幸せになれない星の住人 12−2

幸せになれない星の住人

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12−2


「お前……何してんだ?」
 玄関にしゃがみ込んでいる姉に、呆然としながら俺は声をかけた。つつじは首を傾げてみせるが、その瞳は氷のように冷たい。とぼけるにしては雑だった。こんな目で猫を見下ろして。猫を。
 宵見が飼い猫のように可愛がっていた、黒猫を。
「おかえりサツキ。ずいぶんおそかったね」
「お前、何してんだよ!」
 気がついたら姉の両肩を乱暴につかんでいた。そうして、がくがくと揺する。こんなの何かの間違いであってほしい、ひたすらそう思いながら。
「何、勝手に殺してんだよ! よりにもよって」
「だって、いくらメールしても返事がこないから」
 そう言って、つつじはひょいと俺の携帯を掲げてみせた。今日忘れてしまった携帯。つつじはそれを開いて、画面を俺に突きつけた。
「返事がこないと思ったら、隣の部屋から音がしたの。それで見てみたら。ねえ、なにこれ?」
 良い写真が撮れたから、せっかくだし。そうやって、俺が何の気なしに待ち受けにした画像。
 その画像と同じ猫が、家の玄関で死んでいる。
 ――何の冗談だよ、これは。
「これ、絵空ちゃんも知ってる猫だね。絵空ちゃん、その猫の写真見て、かわいいかわいいってうれしそうな顔してた」
「……何なんだよ」
「ねえ。どうしてこんなの、待ち受けにしてるの?」
 俺に肩をつかまれたまま、携帯を突きつけて、つつじは首を傾げる。わけがわからないというように。自分が何をしたか、全くわかっていないかのように。
 俺は肩をつかむ手に力を込めた。握り潰すように力を込めて、喉からありったけの怒鳴り声を張り上げる。
「――っ何で、殺した! わざわざ画像の猫探したのか!? っんでそんなことするんだよ!」
「なんで猫なんてかわいがるの。猫の方が大事なの?」
「何っ馬鹿なこと言ってんだよ! そういう問題じゃねーだろ!」
「じゃあ、どういう問題なの」
 何度でもつつじの肩を揺さぶった。がくがくと、目眩がするくらいに。
 だけどつつじはいつまで経っても表情を変えない。俺が何を言っても、通じない。何を、やってるんだ、こいつは。
「この猫は、宵見が、絵空が大事にしてたんだぞ!? お前、絵空と楽しそうに」
「大事な猫なんて、いらないでしょう?」
 そう言ってつつじが首を傾げた瞬間、俺はその頬を思いきり殴り飛ばしていた。玄関から廊下へ、つつじの体が吹っ飛ぶ。
 俺は荒い息を吐きながら、どうしよう、と思った。
 絵空がもし黒猫が死んだことを知ってしまったら。あの猫をとてもとても大事にしていたあいつは、このことを知ったら。悲しむ、落胆する、元気をなくす。ああ、そんな言葉じゃ足りない。知ってしまったら、あいつは、あいつは。
 黒猫の体を抱き上げる。もしかしたら、少しでも息があったら。あるわけがないと頭のどこかでわかりながら、俺は猫の体を探る。猫の腹からは生々しい血と、赤黒い肉がのぞいている。赤い血が、俺の手につく。ああ。視界の端に包丁が映る。これで刺したのか。赤い血が刃についたまま。これで、何度も刺したのか。こんな、小さな猫を。絵空の大事な猫を。
 あいつがもし、猫がこんな惨い殺され方をしたと知ってしまったら。
「――ああ。絵空ちゃんには、ちゃんとメールしたからだいじょうぶだよ」
 その時。乾いた、あどけない声が耳に届いた。
 俺の考えを読んだかのように。つつじは、俺の携帯の、メール画面を広げた。宛名は『宵見絵空』、件名なし、本文なし、添付ファイル――猫の写真。
 俺の携帯から。つつじは、猫の惨殺写真を、送りつけた。まさか、このためにか? いつものように猫の顔を潰さなかったのは。
 絵空は、俺が猫を殺したと思う。
 絵空は。
 ――目の奥が真っ赤に爆発した。
 思考が、真っ赤な海に吹っ飛んだ。その瞬間俺はつつじに詰め寄り、その胸倉をつかんで拳を叩き込んでいた。


 初めは夢中だった。
 ただめちゃくちゃになった意識で怒りに任せて殴っていた。


 肉の感触がした。肉づきの薄い頬の感触。それが拳に溶け込む。拳に、生温かさを感じる。
 姉の感触がした。
 今はもう表情もわからないくらい潰れた、姉の顔。しかし元の顔は簡単に思い起こせる。氷のようだが、ひどく美しい顔。真っ黒なくせ、あどけない瞳。
 出会った時の胸の高鳴りを寸分も違えることなく思い出せる。
 俺は今その顔を殴っている。顔を殴りつくしたら腹を。黒いセーラー服の下、肉の感触が確かに拳に伝わる。やはり薄く、しかしやわらかい、姉の感触。
 俺の手が、姉を殴りつけている。
 姉の感触がする。


 ――姉の感触?


 我に返る。
 いや。少し前から、意識はちゃんとあった。自分が姉を殴っていると、ちゃんとわかっていた。
 最初は夢中だった。怒りで意識が吹き飛んで、怒りの標的の姉を殴っていた。
 ――途中からは?
 頭の中身がぐちゃぐちゃに踊り脳みそが揺さぶられている。視界がぐるぐる回って、それが楽しい。背骨を電撃が駆け抜ける。その確かな質感を伴った感覚が病みつきになる。全身が熱い。熱くて、心地いい。吐き出す荒い息さえ、気持ちがいい。
 俺は、笑っていた。
 口端を吊り上げ、恍惚と、姉を殴っていた。
 姉の感触を味わいつくし、これまでにないくらい激しく興奮していた。
 俺は。
 気づいた時には姉を殴るのが気持ちよくて、気持ちいいから、姉を殴っていたのだ。


 ああ。
 あの映画を思い出す。俺は、強く瞳に焼きつけられたあの映画、あのシーンと同じことをしていた。
 ――殴りたい。
 その欲求に溺れて、大人になる前に人を傷つけてしまった。祈っておいて、あっさりと負けた。
 俺はもう、きっとまともにはなれない。


 ああ。
 絵空。
 絵空。
 絵空、助けて。


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