幸せになれない星の住人 5−1

幸せになれない星の住人

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5−1


 五月の末から、毎回木曜日は活動後に松本さんと「相談」するのが続いていた。
「絵空先輩って、無難なこと言ってはぐらかすのが得意ですね」
 大学ノート(彼女曰くネタ帳)ではなくスケッチブックを広げ、美術室の窓から見える藍色の空とその下に広がる風景を鉛筆で軽く描いていく松本さん。彼女は悪気もなにもないような、ただ淡々とした口調でそんなことを言う。
 私も、彼女に苦笑いしながら言葉を返すのはもはや恒例行事となっていた。
「そうかな。はぐらかしてるつもりはないけど」
「優等生な返答して、内心は決して見せない感じ」
 松本さんと窓際に並びあい、雲の様子をスケッチする。放課後のさらに後のこの時間、私は学校祭に出す絵に手を加えることが多かったけれども、気分が乗らない時はこうして松本さんの真似をしてみたりもしていた。この度の辛口には特に口をはさまない。「そうですか」なんて、ふんわり嘆息してみせるだけに留めた。
 松本さんが私の特徴を述べてみせたり、質問してきたりするのが大半の空間。その下準備とばかりに、彼女が美術部中にも私を観察しているのはよく伝わってきた。そのことに対しても、松本さんの問いかけにも、私は現状では満足に「内心」を述べることはできていない。松本さんはそれでも、ひるむことなく視線と問いを重ねた。
 その空気に辟易して、私はたまにとんちんかんな話を振る。
「松本さん。動物をいじめたことってある?」
「はあ?」
「猫とか、殴ったり蹴飛ばしたり」
「あるわけないでしょう。まさか絵空先輩はやったことあるんですか」
 ばからしそうに私を見る松本さんの目が、少しだけ「この人ならやっているかもな」と歪められたのはさすがに心外だった。私は「こっちだってあるわけないよ」と肩をすくめつつはっきり首をふる。それをわかってくれたのかわかってくれなかったのか。
「そういうことをする人って、頭がおかしいんですよ」
 松本さんはすっぱりと切り捨てた。
 なるほど、こういうのが普通以下でも以上でもない感性というのか、と思う。
「……言われちゃってるよ」
「ん? また何か言いました?」
「ううん」
 松本さんにはね、とは心の中でつけ加えた。それに松本さんが口を尖らすのもまたお約束。そうするうちに空はどんどん暗くなるのだった。
 バスで帰る松本さんを見送ってから、私も帰路についていく。店々のライトが灯る大通りの方が明るくて人もいる。まだたいした時間ではないけれど、少し怖いのでひとりで帰る時の習慣をなぞるようにしていた。
 ぎりぎりまで商店街を通って、小道から暗い住宅街へ。マンションの多くの部屋が電気をつけているのが、やけにあたたかく光って見えた。
 と。
 きぅん、と細く高い音がして、私は目線を下にずらした。黒く染まる道路にまぎれそうでいて、淡く青色に光る瞳が確かに存在を主張する。
 あの黒猫に、今日も会えた。
「……こんばんは。よく会うね、嬉しいな」
 そう声をかけてみたら、黒い子猫はこちらをじぃっと見つめてからぱちくりとまばたきをした。近づいてしゃがみ、喉を撫でると、目を閉じてゴロゴロと音をたてる。その様子が気持ちよさそうで、こちらまで嬉しくなってしまった。
 思えば、出会ってから見かける時間はばらばらだった。野良で間違いはないのだろうが、あまり猫屋敷の主人の目につく場所にはいない。
 今日みたいな日に私の目の前に現れてくれる。まるで、私と波長でも合っているみたいで、そう考えるとさらに胸の奥があたたかくなった。
「じゃあ――またね」
 ひとしきり可愛がった後、立ち上がって子猫に別れを告げる。言葉を理解しようとするかのように、黒猫はにぅ? と首を傾げてから、私とは反対方向へととてとて進んでいった。

 六月中旬の美術部の日、ふと一年生の仲良し二人がこんなことを言いだした。
「相子先輩と絵空先輩ってすごく仲が良いですよね」
 隣り合って座っていた私と相子は、後輩二人に視線をやってから、きょとんと互いの顔を見合わせる。その動作が同時だったのを見て、後輩たちは声を出して笑った。
 この頃になると皆が色塗りを始めていて、美術室には独特のにおいがたちこめていた。窓を開けても換気が追いつかない、もわもわと室内に充満する絵具と油のにおい。一年生たちは慣れないそのかおりに鼻を曲げていたけれど、そろそろ平気になりかけてきたのか、こうして絵と関係ないことを話す余裕が生まれたようだった。
「幼馴染みだって聞きましたけど、いつから知り合いなんですか?」
「そうだねー、幼稚園入った時からだよね?」
「うん、確か」
 確かって、はっきりわからないくらい前からってことですかー、と一年生はきゃらきゃら笑う。
「同じ幼稚園に通ってたら、私の家と絵空のマンションがわりと近いってわかったんだね。それで、お互いの家で遊ぶようになったの」
「相子先輩のおうちってJR近くでしたっけ? 今度遊びに行ってもいいですかー?」
「うん、もちろん」
 相子はそう微笑んだが、一年生の片方は「あ」とわずかに顔をしかめた。もう片方の肩をつつき、小声でなにか言う。その様子でなんとなく、「相子先輩のうち、お母さんがまだ……」と二人が思い出したのがわかった。
 相子は学校に来るようになって以来、家のことは口にしないし弱音をはかない。私に対しては一緒に帰る時などにぽつぽつとお母さんの容体について話すが、それ以外の場所では笑顔を絶やさないように振る舞っていた。彼女たちが今の今まで忘れていたのも無理はない。
 そして相子は一年生の心配について気づいたのか否か、ちょこんと首を曲げるだけだった。
「高校入ってからはあんまりないけど、中学まではしょっちゅうお互いの家行き来してたよねー」
「そうそう。相子の家って、私の家よりずっとおもちゃが揃ってて、自分ちよりずっと楽しかった」
 言葉にすると同時に、最近は入ることのない相子の部屋を思い描いていた。うさぎやペンギンのぬいぐるみ、小さな動物家族のフィギュアシリーズ、その人形のための大きなおうち、魔法のロッド。小学校に入ってからはゲーム機が加わって、中学まででだいぶソフトは増えた。そのどれもが私の目には新しく映って、母に買って買ってとねだったものだ。結局、「何でも手に入るわけじゃないのよ」なんておざなりに諭されて、許可されたのはうさぎのぬいぐるみくらいのものだったけれど。
「そう? 私の方はずーっとマンションに憧れてて、絵空んち行くの楽しみで仕方なかったよ」
「あー、なんとなくわかります。普通の家に住んでると、マンションって別世界っていうか、とにかく中はどんな感じなのかなってすごく気になりますよね」
「ねー」
「まあ、住んでみると普通だよ? 特にうちなんてそんなに新しくないしね」
 そう述べる私に「そうなんですか」とだけ返し、一年生二人はまた気になっていたらしいことを挙げだす。私たちの小学校時代、中学校時代、二人して絵を始めたきっかけ。
 気がつけば話の輪は部員全体に広がっていて、三年生の副部長がにこにこしながら口をはさんだ。
「私は高校からの付き合いだけど、相子ちゃんとそらちゃんって、保護者とかそんな感じの関係みたい」
「えっ、どっちがっ?」
「そらちゃんが保護者で、相子ちゃんが保護される方」
「えーっ」
 相子が、一緒に抗議しようとばかりに私を向く。それに微苦笑する私に、相子は「裏切り者っ」と声をあげた。
「だって相子ちゃん、よく提出するプリントとか忘れてるの、そらちゃんに言われて気づいてるじゃない」
「それは、まあ……」
「ああ、相子先輩去年、そんなことやってましたよね」
「ええ、そうだけどっ……もう」
 恨みがましげに私にじとっと目線を送ってから、相子は今度は開き直ったようにぶちぶち言いだす。
「でも、絵空だって頼りないとこあるよー。すぐアガっちゃうもん。中学の時の美術部で、作品の解説とか皆の前でするやつあったじゃない? あれの当日とか、直前まで『どうしようどうしよう』って私の後ろでオドオドしてて、結局発表で噛みまくっちゃって」
「え、意外。絵空先輩、すごい落ち着いてるように見えるのに」
「テストとかもしょっちゅうアガってるよね」
「まあ、そうだね……よりにもよって受験とか、大事なのになると特に」
 眉を下げて笑顔を作る。相子の言う通りで、思い出すとなんとも情けないものだった。
「そうそう受験。絵空、頭いいからこの高校なんて余裕だったのに、入試の点数あんまよくなかったんだよね」
「うん。受験ってなるとあがっちゃって……もっと上の高校目指してたら、完全落ちてたなって」
「ま、なにはともあれ、私はずっと絵空と一緒の学校通えてよかったな。本当、大学も同じとこ行けるといいよね!」
「そうだね」
 力強く笑む相子に、私はそう返した。
 それからもおしゃべりは続いていき、きりのいい時間で皆して筆を止め、さよならを述べた。

「絵空先輩は、相子先輩のことが羨ましいんですか」
 その日も当然のように行われた放課後の部活動の追加活動。開口一番、松本さんはそう言った。
 起伏のない口調ながらはっきりと問われ、私は若干ぽかんとせざるをえなかった。
「えっと……確かに小さい頃は、相子の家はいっぱいおもちゃ買ってもらっていいなって、ずっと思ってたよ」
「まあ、そういうこともありますけど」
 本当に聞きたいのはそういうことじゃない。
 言外に、そうありありと伝わる言い方をしてから、松本さんはくいっと眼鏡を上げた。そうしてやや唐突に、話の矛先を変えてみせる。
「他の一年生二人、今日、明らかに相子先輩のことを聞きたがってましたよね」
 松本さんの表情は淡々としている。ただ、それはさながら今日の曇り空のようで、今にも雨が降りそうな。なにか孕んでいるのは確実な、静けさだった。
 私は学祭に出す作品に筆を走らせる手を一時的に止め、松本さんを見つめていた。
「……そう?」
「二人のこと二人のことって言いながら、本当に聞きたいのは相子先輩のことですけどねって感じだったじゃないですか。相子先輩が喋る時と絵空先輩が喋る時とで、まるで反応の温度が違います」
 私とは真逆ですね、と松本さんは口元を歪めた。彼女はもはや完全に、部活動後も置いたままのキャンバスからは目をそらしていた。
 松本さんは美術部の活動中、ずっと黙っている。今日の雑談の中でも、唯一輪に入ることなく、黙々と作業を進めていた。ただ、没頭していたというわけではないのだろう。
 彼女はずっと、監視の目をゆるめなかったのだ。
「絵空先輩と相子先輩は、中学から美術部に入って油絵を始めたんですよね」
「うん、そう。さっきも言ったけど」
「絵空先輩は、どうして油絵に興味を持ったんですか?」
 また話が飛んだな、と私はいぶかしげに彼女を見る。松本さんは私の視線に反応を返すことなく、ただ返答を待っている。やれやれと、私は一言一言つむぐように口を開く。
「そうだね……元々、イラストとか描くのは好きだったんだけど、油絵はゆっくりできそうだったから」
「慌てて緊張することもなさそうで?」
「そうだね。ご名答」
「で、相子先輩は絵空先輩がやるのを見て、興味を示した?」
 松本さんは、にやりとそう言い当てた。
 さすが、それなりによく見ているじゃないかと思わなくもない。拍手を送りたいという程でもないが、私は少しだけ感心していた。
「そう。確かに相子のきっかけは私だったね。だけど、一度やりだしたら、相子は自分でのめり込んでいったよ。相子の描く絵は、本当に、楽しそうなんだなっていうのが伝わってくる」
「絵空先輩は絵を描くの、楽しくないんですか」
「楽しいし、好きだよ」
「そのわりに陰鬱な絵ですけどね」
 悪意など一切ない風に、松本さんはさらっと言う。そう淡々と口にされては、こちらも反論できなくて困る。松本さんに手厳しくなにかを言われる時、いつも私はそう苦笑いしてしまいたくなる。
 それで、と松本さんは筆を完全に置いて、私を見据えた。
「相子先輩は絵空先輩と一緒に油絵を始めたわけですよね。相子先輩の絵は結構すごいんだと思います。私は好みじゃないですけど。去年も賞獲ったりしてたんですって? 一年生二人も、すっかり相子先輩に夢中ですね」
 眼鏡の奥、目元がわずかにゆるんだ。
 間違いない。松本さんは私が苦笑まじりに「そうだよ」とうなずくのを確信して、こんなことを断言するのだ。
「絵空先輩は、相子先輩のことが羨ましいんですよね。下手したら、妬んでたりするんじゃないですか」
「……どうかな」
 口ごもるようにつぶやくと、松本あきらは勝負に勝ったとばかりに笑みを深くした。
 ひとまずは満足したのか、そこで会話という名の探り入れは途切れた。まだ、いつも帰る準備を始める時間よりかは早かったので、二人してパレットをつつき、キャンバスに色を載せていく。
 なんとなくこのまま今日は終わるのかな、と期待していたら、松本さんが気まぐれに口を開いた。
「それにしても、絵空先輩はどうして空の絵ばかり描くんですか。ナルシストですか」
「……そう言われたら身もフタもないけど。単純に、空が好きなの。絵に描くなら空がいいって、ずっと思ってた」
「そうなんですか。ああ、それともう一つ、大事なことを訊き忘れてました。絵空先輩の名前の由来っていうか、親は何を考えてそんな名前をつけたんですか?」
 私の名前や親をばかにしてみせるだとか、そういうところに松本さんの真意がないのはわかっている。ただ、もう少し控え目な調子にした方が私の受けはいいんじゃないかとか、そういうことを考慮する気はないのだろうか。そう提案してみるのも悪くない気はした。
 それについては秘めておいて、質問に答えることにする。できるだけさらりと響くよう、軽い口調を目指して。私は自分の名を解説する。
「母親が、絵空事のように素晴らしい人生を送れるといいねって。そんな願いを込めて、命名したんだって」
「なるほど」
 そう言われると悪い名前ではないかもしれませんね。つぶやいた後、松本あきらは、おそらく何の気なしにこう続けた。
「でもそれだと、むしろ相子先輩の方がお似合いな名前ですね」


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