幸せになれない星の住人 6−1

幸せになれない星の住人

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6−1


 この前の会話が、いわゆる伏線というものだったのかもしれない。実際、私がそれに気づいたのは、先週相子とともに質問攻めにあった時のことをふと思い出したからだった。
「ねえ相子、学祭の展示の、教室使用申請書出した?」
「あっ」
 六月最後の木曜日の昼休み。クラスの子とお弁当を広げる中、私の隣の相子は軽く叫んでからみるみる顔を真っ青にしていった。
「だ、出した記憶ない……うあ、えっとえっと」
 箸を乱暴に置いて、自分の鞄の中をあさる相子。プリント類を収めたファイルから一枚一枚確認していき、
「あっ……た」
 はたして、各部活の部長が提出する、学校祭のための教室使用申請書は顔を出した。こうなるとお昼をともにしていた子たちも心配そうにこちらを見つめるようになる。相子はプリントの一番下に記された提出期限をなぞって、慌てだした。
「ど、どうしよう、期限先週……」
「うっわあー……」
「相子ちゃん……」
 泣きそうな声を出す相子に、他の子もハラハラと顔を歪める。そんな中で私だけが、一応冷静にできているようだった。努めて優しい口調で、なだめるように言う。
「とりあえず、今から謝りに行こう? 大丈夫だって、使うのどうせ美術室だし。学祭の教室割り当て会議自体はだいぶ前にやったんでしょ? 書類提出してないだけならどうにでもなるって」
「え、絵空ぁ……」
 すがるような瞳を相子は私に向けた。笑顔をつくり、「とにかく、早く行こう」とうながす。そうして他の子には失礼して、私たちは生徒会室へと向かうのだった。

「で、泣きついたらあっさりOKだったんですか」
「うん。会長さん、『小林さんの絵が観れないのは困りますからね』なんて笑ってたよ」
「泣ける話ですね」
 感慨もなさそうに言う松本さんがなんだかおかしかった。
 例によって美術部活動後の部室。今週からは私も含め、木曜日以外にも美術室に顔を出す子は増えたけれども、部活動の本来の時間をはみ出して居残るのは私たちくらいのものだった。
 学校祭の絵はほぼ完成している。後はぎりぎりまで手直しするだけ。私はキャンバスを少し離れて見たりしながら、慎重に絵具を練っていた。
「皆、学校祭の作品をそのまま秋のコンクールに出すんですよね」
「そうだね。今年は松本さんくらいかな、夏休み使ってもう一作っていう人は」
 秋のコンクールは夏休み明けすぐ、九月の頭に行われた。学校祭後時間はあるものの、テストなどもありそれからすぐ夏休み、新しく描き下ろすかは各自の判断に任せるということになっていた。去年も、夏休みに美術室に足しげく通っていたのは私と相子の二人だけだった。
 松本さんは学校祭の絵にはもう興味がないらしく、この前色を塗り終えてからはずっと、私を尻目にスケッチブックと大学ノートに向かっている。
「……その、ネタ帳っていうの、どんなことが書いてあるの?」
「はあ? 教えませんよそんなの」
 呆れたように、松本さんは眼鏡に手を当てる。これ以上触れることは許さないような雰囲気をまとっていた。こちらはこちらでなぜか子供でも見ているような心地になって、あえて触れるような真似をしてしまう。
「私のことも、わざわざ書いてるんだ?」
「……見せませんよ。それに、どうせ解読できないですし」
 そんな、暗号みたいなものなんですか?
 頭の中で問いかけながら、笑っていた。それに対し松本さんは、眉を寄せてからそっぽを向いてしまう。
 そこからは、いつも通りの展開だった。
「絵空先輩は、もう一作描かないんですね」
「うん。一応今年は受験生だしね」
「って言っても、E大なんでしょう?」
 科目数も少ないしレベルも……と、松本さんはじとっとした目を向けてきた。
 一応、この高校でも三年生は夏休みに夏期講習がある。ただ、申し訳程度もいいところで、ほんの数日間だし希望者制。上位校を受験するつもりの生徒は、学校などではなく塾の講習を受けるのが普通だった。
 塾へ行く許可が母から降りることはなかった。
 松本さんにも、いや、N大のことは誰にも話していない。だから、本当に受けようとするならば、自力で頑張るしかなかった。
 ――期待しない方がいいよ。
 そんな言葉がよみがえるけども。
「それにしても、相変わらず陰鬱な絵ですね」
 と、松本さんがいつの間にかノートを机に置き去りに、窓際の私の背後に回っていた。しげしげとキャンバスを眺め、あどけない声でそんなことを漏らす。
「そんなに暗く見える?」
「暗いというより、陰鬱です」
 それはいったいどう違うのか? 問いかけたら松本さんの辛い言葉が飛んできそうだったので、私はわかったふりをすることにした。
「黒猫ですか」
「そう。猫、好きなんだ」
 おおざっぱに答えておく。
 今回の絵の構図は、かなり早い段階で決まっていた。あの黒い子猫を取り入れたい、そう思ったら画面はすらすらと浮かんできた。窓際でおすましするブルーの瞳の黒猫と、猫の瞳と同じ色の青空。青と黒だらけになりそうなところを、白い雲の位置でバランスをとったり壁の塗り方に凝ってみたり、他の色をさりげなく混ぜてみたり油の量を調整したりして、単調にならないよう工夫したつもりだった。
「黒猫はまあ、モチーフとしては不吉っぽいけど可愛いです。なんていうか、空が物寂しい感じっていうか」
「へえ」
「孤独、卑屈、羨望――そんな言葉を想起させますね」
 それは、穿った見方をするからなのでは?
 言っても無駄そうなので心に秘めておく。だけど胸に一物あるように映ってしまったのか、松本さんの目が光った。これもまた、お馴染みの展開。
「それにしても。相子先輩ってズルいですよね」
「相子が?」
 椅子を運んできて、私の隣に腰掛けながら、松本さんは続けた。
「この前も言ってましたけど、提出し忘れとか多い方なんでしょう? だけど、最後にはどうにかなる」
「ものすごく謝るから、だけど」
「謝れば、挽回のチャンスを与えられるんです。失敗しても次に成功すれば許される。いえ、成功するところを見せることを、望まれている」
 それは、さっきの「小林さんの絵が観られないのは困るからね」という、生徒会長のジョークを踏まえた言い方なのか。色々と、口をはさみたげな私の様子を察しつつ遮るように、松本さんは早口に言い募った。
「美大を目指す程ではないにせよ、周囲にチヤホヤされる程度には絵の才能に恵まれている。書類提出忘れなんて明らかに部長失格なことをやっておいて、後輩も会長も笑って済ませる。小林相子なら、仕方ない。皆がそう思って、優しく許す。もちろん、それは絵の才能云々だけの話ではありませんね。小林相子がいないとつまらない、小林相子が姿を見せれば『よかった』、小林相子に教わりたい、小林相子のことが知りたい。人徳とでも言うんでしょうか」
「なんだか、すごく相子のこと、持ち上げるんだね」
「持ち上げてるのは美術部一同含め周囲の人間です。小林相子は、幸せになるべきだ。周囲の人間が皆そう思っているんです。そしてそういう人って、きっと幸せになっちゃうんですよ。幸せになれる星の住人なんです。だから、ズルいです」
 幸せを望まれる人間。そういう人間こそが、幸せになれる人間、幸せになれる星の住人?
 ふと、四月の末に買った、未だに読み終えていないあの小説を思い出した。過去に罪を犯した人間に救いはあるのか。
 どんな物語であっても、最後に一筋の希望を与える作者。あの小説の主人公は、最後には許されるのか?
「努力すればちゃんと報われる――っていうより、努力する土台が与えられるんでしょうね。あの子には与えないとかわいそう。あの子なら与えれば素晴らしいことを成し遂げる。まるで神様に愛されてるみたいな、物語の主人公みたいです……きっと、お母様も元気になられてハッピーエンドなんでしょうね」
 相子が学校を休んでいた時期ですら知らんぷりのような空気をまとっていた松本さんは、一応相子のお母さんのことを気にかけていたのか。
 彼女もまた、相子のお母さん――いや、相子の幸せを望む一人なのか。
「……松本さんは、幸せになれる星の住人じゃないの?」
「さあ? まあ、私の物語の主人公が私なのは間違いないです」
 わかるようなわからないようなことを言う松本さんだった。私は苦笑し、青い絵の具が多く載ったパレットに目を細める。
 幸せになれる人間となれない人間という風に人はわけられるのか。
 幸せになれる星の住人となれない星の住人というのは、存在すると思いますか?
 漏れ出た苦笑いを、キャンバスの青が吸い込んでいくような気がした。

 そうこうする間に時間は過ぎ、七月初めの週、二日間に渡る学校祭は始まった。
 一般教室を利用した、手抜きの迷路などを相子らと回りつくす。それがすぐ終わってしまったので、次はのんびりとイラスト研究会の展示や古本市を見たりする。その頃には三時を回っていて、私は「疲れたから」と断ってひとりで美術室に赴いた。
 机がどけられ、教室いっぱいにキャンバスを乗せたイーゼルの並べられた室内。まだ連日使われた油絵具のにおいがわずかに残るせいなのか、人の姿は見えなかった。椅子もないし、休憩に立ち寄るのなら他の場所の方がまし。そんな具合なのだろうか。
 外はよく晴れていて、美術室内には明るい光が差し込んでいた。その中に置かれた絵は、てんでばらばら、どれも違う雰囲気をまとっていた。同じレモンとビンを描いたはずの二作ですら、レモンの形や色合いはずいぶん異なっているように見える。
 隣同士並べられた私の絵と相子の絵も、全然違うもの。
「絵空、いる……?」
 絵の前で立ちつくしていた、その時、入口の方から弱い声が届いた。振り返るとそこには顔を真っ赤にした相子がいた。
「相子? どうしたの?」
「絵空……私……」
 相子は私が離れる直前、クラスの男子に一緒に回らないかと誘われて快く応じていた。確かその男子は、城原くんの友達の一人だった気がする。放課後教室に集まる一員、だけど感じは悪くない。そんな人だった。
 人の寄りつかない天文部の展示に足を運んだ時、その彼に「小林のことが好きだ」と言われたという。相子はそう、混乱しきったような調子で説明した。
「それで、どうしたの?」
「私、びっくりしちゃってろくに反応できなくて……『二人でって誘われた時点で気づけよ』って怒られちゃったよ……」
「それで?」
「もちろん、断ったよ。だって……」
 相子はもじもじとスカートの裾をつかみながら、赤い顔を伏せる。口元が動いたようだが、なにを言ったかはわからない。
 相子? と私が囁きかけると、なおもうつむいたまま、か細い声が響いた。
「今は、それどころじゃないから……」
 ――なるほどな、と切ない気持ちになった。
 一応受験生で、あまり休んでもいられないから学校には行く。部長だから美術部には顔を出さなければならないし、部員のことを気にかけるのも当然だし、学校祭の作品だってちゃんと描くべきだ。
 だけど相子は今、それ以外、義務じゃないことは極力控えている。去年の今時期なら「あの映画、夏休み公開だから絶対行こうね!」と盛んにはしゃいでいた声が、今年はしない。後輩に家に来てもいいと快諾したが、それが社交辞令に過ぎないと誰もがわかっている。学校祭の作品製作も、木曜以外の日に顔を出さずに通したのは相子だけだった。それでも皆の期待を裏切らず、今まで以上のものを仕上げたのはさすがだと思う。
 あの時の言葉が、そのまま重なる。「進路とか、今、ちょっと考えらんない感じ……」
「――大丈夫だよ」
「え……?」
 私は相子の下がった頭を見つめながら、語りかけた。
「きっと今に、良くなるから」
 まるで松本あきらの受け売りだった。
 きっと相子に待っているのはハッピーエンド。思えばいつも、彼女はそうだった。私はそんな彼女を、ずっと見てきたのだ。本当、あの鼻持ちならない一年生の観察眼もあなどれないものだと思う。
「絵空……」
 相子は顔を上げて、うるんだ瞳を私に向けた。
 今に、どうせ、「考えられるようになる」、「『それどころ』になる」。そうなんだろうなと考えていると、相子は一粒涙をこぼした。


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