幸せになれない星の住人 1−2

幸せになれない星の住人

prev/top/next


1−2


 机の上に置いていた携帯がチカッと光ってから振動を始めた。バイブは派手に牛の鳴き声のような音を立て、周りの人がちらとこちらに視線をやる。僕は慌てて携帯を開き、受信したメールを確認することにした。
『クラスメートがたぶん、猫を殺しているところを見てしまいました。どうしたらいいでしょうか?』
 文面を何度もなぞる。最初は思わず深く眉根を寄せてしまったが、幾度も眺めていくうちにそれは解けていった。ふう、と溜め息をつく。
 どうしたら、とは、通報すべきとかそういうことを聞きたいのだろうか。仮に彼女が警察に連絡した場合、クラスメートとやらは器物損壊になるわけか? 動物愛護法違反? 確か彼女は今年高校三年になったばかりか。まあこの年齢だし、注意されて終わりとかその程度で済むのだろうか。いや、詳しいことは述べ得ないけれども。
 どう返信したものかな、と携帯をポケットに突っ込み、僕は席を立った。ノートや筆記用具は置いたまま、鞄を持って本棚の方へ。
 この時期、そして五限も最中のこの時間の大学図書館はえらく空いていた。人と隣り合わぬよう、人の正面にならぬよう、と席を探していくのは容易で、とても居心地がいい。難点は効き過ぎた冷房が肌に痛いことくらいか。座席を離れ本棚の方へ行けば多少はマシになるのだが。
 社会福祉と法律系の境い目あたりの棚に僕は目を通していく。昭和犯罪史、死刑制度の是非、人殺しのメカニズム、人殺しの独白、少年を殺す少年、少年犯罪の心理、少年A――ざっと探したものの、お目当ての本はないようだった。
 かの、十四歳の少年が児童を連続殺傷した事件。その少年の成育歴などについて詳しく書かれた本が、この棚には確かあったはずなのだ。事件について扱った他の本は何冊か置いてあったものの、僕が手に取ろうと思ったものはどうにも見当たらない。誰かが借りてしまったのだろうか。
 あの本では、少年の動物虐待癖について触れられていた。さっきのメールでそれを思い出し、また読んでみたくなったのだが。
 と、吐息をつこうとしたところで、ふと僕は思い出した。
 去年の秋頃だったろうか。あの日もまた、お目当ての本は見つからなかったのだ。

 大学へは電車一本で着けたので、地下鉄やバスにはもう何年も乗っていないし乗り場にも用はなかった。ただその日は、大学から歩いて行けるもののやや遠くの地下鉄駅方面に足を運んでいた。ある作家が何年も前に書いた本を探し古本屋を巡っていたものの、通学路上にある店は全滅、一縷の望みを託し普段は行かない古本屋を目指していたわけだ。
 結果は芳しくなかった。辿り着いた本屋は狭く、奥のレジに一人エプロンをした店員がいるのみ。店内は薄暗く、棚を無視して積まれた本はどれもページが黄ばんでいた。しかしながら、置いてある本は古書ともいえない中途半端なものだらけ。数年、十数年前に流行ったようなタイトルが並んでいて、完全な古書店よりかはフランクな印象を与えた。それに期待を膨らませるものの、間隔の狭い棚と棚の間を何回行き来しても、僕の探す若干マイナーな作者の本はない。僕は肩を落とし、レジでうつむいて何かを読んでいる店員を一瞥して、「今後ここに来ることはないかな」と思いながら店を出ることにした。
 その帰り道だった。車が絶えず往来する大きな道路、向こう側には何人かが通っていた。そして僕の通る道は丁度人が途切れていた。駐輪禁止の札を無視して置かれた自転車、JR線近辺よりは格段に寂れた店々を見るともなく見ていくうち、曲がり角から二つの影が現れたのだ。
 一つは、この近くの高校の制服を着た女の子だった。鞄を肩に下げ、足元ばかりを見て歩いている。距離もあって表情はよくうかがえない。肩くらいまで伸びた髪が、少しうねっているのがかろうじて見てとれた。
 もう一つは、女の子より少し遅れてやって来た。猫だった。スリムな体のキジトラ。首輪などはついておらず、どうやら野良のようだった。
 後ろからトテトテと、猫は女の子にあっという間に追いつく。女の子がふと足を止め、猫を見下ろした。
 僕は、野良猫といえば人の姿を見るなり駆け出すようなイメージを持っていたのだが、その猫は驚くことに女の子に合わせて足を止めた。そして、彼女を見上げてから、なんとその足にすりすりと頬ずりを始めたのだ。
 微笑ましい光景。そう思う暇もなかった。
 女の子はすり寄られたその足で、猫を思いきり蹴飛ばした。猫が喉を鳴らす間も与えず、傍目に見てなんら加減なく。そして恐らくは、何の躊躇もなく。
 猫は「ギァっ」と悲鳴を上げ、通りに面した店の壁に叩きつけられた。猫のすり寄った足がこちら側でよかったとは後になって思った。反対側の足だったら、走行車が絶えることなく続く道路に放り出されていたのだから。
 僕は息を呑み、気づかぬうちに立ち尽くしていた。そのうち、彼女が通り過ぎていく。彼女は、僕に目撃されたことを気にも留めず、いやいっそ、僕の存在になど気づいていないかのように、先程と変わらぬペースで歩いていった。
 真っ黒な、すこし癖のある髪。青いスカーフをつけた、真っ黒なセーラー服。
 すれ違う寸前に確認した彼女の顔は、どこまでも冷たく、またひどく不機嫌そうだった。
 猫は少ししたら、よろめきながらもまたさっきの曲がり角へと戻っていった。その背を見送ってからやっと、僕もそちらへと足を動かし始める。
 彼女の顔がしばらくは頭から離れなかった。氷のように、美しい少女だったなと考える自分に、少しだけ罪悪感を覚えた。

 あの、冬のにおいもまだない秋の日のことを思い出しながら、僕はメールを打った。
『動物を虐待、虐殺するような人間っていうのは、一体どういう人なんだろうね』
 返信をもらった彼女はどんな顔をするだろう。とりあえず回答をはぐらかされて面食らう、あるいは怒りを覚えるかもな、とは思う。ただ、これ以外に返す言葉が思いつかなかったのだから仕方ない。
 そういえば僕の人生において、動物嫌いという人間にはあまり出くわさなかった。積極的に可愛がらずとも、動物を見て顔を綻ばせるような人々が大半。去年まで所属していたサークルなど、特に猫は皆のお気に入りだった。作品に猫を出す時は、主人公の心を癒す存在だったり、道を示す神秘的な雰囲気を秘めた存在だったり、悪い扱いは許されないような風潮が確立されていた。
 風潮、というより、単に猫を虐げるべきものとして認識していなかっただけだろうか。可愛い可愛い愛玩動物を痛めつけたような経験はなく、周りにそういう奴もいないから、そんなことをする人間の気持ちがわからない。
 あの日猫を強かに蹴りつけた女の子は、どんな気持ちだったのだろう。
 本棚の前に突っ立っている自分があの時とまるで同じようだなと気づき、ポケットに携帯をしまってから席に戻った。ノートと筆記用具を鞄に入れ、今日はもう図書館を後にすることにする。
 ゲートをくぐり、外へ。一日中はっきりしなかった曇り空は暗さを帯びてきていた。時計を見ると、丁度五限が終わったあたりだ。図書館前の道を自転車で通り過ぎる姿がちらほらと見受けられた。
 僕はきょろきょろして、知り合いがいないことをよく確認してから、大学の正門の方角へと向かった。


prev/top/next
傘と胡椒 index



Copyright(c) 2014 senri agawa all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system