北九州

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 落ちるのは一瞬だった。
 下校時間、女子の群れの中階段を歩いていた時。ふいに、肩を強い力がぶつかり、浮かせた左足が前へとつんのめった。あ、落ちる、と冷静に思うのもほんの一刹那、頭が真っ白になる。次目を開けた時には、一階の床に転がっていた。
「園江さん、大丈夫!?」
「もー、ぼおっとしてるから!」
 すぐさま駆け寄るその場の女子たち。助け起こされると、膝に鈍い感触、右手にずくずくとした感触を覚える。視線を向けると、左膝が青黒く変色し、右手のひらは擦れて赤い血が滲んでいた。
「あーあ、汚れちゃったね」
「そうだ、汚れ、落とさないと」
 手のひらを見つめる途中で、女子らに背中を押された。ついていく廊下で、教師とすれ違う。
「なんだー、どうした」
「園江さんが転んじゃったんですよー」
「おいおい、保健室行けよー?」
 教師はそのまま通り過ぎていく。女子の群れとたどり着いたのは、一階の隅のトイレ。
「さ、入って入って。制服、埃だらけでしょ?」
 促されるまま、個室へ。
 数瞬後、上から水が降ってきた。
 どっ、と一気に衝撃が頭から振り下ろされ、すぐに全身を冷たさが、水滴が支配していく。ぼたぼたぼたぼた、髪から顎から腕から、水が滴り落ちる。ブレザーがスカートが、水を吸い重くなり、その下のワイシャツは肌にべっとりと張り付く。ほた、ほた、ほた、ほた、毛先から落ちていく粒のスピードが緩やかになるのを、しばらくぼうっと感じていた。
 個室のドアが開く。
「汚れとれた?」
 出迎えるのは複数の、皆一様の笑顔だ。
 それから彼女らは「じゃあね、気をつけてね」と手を振って、トイレを出ていった。水滴が収まるまで、その場を動くことはできない。
 濡れた全身で、廊下へと足を向ける。いつの間にか人の姿はなく、それでもグラウンドからは明るい声の残響が届く。
 髪の毛が張り付いた頬を、冷たくまとわりつく靴下を、未だにぎわいの最中にある空気が覆う。擦りむいた手のひらの赤が、水に滲んでうずうずと鈍いうなり声を上げた。

×   ×   ×   ×

 シャワー音が途切れ、風呂の戸が開く音が聞こえてくる。少ししてから、ぼくは脱衣所のドアに手をかけた。
「博士」
 上気した頬を彼女は見せる。ぼくはそれに手招きした。
「ちょっとおいで」
 バスタオル一枚だけ巻きつけた彼女を、ぼくはいつものようにベッドに座らせる。石鹸の匂いなんかさせて帰ったら家族に誤解されてしまうから、彼女はただ身体を温め汚れをとっただけだ。真正面に座り、伝わってくるのはお湯のにおい。まだ髪の毛は濡れ、濃い艶をまとい彼女の肩下にべったりと張り付いていた。
「少し、復習しようか」
 黒い、無機質な瞳を漂わせる彼女にうなずいて、ぼくは手にした大学ノート、そこに挟んだプリントを取り出す。軽く目を通してから、すうっと息を吸う。
「北九州監禁殺人事件――二〇〇二年に発覚した、福岡の方で起きた事件だね。日本史上類を見ない凶悪な事件だったけれど、その内容の残虐性から報道が自粛され、そんなに知名度が高い印象ではない」
「はい」
「容疑者である男女は内縁関係にあった。殺されたのは男の知人男性、そして女の家族全員」
「ちゃんと、わかってます、博士」
 彼女と目を合わせる。固い瞳。じっと見てから、ぼくはまた目線を落とした。
「被害者全員、そして容疑者の女は男からマインドコントロールを受け監禁されていたとされる。知人男性は借りられる限りの借金をさせられ男に渡した上、通電リンチ――電線を腕なんかに固定して電気を流す虐待、を受けていた。もはや拷問と言ってもいい。それは次第にエスカレートしていって、知人男性は一日一食しか与えられない上、十分以内で食べ終えなければ通電される生活を強要された。彼が監禁されたのは真冬だったけれど、ワイシャツ一枚で風呂場で寝かされた。栄養失調で嘔吐すれば、その吐瀉物を食べさせられた。裸にして冷水を浴びせられた。下痢をすればそれも食べさせられた。空き瓶で殴打された。ささいなことで通電を繰り返された。男性の小学五年生の娘も拷問に加担させられた。男性はそのうち死亡した」
 プリントをめくる。かさ、と乾いた音が鳴る。
「数年後。今度は女の家族――父母と妹、妹の夫と娘息子がターゲットとなる。土地を担保に借金を強要され、金にならないとわかると殺されていった。まず女の父親が通電により殺される。実行したのは実の娘である、容疑者の女だ。男は手を下さない。通電と心理的負担により女の母親が精神に異常をきたし、殺される。実行したのは妹の婿、殺害をするようほのめかされ、絞殺に至ったとされる。妹も婿により殺される。婿自身も浴室に監禁され栄養失調で亡くなった。妹夫婦の息子も殺される。わずか十歳の、妹夫婦の娘がその殺害に加担させられる。その娘も殺される。女を残して家族全員が死んだ」
 ふう、と息をつく。胃の奥が気持ち悪い。
 ぼくはプリントをノートに挟み直してから、彼女と真っ直ぐに向き合った。
「ここまで非道な、残虐なことができてしまうなんて、どう考えてもおかしいよね? その他にも九州北部一帯では、信じられないような事件がいくつも起きている」
「福岡の一家四人殺人」
「そう。一家四人が強盗に遭い殺される事件だ。一家殺害事件がやたらと目につくね。大牟田では家族四人全員が強盗殺人に加担、とある一家とその長男の友人を殺害して、家族全員死刑になったなんて事件もある。それから」
「佐賀の、水曜日の絞殺魔」
「女性七人が連続して絞殺された事件。これは未解決だ。その他にも、佐世保では小学生が小学生を殺した。その他にもその他にも、残虐な事件がたくさんある。どう考えてもおかしいんだよ」
「はい」
「北九州には、悪い電波が流れているんだ。人をとびっきりおかしくさせる、凶悪な電波が」
 バスタオル姿の彼女の肌はもはや熱を落として、白く静かにたたずんでいた。見つめているときめ細やかな質感に吸い込まれそうになる。肉の薄い身体。華奢で固そうなイメージ。そこからほろりと、小振りな鈴のような声が漏れる。
「人が酷い事件を起こしてしまうのは、北九州の電波のせいなんですよね」
 首をわずかに傾げるようにして、彼女は呟いた。それはまるで夢のような調子。ぼくは首を浅く縦に振る。
「そうだよ。九州北部が一番じかに被害を受けている。だけど電波はこの国全体に届いているんだ」
「はい」
「だから、きみの周りの人間がこんなことをするのも、その余波なんだ。だから――」
「北九州を潰してしまえば、すべて、終わる」
 しっかりと、うなずきあうぼくと彼女。
 ぼくは立ち上がり、ベッドに座る彼女に一歩踏み寄った。ガラス玉のような瞳を見据えてから、彼女の胸の真ん中あたり、骨の感じられるラインに手を押しあてる。固い質感。だけど強く押せば砕けそう、まだまだ脆い。
「北九州を潰す」
「だけど」
「悪の総本部は電波の渦だ」
「生身の身体では耐えられない」
「あっという間に汚染されてしまう」
「だから」
「耐性をつけないと」
「どれだけ周りが狂っても」
「正気でいられるように」
「痛みに苦しみに恐怖に不幸に」
「なにものにも負けない耐性を」
 彼女の髪の毛から肩へ、水滴がすっと垂れる。それはやがてぼくの手に到達し、つうっと、肌に吸いついていった。
 ぼくらは博士とロボット。神さまがぼくを作ったように、ぼくもロボットを作る。悪の総本部にも負けないくらいに強いロボットを、ぼくは作る。

×   ×   ×   ×

 頬が痛くて目を覚ますと、パソコンの前でつっぷしていた自分に気づいた。レポートの途中でつい寝てしまったらしい。変な跡のついた右の頬を軽くさすってから、わたしはマウスを動かした。真っ暗だったディスプレイに青く光が灯る。
 まだ頭が半分夢の世界のようなので、わたしはレポートのファイルを閉じてネットを立ち上げることにした。気分転換、なんて自分にする言い訳が白々しい。ひとまず趣味の悪いニュースばかりを集めたサイトをクリックしてみる。
 大学に入って一人暮らしをするようになって、ようやくネット環境が整った。高校まで住んでいた場所は途方もない田舎で、一家に一台パソコンがあるなんてこともなく、青々とした田園と古ぼけた家々、淀んだ空気をまとう学校の校舎に心だけ中途半端に今時ぶった子供たち、そんなものしかなかった。部屋の隅にはその中で書き溜めた原稿用紙、目に映るもの頭に浮かぶものを綴ったノートが積まれている。今もたまに見直すけれど、そのたび眉を寄せたくなるような、口元をほころばせたくなるような、妙な気分に襲われる。
 サイトのトップページに、新しい事件の見出しが載っていた。『高二の少年、母親を殺す』そんな特に珍しいものでもない、ありふれた話だ。
 マウスを操作する横でふと、頭の片隅が過去を検索しだす。
 そういえばいつ頃だったろう、小学校高学年? そんなあやふやな時期に、テレビで、エリート家庭に生まれ育った少年が母親を殺す事件のドキュメントのようなものをやっていた。海外のニュースを取り上げる番組だったと思う。彼は幼い頃から厳しくしつけられ、ドアの閉め方一つとっても「音がうるさい」などと殴られたりしていたらしい。そんな家庭から逃げることもできない日々の中、少年は母親を殺してしまう。
 わたしはそれを見て、なんだか、ただただショックだったのだ。涙をこぼした。自分の親が「ここまで追い詰められていたのなら、こうなるのも当たり前だろう」と冷静に言っていたのがまた、胸の痛みを大きくさせた。
 あの頃は本当に単純に、「子供が親を殺す」という行為が、ありえない、あってはいけない話だと思っていたのだ。おかあさんを殺してしまうなんて、そんなの、嫌だと。
 ニュースの詳細に目を通す。進路のことでトラブルがあったとか、そんな内容。戻るボタンを押す、別のニュースへ。なんだか物足りなくなって、わたしはワードでまとめておいた、彼女に聞いた「ロボット」の記録を開いた。
 体操服がなくなる。その後泥だらけになって鞄につめられていたその服で、体育の授業を受ける。制服がなくなる。体操服のまま教室で授業を受ける。隣のクラスに貸し出しさせられた教科書が真っ黒になって返ってくる。宿題のプリントがなくなる。勉強道具一式がなくなる。トイレの床で、薄汚れた水にひたったそれを拾わされる。弁当をごみ箱に捨てられる。その弁当をそのまま食べさせられる。皆している制服のリボンがなくなる。ごみ箱の中から見つかり、つけるよう促される。階段から突き落とされる。トイレで上から水をかけられる。etc,etc.
 最初は彼女にノートを貸してもらい、それをすべてワードに落としていたが、今ではその場でだいたい覚えて家に帰って要点だけまとめている。そうして、これがまだ見ぬ「ロボット」の日常、耐性をつけていく過程か、と溜め息を漏らすのだ。
 ふと思う。
 親を殺す気持ちがわかるようになったのは、いつ頃のことだったかと。
 こんなことがあって、こんな理由があって、こんなはずみで、殺してしまうこともあり得るのだと――いつから、納得できるようになったのだろう。
 まだレポートに手をつける気になれなくて、わたしは現在執筆中の小説のファイルを開くのだった。



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