北九州

prev/top/next 


11



 その日はまだ六月末だというのに冗談のように暑くて、額は絶えずてかり、ワイシャツの下の肌を時折つうっと汗が伝っていく感触があった。
 隣の彼女に手紙を書く中。ふいに、前の席から四つ折りにしたノートの切れ端が放られた。
 開いてみる。
『園江さんへ。今日の放課後、五時半頃に教室に来て!』
 やけに丁寧に書かれた文字だ。五時半。部活のない生徒の下校時刻。
 わけがわからなくとも、教師の目を縫って視線は降り注ぐ。行くしかないのだと目の前が濁る。
 放課後、図書室で時間を潰してから、指定された時刻五分前に教室へ向かう。廊下は既に人が失せていて、グラウンドや、かすかに体育館から聞こえる運動部の練習音が耳に届くばかりだった。
「園江さん! ちゃんと来てくれてよかった〜」
 教室にいたのは、いつもの女子たちにクラスの男子数名、おそらく隣のクラスの、かすかに見覚えのある女子男子――思わず目を見開いた。その中に、あの日告白させられた、名前も忘れた男子がいたのだ。
「あのね、――くんが、お話あるって」
 教室に集まった十数人の生徒たちは、皆似たような笑みを浮かべている。
「園江さん、この前、告白してくれたよね」
 あの男子が、頭をかきながら口を開いた。目尻には歪んだしわが寄っている。
「あの時、断ったんだけどさ――」
 ばりばりばり、しきりに頭をかく男子。隣の男子をつついたり、女子に目配せしながら、「ちょ、これ本当に言うの?」と、口の端は笑ったまま。
 そんなやりとりがしばらく続いた後、クラスの女子が、「仕方ないなあ」と大げさに肩をすくめた。
「――くんね、園江さんがここで服を脱いでくれたら、好きになるかもって」
 は、と、口に出したかすらわからない。
 教室に散らばる男女の、視線が、視線が、視線が、一息に集中する。無意識のうち、シャツの胸元のボタンを手でぎゅっと握っていた。
「ほら園江さん! チャンスだって!」
 チャンス?
 なにが?
 わけがわからない。きょろきょろと教室を見回す。にやけ顔の全員。奥の方には不安そうに瞳を揺らめかせた彼女。
 教室を見回す。前と後ろにある入口の前には、男子がしっかりと立っている。目の前には頭をかく男子。しきりに肩をたたく女子。
 足がすくんだ。シャツを握りしめる。
 からだが、がくがく震える。視線がまとわりついて動きを奪おうとするようだ。笑い声、笑い声、笑い声。
「ほら、早くう」
 出入り口前には人がいる。前から、後ろから、左右から、視線が包囲する。
 すがるように、窓を見た。
 外はひたすらに薄青くて。
 ああ。
「そら――」

×   ×   ×   ×

「大丈夫。大丈夫。大丈夫だから」
 ベッドに座った彼女は、自分で自分を抱きしめてその身体を震わせていた。
 ぼくは肩をつかんで声を届けたいくらいだったが、今の彼女に触れるのはきっと酷だ。椅子に座って、形だけでもいつも通りを装う。
「あいつらの脳は汚染されてもう駄目なんだよ。だから今日きみにしたことなんて一つも覚えてやしないんだ。あいつらは何も見ていないのと同じだ。だから大丈夫。大丈夫」
 ――本当は。
 教室にいた生徒たちが携帯のシャッターを押したことは想像に難くないし、ただ見られただけなどと信じてはいない。
 だけど。
 彼女の華奢な腕が小刻みに震えるのを前にして、ぼくが言うべきことは一つなのだ。
「北九州では。インスタントラーメン一日一食十分以内で食べきらねば通電、寝具も暖房器具もなく真冬の風呂場でワイシャツ一枚、時に冷水を浴びせられ執拗に殴打され吐瀉物を大便を食べさせられ死んだら娘が遺体処理をやらされ度重なる通電で難聴になり夫に殺され夫が衰弱死し子供が子供に殺されその子供も死ぬ。そんなことが起こっているんだ」
 立ち上がり、うなだれた彼女の頭に向け真っ直ぐ、強く言葉をぶつける。
「大丈夫。これに耐えきればもうすぐだ。きみは強くなるんだ」
 神さまももう少しの辛抱だと言っていた。
 だからぼくも、それを彼女にインプットするのだ。
「大丈夫。もうすぐ終わる」
 そうしてぼくは、彼女の頭に右手を載せた。少しだけ力を込め、さながら「大丈夫」をてっぺんからプログラムしていくように、ずっと続ける。
 長い沈黙の終わり、彼女は「はい」と、うなずいた。
 その顔を見る。瞳は、底を見るのをためらうような真っ黒。うるむことなく、その目は割れそうなくらいに乾いている。
 大丈夫。
 大丈夫なのだ。

×   ×   ×   ×

 席に着いた友人は、喉に小骨が刺さったような、芳しくない表情をしていた。
「うーん……そうだなあ」
「はっきり言ってくれると嬉しいんだけど」
 小説を書き終えた。それをメールで送り、読んでもらって現在。授業の空きコマ、休憩スペースでわたしは感想を待っていた。自販機のコーヒー、缶の表面は瞬く間につぶつぶと水滴をまとっていく。
 友人は言葉を選ぶように沈黙した後、歯切れ悪く口を開いた。
「好みの問題とか、難しいじゃない?」
「つまり、あなたの好みではなかったと」
「……つまり、そうだね。うーん、難しいんだけどなあ……」
 印刷した小説をぺらぺらとめくりながら、どのシーンについてコメントするか迷う様子の友人。と、あるページで手を止める。
「そうそう。『不幸は耐性』の話、出てきたじゃない」
「ああ」
「これも個人の意見の範疇に過ぎないかなあ……私はね、こう思うよ。確かに不幸な目に遭い尽くした人は、ちょっとやそっとじゃ動じなくなるし、幸せもより感じられると思う。だけどそこまでなってしまう――それこそが、本物の不幸なんじゃないかな」
 目だけが、睨みつけるように友人を向いてしまった。
 膝の上に握った手のひらには汗が滲んでいる。
「ちょっとした災難にあたふたして、自分は平和ぼけした幸せ者って自嘲できるっていうかさ。そのくらいが、幸せって言えるんじゃない?」
「そう、かしら」
「それに痛みを感じなくなっても、結局感じないって思ってるだけなんだよ。きっと心の内部ではダメージが蓄積されて、ぼろぼろになってる。いつかは、破綻しちゃうよ」
 あくまで私の意見だけど。そう付け足してから、友人はその他の部分について指摘し始めた。わたしは手のひらを握りしめたまま。
「場面の描写とかはわかりやすかった。すごく目に浮かんでくる。だけどそうだなあ、キャラの気持ちが伝わってこないっていうか」
「気持ちが?」
「なんていうかね、こんな目に遭ったらもっと苦しむんじゃないかっていうか。酷い言い方すると、人形じみてる。淡白な性格ってわけでもないし、もっと辛そうなのが伝わってきてもいいんじゃないかなって……」
 なるほど、と努めてクールに、返答する。メモをとるわたしの手がわずかに震えていて、もはやメモにもなっていないことに、友人は気づかない。
「あとそう。これも個人の好みかなあ……ラスト、さあどこかへ行こうってなるじゃない。これがどうも、しっくりこないの。なんていうかさ――結局、主人公たちは何も変わってないじゃない。それで別の場所に行ったって、変われるわけじゃないと思う。場所を変えたって、同じことの繰り返しだよ。そういう意味では、救いようがない、のかなあ……」
 その言葉は少しの間だけ、わたしの心をさらっていった。
 どこへ行っても?
 それから彼女はいくぶんすらすらと言葉を続けたが、もはやわたしの耳には届かなかった。
 自分の中で納得しきれぬものを相手にぶつけ、返ってきたのは予想通りの感想と予想以上に心抉る感性。
 田舎で彼女と寄り添い田舎から出て様々なものを目にしてきた。そうして自分の中に蓄積したものを人物にして、描写にして、形にした。だけどそれは、他人の言葉で容易く「違う」と折れてしまうような、誇りを持ち続けることがかなわぬような、自分自身で納得いかないような、どうしようもないものだった。
 わたしはどうしたらいい?
 無理矢理口にした缶コーヒーは、何の味もしなかった。



prev/top/next 
傘と胡椒 index



Copyright(c) 2013 senri agawa all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system