北九州

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3



 街中にある高校は、いつもにぎやかさに取り囲まれている。朝の静かな空気を無視して明るい挨拶の声、グラウンドからは運動部が体操している声。
「おはよー」
「はよー」
「宿題やった?」
「昨日のあれさー」
「いーちにっ、さんしっ」
 陽が昇るにつれ増していく、誰かの、誰もの、声、声、声。
 玄関で靴を取り換えて、廊下を歩いて、教室へ。声の渦に、のまれていく。
 席に着くと視線を感じる。にこにこにこにこ、ひたすらに愛想のよい、いくつもの目。こちらを包みこもうとしているような。席に固定される。動けない。チャイムが鳴る。授業が始まる。しみだらけの教科書を広げる。クスクスと、かすかな声。
 休み時間に席を立つ。こちらに付き添う女子たちと、その場に残り笑顔を貼り付ける女子たち。戻ってきてふと鞄に触れると、重みが少なくなっているような感覚があった。周りには朗らかな女子たち。そのまま席に着くしかない。
 昼休みになり鞄を開けると、弁当がなくなっていた。
「園江さあん」
 教室の後ろの方から、呼びかける声。
 ゆっくりとそちらを見ると、ある女子が、ごみ箱を指差して言うのだ。
「園江さんのお弁当、ここに落ちてるよお」
 こちらを見つめる、穏やかな視線。席を立って近寄って、ごみ箱の前で立ち止まる。視線の重たさが増していく。しゃがみ込んで、ふたが空いて中身が半分こぼれた弁当を眺める。視線。ぎこちなく、赤い弁当箱を手に。
「駄目だよお。せっかくお母さんが作ってくれたんでしょ?」
「落としたりしたら、駄目じゃん」
 視線。諭すような甘やかすような、柔らかい声。
 そのまままた席に着いて、和やかな雰囲気に包まれる中弁当に箸をつけた。
「午後の授業だりー」
「今日天気良いよねー」
「数学また課題出たし」
「ありえねー」
「このおかず交換しよー」
 学校はにぎやかさに取り囲まれている。
 声の渦にのまれていく。

×   ×   ×   ×

 真白い寝室の、ベッドに横たわる。一人でいると、ぼくはつい寝てばかりだ。
 今頃彼女は学校の昼休みだろうか。昼休み。弁当を捨てられるのももはや定番だろう。
「定番、だよ……」
 天上を仰ぐ。意味もなく手を伸ばす。
 今日もぼくの家に立ち寄るであろう彼女は、さて、どんな目に遭いやってくるのか。
 寝返りをうち、うずくまって目をつぶる。昼はあまりお腹が減らない。今日はご飯もいらないかな、とぼくはひとりごちる。
 弁当を捨てられるくらいならば、調整も必要ないだろう。彼女自身ももうわかっているはずだ。そのくらいのことならば、対処を施すことはない。耐性をつけてきている彼女には、何の傷もつきやしない。メンテナンスもいらない。そのくらいのことで、もう、何も感じる必要はないのだ。
「そのくらいの、ことならば」
 一人過ごす部屋は時間の流れがひどく穏やかだ。
 眠たくなるくらい、静か。

×   ×   ×   ×

 大学の昼休みの食堂はうじゃうじゃと、おたまじゃくしの群れのように人がいて落ち着かない。だからわたしと友人は昼を避け、前後の授業中に食事をとることにしている。
 ミートソースのスパゲティをたぐる、小説仲間の友人の手元を見つめながら、わたしはふと尋ねてみたかったことを思い出した。
「ねえ……いじめの経験って、ある?」
「いじめ?」
「した方でも、された方でも。傍観者でも」
 わたしはサンドイッチを頬張る手を止めたまま、友人の返答を待つ。友人は「うーん」とたっぷり考えた後、フォークを下ろして口を開いた。
「ないかなあ。思えば小中高と、平和だった。他のクラスとかなら、噂くらいはあったけど」
「そう」
「どうしたの? 急に」
 わたしは別にとハムサンドを一口。すると今度は友人は、訊かれたわけでもないのに、眉を寄せ大事なものを含んだように重たい口調で呟いた。
「話にいじめの描写とか出す時は、だいたい本とか参考にしてるかな。でも……そういうの見てると、どうしてこんなことできるのかなって、気分悪くなるよ」
「……ふうん」
 友人に合わせ、わたしも溜め息などついてみる。
 それからわたしたちは、今後書く予定の小説だとか、そんな話をにぎわせていった。友人より先に食べ終わったわたしは手持ち無沙汰になって、巻いた長い髪を指で弄んだりする。
 髪に目を落とし、友人に語る内容を考える隅で、ひとり反芻する。
 どうしてそんなことができるのか。数年前のわたしは「汚染されてしまったから」とうそぶいた。
 そして今はその言葉を、彼女が大事にあたためている。



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