幸せになれない星の住人 1−1

幸せになれない星の住人

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1−1


 きっと、このクラスメートが自分の名を覚えていたのは変な名前だったからだろう。あの瞬間、固まってしまい足が動かせない中で、私はぼうっとそんなことを考えていたように思う。
 おおげさで気の引ける言い方だけれども、たぶんそう、色々な運命が変わったであろうあの日。単なる気まぐれが後の運命を大きく左右することもあるのだと、唯一自分の人生の中で実感を伴って認識できるあの日。
 気まぐれな、高校三年生になってまだ浅いあの日あの瞬間、私は呆けた頭でクラスメートが自分の名を呼ぶのを聞いていた。
 あの時のことを思い出す度、心の内に起こる感情がなんなのかわからなくて、私は苦笑いするしかなくなってしまう。


 四月の末、ここ一週間ずっと晴れていた空は、一面白く濁っていた。もやんと停滞しているような空気を吸い込んでみるも、いつもより無味な感じ、あまりにおいも嗅ぎとれない。陽は隠れているが、雨の降る様子はなさそうだ。私はくすんだオレンジ色のマンションを出てしばらく、そうやって空を見上げていた。目が、意識が吸い込まれる寸前、視線をそらし歩きだす。
 早めに起きたせいか、漠然と眺める通りにはいつもより人の姿がない。車二台が通るのもぎりぎりな道の端を、ひとりで進んでいく。マンションの立ち並ぶ一角は、住んでいる人数のわりにはずいぶんとおとなしかった。建物の向こう、大小様々な商店や飲み屋の連なる通りの方から、かすかな喧騒が耳に届く程度だ。高い高いマンションの群れを少し行けば、今度は一軒家の群れ。
 その中の、薄緑色の家の前で私は足を止めた。去年外壁を塗り替えたばかりの小綺麗な家。チャイムを鳴らす。ビーっと、やや汚い音がするけれどそれだけ、中からは特に反応がない。しばらく待ち、もう一度、ボタンを押してみるがやはり返事はなかった。玄関を出て、薄緑色の家を眺める。カーテンの開いた窓の奥は静かで人の気配もなく、朝の空気にたたずむのみ。庭の芝生が無造作に伸びかけている。ため息をついてから、私は再び足を前へと向けた。
 立ち並ぶ一軒家はどれも似た形をしているくせに、色はばらばら、とりわけ外壁工事をした家はつるつると発色よく目立っていた。ただ、住んでいる人が注目するのは壁ではなく庭だという。どこの家もさつきを植えたりぼたんを植えたり、凝ったところだと薔薇を庭一面に張り巡らせたりする。小さい頃から見てきたけれど、ここらへんの近所づきあいが盛んとはとても思えない。かろうじて挨拶をする程度の関係の連なりだ。そんな中でも見せびらかし競うように、あるいは臭いものを隠すように、住人たちは綺麗な花の匂いを植えつくす。だけど本当に臭いものに蓋なんてできていないことを、わかっていないのか、もしくはすでにわかっていて続けているのか――ごまかすように、ずらずらと考えていた、その時。
 きぅん、と何かが聞こえた気がして、私はうつむいていた顔を上げた。
 見ると、家々の中でも古ぼけた一軒の塀に、小さな黒い塊がある。薄いブルーのまんまるが二つ、輝いた。
 そこにいたのは真っ黒い、子猫だった。こちらをまばたきもせず、ひたすら見つめている。見つめ返してみると、子猫はしばらくぴたりと動きを止めて固まった。淡い宝石みたいな目が大きく見開かれる。が、次の瞬間には首を傾げてきぅん、とか細く鳴いてから、とてとて塀を歩いていってしまう。
 その姿を見送って、少しだけ口元をゆるめてから、私はまた歩きだした。

 朝のホームルームの時間、教室に入ってきた担任はまずざっとクラスを見回した。真ん中の空席に先生が目を止めた時、目立ち始めた額のしわがいっそう深くなるのを、私は確かに見た。担任の会澤先生は「小林さんは今日も休み、ね……」とひとり確認するようにつぶやき、それからよく通る声で連絡事項をクラスに告げた。五分もしないうちにホームルームは終わり、先生は去っていく。途端、教室は話し声で包まれだした。
「そらちゃん、今日も相子(あいこ)ちゃん休み?」
 私が背中をつつかれたのもすぐだった。振り向くと、申し訳程度に眉尻を下げる友達の姿がある。去年も同じクラスで、そこそこ仲良くしていた彼女に苦笑いを返しながら、私はうなずいた。
「うん。今日も病院、みたいだね」
「そっか……大変、だよねぇ」
「うん……」
 それから彼女は取り繕うように一時間目の準備を始め、私も半分後ろを向いたまま、それにならって現国の教科書、ノートを机から取り出していった。「もう五月になるんだよね」「中間もうすぐなんだよね」「三年は模試とかあるから中間なくせばいいのに」と、少し前からさんざん繰り返してきた内容を口々に言い合う。それから気分を変えようと、テレビの話に部活の話。
「そういえば、例の後輩とは仲良くやってる?」
 そんな流れの中で、彼女がそれを口にするのも自然だった。私はなんてことなさそうに、肩をすくめる。
「ああ、うん。『先輩の声は小さくて聞き取れません』って言われた」
「うえぇーっ……すっごいズバズバ言う子だよね。私、そういう後輩って当たったことないからわかんない」
「まあ、たぶん悪い子ではないから」
 後ろの彼女とは違う部活だから、部活動の話は互いによくネタになった。最近ではこんな後輩が入ってきたとか、事件っぽい出来事があったらそれをおおげさに、そんな感じに世間話をするのが主流だ。ただ、深い話は決してしない。まあ、自分の関わりない領域の話を詳しくされたって困るから、当然といえば当然のことだ。
 つい一週間前にはもう一人も交え、教室の喧騒に負けじと当たり障りのないことを話し合っていた。あの子と私は同じ部活だから、たまに後ろの席の彼女は置いてけぼりになったりした、朝や昼の雑談の時間。
 小林相子が学校を休んで、もう一週間になる。もう、というべきか、まだ、というべきか。会話の隅で悩んでみた。
 一週間。朝起きて学校に行って授業を受けて、部活のある日はそこそこ遅くなって、帰宅、勉強その他色々して就寝。いつもと変わらずそうやって流れた時間は、立ち止まらないと過ぎたのがわからないようなものだった。眠くなるような古典や世界史の授業、意見の集まらないロングホームルーム。そんな一日一日は気が遠くなるほど長いくせに、しかし、いざ振り返ってみると、一週間なんてあっという間だ。
 ただ、別の場所にいる相子が自分と同じ感覚なのかはわからない。間違いなく私、私たちとは別の時間を過ごした彼女にとって、この一週間は長かったか、短かったか。
 彼女は今どんな気持ちで時間を過ごしているのでしょうか?
 考えるうち、チャイムが鳴った。私は話と思考を切り上げ前に向き直り、ところどころ白く汚れの残る黒板を見つめた。

 いつもと変わらない、普通の一日を繰り返すのであれば、私はこの後部活動をして帰宅する予定だった。
 ただ、放課後教室を出て、隣のクラスの同じ部活の子と落ち合い、階段を下りて二階の美術室へと行く道すがら、急に魔が差した。自分とは逆方向をどたばたと騒がしく駆け上がっていく生徒を見ていたら、魔が差した。魔が差して、それに身を任せる気持ちが、唐突に押し寄せた。
「あ、今日やっぱり用事あるから部活休むね」
 階段半ばで、私は隣を歩く部活の友人にそう言った。友人が首を傾げるその前に、次の言葉を口にしていく。とっさのわりに、台詞も申し訳なさそうな笑顔もすらすらと出てきた。
「ちょっと……相子の顔見てくるよ」
「ん、ああ、そっか」
 友人は私の言葉に一瞬だけ反応が遅れるけれど、少し考えたら納得したようにうなずいてくれた。
「相子ちゃんもね、部長になったばっかりなのに……しょうがないよね」
「うん、ね……それじゃ、副部長。よろしく」
「わかった。相子ちゃんによろしくね」
「うん」
 それじゃあ、またねと手を振り合って、友人は二階の廊下へ、私は階段を下り続ける方へと進んでいく。一階の玄関で靴を脱いでいると、私と同じく帰る生徒の声が聞こえてきた。耳を澄まさずとも聞こえるその内容は、休み時間に教室内をぐるぐる回る会話の延長みたいなものなのだろう。いつもと同じ。平常運行。
 学校を出て、アスファルトの道をひとりで歩く。しばらく行くと大通りが見えてきて、私はその中へと足を延ばした。登校する時は住宅街を通って、ぎりぎりまで大通りには出ないようにしている。だけどこうしてひとりで帰る時は、店で賑わう大きな通りをぎりぎりまで眺めて、マンションに繋がる小道へと入っていくことが多かった。長くこの土地に住んでいるけれど、大通りの店々はいつの間にか看板が変わっていたりして、高三になった今でも飽きることなく見ていられる。この道を通るのは好きだった。
 大通りの途中、学校からは三十分くらいのところに、私の住むマンションとJRの駅がある。駅のさらに向こうを行けば、まだ続く商店の中に、大きな総合病院が建っている。
 今日、そこへ行くつもりは最初からなかった。
 相子の様子を見に病院へ行く、というのは単に一番最初に頭に浮かんだ言い訳。一番最初に出たそれが、一番自然にそれっぽく言うことができただけだ。
 とりあえず、もし嘘だとバレたらと考えてみるけれど、どうやらそもそもその心配がない優秀な言い訳のようだった。同じ部活の子たちがわざわざ、「あの日相子はどうだった」と訊くことなどきっとない。返ってくるのは、元気はなかったとか、おおかたそんな想像の範疇の答えで、それ以上を期待するのは酷だ。それくらいならば訊かなくたってわかるだろうし、聞かされたって無駄に雰囲気を重くするだけだと皆思うに決まっている。
 相子が登校するようになっても、私が何日にお見舞いに来て、何日には来なかったかなんてことは、わざわざ言うはずもない。そんな必要はないのだ。
 誰にも怪しまれることのないサボリ。考えてみて安心すると同時に、胸の奥に嫌な感じがした。息を吸い込むけれど、ずんぐりと灰色にかすむ空気は生ぬるく、入れ替わることなく肺の中に溜まるようだった。らちがあかない。
 気分の乗らなさの原因でもまたずらずら考えてみようかな、思ううち、視線の先に古本屋が映る。
 街にはいくつか、たいていお爺さんの経営するこぢんまりとした古本屋がある。ただそういった店は十何年変わらず建っているのが不思議なくらい人入りがなく、もっぱら利用されているのは今ここにある、大手チェーンの古本屋だった。個人経営のところよりはずっと棚も大きく通路も広く、整然と色々な本が並べられている。
 私はひとまずそこに入ることにした。店員さんが快活に「っしゃいませー」と声を張り上げるのを素通りし、入り口近くの漫画やCDの棚を見るともなしに見てから、奥の方の文庫本の棚へ。
 普通の本屋と違い、出版社でなく完全に作者ごとに並べられているのが未だになじめない古本屋の棚。立ち読みする人を避けながら、「な行」のプレートを探していく。
 私はもともとあまり本を読まない方で、三年ほど前からようやく、人からすすめられた作者を追うようになったくらいだった。本屋で新刊に目をつけておきつつ、買うのは古本屋に落ちたものを。積極的にお金はかけない、読書家なんてどれだけ間違っても言えやしない有様で、読んだ感想を伝えるのも下手。そんな体たらくだ。
 色とりどりの背表紙を流していくと、目当ての作者の、持っていなかった本が運よく見つかった。作者名とタイトルをよく確認してから、中身も見ずにレジへ。人が並んでなかなか順番が回ってこなかったので、本の裏のあらすじをなぞってみることにする。かなり漠然とした文章だけれど、過去に罪を犯したことを隠して生きてきた人間の顛末とか、そんな感じの話らしかった。
 会計を済ませ、「ありがとうございましたー」の声を背にドアをくぐる。店を出てからふっと思った。
 もしかしたら悪事というのは、露見する可能性がゼロの時はその時で、辛いのではないか。バレたり、捕まったりする可能性に怯えることはない。だけど、裁いてもらえないからこそ辛い。誰かに見つかって糾弾される方が楽で、それを心の底で望む人間は多いのではないか。
 私がさっき感じたのは、そんなちょっとした罪悪感だったのでしょうか?
 読んだ本や、観たドラマの中でそんな話があったのかもな、そう、いくらかまぎれた気持ちで再び大通りを歩いていく。ただ、今日はすぐに住宅街への道に入ってしまうことにした。商店の中に立つ鳥居が見えてきたところで、横道へ。部活をサボって、あまりふらふらするのも気が引けたのだ。
 細道を通って、繁華街とは一転した住宅街は、たまにおばさんとすれ違うくらいのもの。働く人々の帰宅時間より早いからか、いや、そもそも住む人の生活リズムがばらばらなせいなのか、考えてみればこの道に人通りが多いところなど目にしたことがなかった。少なくとも、朝と同じように閑散とした今。見上げる空も、朝とまるでおんなじ具合だ。
 上を向こうか、うつむこうか、迷うほどのことではないけれど、住宅街は私にとってそのくらい眺めていて面白味のない場所だった。だから適当に、視線をさまよわせるしかない。二階建て、三階建ての家々の中、歩調をゆるめると漂ってくる花粉の匂い。ふと通り過ぎるとむわっと鼻をつく悪臭。においから逃れるように顔を上げれば、相変わらず、雨は降らなさそうな曇り空。
 空から、目線を地面へと落とす、その途中だった。そこはもうマンション街の一角に差し掛かる手前、二階建ての古いアパートが目の前のところだった。そのアパートに隣接する駐輪場が目に入る。雨避けの屋根の下、乱雑に自転車が置かれている。
 自転車の奥に、誰かがいた。
 私は立ち止まった。それからしばらく駐輪場を注視し、音を立てぬよう一歩、踏み出す。
 動きながら、なにをしているのだろう、そう思った。
 奥にいる誰かの様子をわざわざ近寄って確認しようとしたのは、頭の中にそうやって疑問が湧いてしまったから。どう見ても自転車を取り出す風ではない、並ぶ錆びた自転車の奥で、しゃがみこんでなにかをしているその人。自転車の陰に隠れるようにして、なにかをする黒い背。
 他人がなにをしているのかいちいち確かめようとするなんて、なんともそう、魔が差した話だ。きっと今日はそんな日なのだろう。へこんだ自転車のかご、その向こうからかすかに聞こえる音に、働かせる必要のない好奇心をここぞとばかりに発揮してしまった。それだけだった。別に本当は特に知りたくもなかったし、放っておくべきだった。
 一歩、二歩、そろりそろりと距離を詰める。変に足が緊張し、心臓は高鳴るというほどでもないがぐるぐると胸のあたりが妙に渦巻いた。
 ついにその人の真後ろに着く。黒い背は、うちの高校の学ランだった。横には運動部が使うようなスポーツバッグ。彼の方から、がさがさとやたらに響く音がする。ビニール袋を広げる音?
 また一歩近づいたその時、靴が地面をざりっとこすってしまった。
 その人は、慌てたように振り向いた。
 目が合う前に、その人の背に隠れていたものが、見えてしまった。
 ビニール袋にしまおうとしていたのだろうか? それは、地面に無残に横たえられていた。無残に、と思ったその瞬間、私は「ひっ」と、喉の奥で短く悲鳴を上げていた。
「お前……」
 そう呼ぶ声に、ようやく私はその人と顔を合わせた。ああ、この人、同じクラスの人だ。思い出していく自分の頭がなんだか白々しい。
 だって私は、彼より先に、地面に転がるそれと目を合わせてしまったのだから。
 猫、だった。もこもこした白い毛のかたまり。赤い首輪が毛の中からのぞく。赤黒い喉、牙の見える口から、白くぷちぷちと泡を吹いている。頭のあたりの毛が、暗い赤紫色に染まっている。
 目が、ぎょろんと見開かれていた。くすんだ黄色の瞳が空っぽに宙を見つめている。
 死んだ猫の目を、私は思いきり見てしまっていた。
「宵見(よいみ)……絵空(えそら)?」
 猫の前にしゃがみ、彼は私の名を口にする。顔をこわばらせ、あからさまに「まずい」という様子を見せるクラスメート。その彼の名が、そういえば思い出せないことに気づくのは、だいぶ後になってからだった。


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