのことをよく思っていないCちゃんをそそのかしてBくんとくっつかせてみたり。そのCちゃんにさらにDくんを接近させて乙女心を揺さぶった上で、AちゃんにさりげなくCちゃん二股疑惑を与えてみたり。あと、EちゃんとFくんは清い友情を育んでいたのですが、Eちゃんに『Fくんはあなたのこと好きなんですよ』と吹きこんで、二人の関係をぎくしゃくさせてみたり。ぎくしゃくしつつも上手くくっつきそうなところに、Bくんを諦めて次の恋を探す方向に先導したAちゃんを差し向けたり。その間二股疑惑のCちゃんとAちゃんに陰湿な女の戦いなどさせてみるフェーズをはさんだ上で、男の友情を結びあっていたGくんとHくんに火種をまいてみたり。途中までは陰から上手くやってたんですけど、少しドジ踏んじゃって、一部の人にバレちゃったんですよね。あれは我ながら失態でした。それ以来クラスでハブにされて、私をのけものにすることでクラスメートたちが卒業までには多少まとまっちゃった感じですかね。まぁだいぶデフォルメしましたがおおよそこんな感じです」
「……ええとすまない、よくわからないのだが」
「えー? ではわかりやすいところで、クラスのリーダー格だったKくんを」
「いや、個々の事例はいいのだよ! ……そうではなく、君は、何故そんなことをしたのだ?」
「え? だって、面白そうだったから」
 当然のことだったので当然のことのように言いました。
 ですが先生は――心なしか二歩分くらい、もはや窓に達する勢いで、椅子ごと私から遠ざかっているのですが。
「面白かったって……クラスの人間関係、壊しまくって?」
「はい。いやぁもう焼野原、一時は中学史上類を見ないくらい険悪なクラスでしたよ。暴力沙汰なしであのレベルで雰囲気の悪いクラスって、なかなかお目にかかれないんじゃないでしょうかね」
「その、そんなことをしてどうなるか――考えなかったのか?」
「はぁ? クラス仲が悪くなると思いましたが」
 そうじゃなくて、と先生は言いかけました。しかしすぐに口を閉ざし、眉間にしわを寄せながらなにやらスマホを取り出し調べ始めます。
「二、三質問いいかい」
「はい?」
「問一、『あなたは妹と一緒におばあさんの葬式に行きましたが、そこで出会った男性に魅力を感じてしまいます。男はあなたとあなたの妹さんの理想のタイプでした。そしてその翌日、あなたは妹を殺しました。どうしてそんなことをしたと思いますか?』」
「妹を殺せばその男と葬式でまた会えるからじゃないですか?」
「……問二、『サンタクロースが男の子にサッカーボールと自転車を与えました。ところがその男の子は喜びませんでした。何故でしょうか』」
「男の子には足がなかったからじゃないですか?」
 二、三質問があるというので問三を待っていたのですが、そんな私の目の前で、先生は頭を抱え始めました。いったい、なにごとなのでしょう?
「先生、あのー」
「……石若君」
「はい?」
 先生は、うっそりと頭を上げました。その口元や眉は引きつり、ひどく不格好なお顔になっておられるのですが。そのままの表情で、しかし不思議と決然とした様子で、先生はこんなことをおっしゃるのです。
「どうやら僕は君を救うことはできないようだ」
「はい?」
「だって君を救ったら、解脱してしまうかもしれないではないか」
「……はい?」
 大きく首を傾げる中、視界の隅に先生のカップ麺が映ります。あぁそういえば食べかけでしたね、中身はさぞやのびきっていることでしょう――そんなことを、どうでもよく考えつつ。



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